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第62話

 怪奇小説に登場するような(やから)が、ギザギザに尖った歯を剝いて、いただきますと言いたげに這いずり寄ってくるのだ。背筋が凍るとは、このことだ。 「おっ、おれ、筋張ってて不味いから。食べるとおなかをこわす、絶対こわす!」  岩肌を伝って砂地に流れ込んできた雨水が、ひたひたと(くるぶし)を洗う。ハルトは櫂を振りかぶって水妖を牽制しつつ、岩壁を斜めに走る割れ目を盗み見た。  おれは瘦せっぽちで、かなり狭い隙間もくぐり抜けられる。あの割れ目の奥が洞窟の外へつづく隘路かもしれない可能性に賭けて、もぐり込んで、水妖を振り切る作戦でいこうか。だが行き止まりだったときは、まさしく袋の(ねずみ)。  黒々とした双眸が決意に燃えた。水妖を撃退するほうが手っ取り早い。  と、いってもぶん殴るのは可哀想だ。再び櫂を振りあげたところで、ためらう。 「どいてほしいだけなんだ。ちょこんと当てるだけにしとくから、ごめんね」  そう断ったうえで、そろそろと櫂を振り下ろした。ところが肩口をペチンといくつもりが狙いが逸れて、岩壁をぶっ叩いてしまった。  はずみで櫂がすっぽ抜けた。おまけに、水妖の背後へくるくると飛んでいく。武器を失ってご愁傷さまと、せせら笑うように肌と鱗の境目が波打った。そして口が大きく裂けた。  ──あやつらの鳴き声はヒトを幻惑して、ぽうっとなっているのを湖中に引きずり込んでガツガツと貪り食らう。  メイヤーの弁によると、こうだ。ハルトは耳に指で栓をした。水妖の鳴き声に、本当にヒトを呪縛する力があるなら用心してかからないと。  オタマジャクシは後ろ足が生えると俄然、動きが活発になる。それと同じ理屈だ。水妖にとって水が溜まった砂地は活動域が広がることを意味して、すり鉢状に窪んだ中心部に差しかかるほど動きがなめらかになる。しなやかに魚類もどきの下肢をくねらせて迫りくるさまは、あたかも獲物めがけて急降下する猛禽のよう。 「とおせんぼして、あざとい……!」  下穿き一枚の恰好でちょこまかと逃げ回り、ただし、これでは水妖をだしぬいて正面突破を図るのは難しい。なので活路を開くべく、ひとまず縦方向に移動することにした。  早速、岩壁のわずかな出っ張りやら窪みやらに指を引っかけ、爪先をこじ入れて、よじ登る。庇のように張り出したに転がり込んだ直後、 「──、──、──!」  嫋々(じょうじょう)とこだまするそれは、鳴き声というより黒板を鉄片で力一杯こすったような不協和音の連なりだ。

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