64 / 143
第64話
ぎくりとして〝皿〟が軋めいた。まさか遅きに失したのか。横波を食らうかして小舟が傾いたはずみに水路に落ちて、それを奔流がさらっていったあとだというのか。
イスキアは己の小舟がひっくり返る危険を顧みず、すっくと立ちあがった。ランタンを掲げて、ざんざんと降りしきる雨のヴェールに瞳を凝らす。
ひとわたり確かめたかぎり、それらしき大きさのものが浮いたり沈んだりしている様子はない。だからといって一安心とはいかないまでも、捜索を再開すべく横板に座りなおしたせつな、
「イ……ス、ア……食……れ……お願……から!」
弾かれたようにあたりを見回した。ハルトが他でもない、このわたしに助けを求めている。恋情と誇らしさをない交ぜに勇み立ち、日ごろは慎ましやかに指の間に折りたたまれている膜が、より泳ぐのに適した大きさへと広がった。
叫び声の残響を頼りに舳先 をそちらへ向ける間もつぎつぎと波が砕け、あるいは船べりを越えて襲いかかってきて、小舟を岸から遠ざけるのがもどかしい。
「ええい、面倒くさい!」
水路に飛び込んだ。へし折られて流されてきた鋭い枝が、槍と化したように長衣を切り裂く。流木が、棍棒で殴られたような衝撃をもたらす。だが想い人が危機に瀕しているとおぼしいときに、痛いだの痒いだのと言っていられるか。
水路はもともと川の流れを活かして整備したものであるだけに、深間も、水底で複雑に渦を巻いている箇所もある。等身大の案山子 が渦に捕らわれてくるくると踊っているのを尻目に、力強く水を搔く。
岸にあがるが早いか、びしょ濡れの長衣もそのままに、入り江に至る斜面を駆け下りる。緑がかった金髪が精悍さを増して見える面 を縁取るさまは、思い描いた通り〝白馬に乗った騎士参上の図〟と、いったところだ。
入り江はなかば湖水に没して、汀 との境すらアヤフヤだ。イスキアは篠突く雨を浴びて凛と立ち、漏斗 の形に丸めた両手を口許にあてがって、叫んだ。
「どこにいるのだ、ハ……っ!」
急性の失語症にかかったように〝ハルト〟の三音 に限ってなめらかに出てこないのが、なんともはやだった。
それでも、焦燥感に〝皿〟がひりつく思いを味わいながら、馬蹄型に切れ込んだ一帯を見渡す。すると今しも稲光に景色が青白く染め替えられるなか、背後にそびえ立つ崖が浮かびあがった。
湖水と雨水が先を競って流れ込む、あの岩の裂け目は洞窟の入り口だ。なるほど、嵐をやり過ごすにはもってこいの場所だが──、
「……ス……アーっ!」
ここでも愛の力がものを言った。ハルトは間違いなく洞窟の中にいる。絶叫するほどの窮地に立たされている、と確信を抱いた。
「おのれえ……っ!」
イスキアは眦 を決した。恐らくハルトは水妖に遭遇して、今まさにヒト食いの脅威にさらされているのだ。
別の意味で食べちゃいたい愛しの君を、おやつ扱いするとは不届き千万。不逞の輩 に必殺の一撃をおみまいしてくれる、と背中にくくりつけてきた銛を手に、水しぶきをあげて入り口へ急ぐ。
ともだちにシェアしよう!