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第64話

 ぎくりとして〝皿〟が軋めいた。まさか遅きに失したのか。横波を食らうかして小舟が傾いたはずみに水路に落ちて、それを奔流がさらっていったあとだというのか。  イスキアは己の小舟がひっくり返る危険を顧みず、すっくと立ちあがった。ランタンを掲げて、ざんざんと降りしきる雨のヴェールに瞳を凝らす。  ひとわたり確かめたかぎり、が浮いたり沈んだりしている様子はない。だからといって一安心とはいかないまでも、捜索を再開すべく横板に座りなおしたせつな、 「イ……ス、ア……食……れ……お願……から!」  弾かれたようにあたりを見回した。ハルトが他でもない、このわたしに助けを求めている。恋情と誇らしさをない交ぜに勇み立ち、日ごろは慎ましやかに指の間に折りたたまれている膜が、より泳ぐのに適した大きさへと広がった。  叫び声の残響を頼りに舳先(へさき)をそちらへ向ける間もつぎつぎと波が砕け、あるいは船べりを越えて襲いかかってきて、小舟を岸から遠ざけるのがもどかしい。 「ええい、面倒くさい!」  水路に飛び込んだ。へし折られて流されてきた鋭い枝が、槍と化したように長衣を切り裂く。流木が、棍棒で殴られたような衝撃をもたらす。だが想い人が危機に瀕しているとおぼしいときに、痛いだの痒いだのと言っていられるか。  水路はもともと川の流れを活かして整備したものであるだけに、深間も、水底で複雑に渦を巻いている箇所もある。等身大の案山子(かかし)が渦に捕らわれてくるくると踊っているのを尻目に、力強く水を搔く。  岸にあがるが早いか、びしょ濡れの長衣もそのままに、入り江に至る斜面を駆け下りる。緑がかった金髪が精悍さを増して見える(おもて)を縁取るさまは、思い描いた通り〝白馬に乗った騎士参上の図〟と、いったところだ。  入り江はなかば湖水に没して、(みぎわ)との境すらアヤフヤだ。イスキアは篠突く雨を浴びて凛と立ち、漏斗(じょうご)の形に丸めた両手を口許にあてがって、叫んだ。 「どこにいるのだ、ハ……っ!」  急性の失語症にかかったように〝ハルト〟の三音(さんおん)に限ってなめらかに出てこないのが、なんともだった。  それでも、焦燥感に〝皿〟がひりつく思いを味わいながら、馬蹄型に切れ込んだ一帯を見渡す。すると今しも稲光に景色が青白く染め替えられるなか、背後にそびえ立つ崖が浮かびあがった。  湖水と雨水が先を競って流れ込む、あの岩の裂け目は洞窟の入り口だ。なるほど、嵐をやり過ごすにはもってこいの場所だが──、 「……ス……アーっ!」  ここでも愛の力がものを言った。ハルトは間違いなく洞窟の中にいる。絶叫するほどの窮地に立たされている、と確信を抱いた。 「おのれえ……っ!」  イスキアは(まなじり)を決した。恐らくハルトは水妖に遭遇して、今まさにヒト食いの脅威にさらされているのだ。  別の意味で食べちゃいたい愛しの君を、おやつ扱いするとは不届き千万。不逞の(やから)に必殺の一撃をおみまいしてくれる、と背中にくくりつけてきた銛を手に、水しぶきをあげて入り口へ急ぐ。

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