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第67話
「待った、ちょっと待った! 殺しちゃダメ、可哀想だろ、ダメ!」
ハルトは棚からすべり降りるのももどかしく、イスキアに駆け寄った。反動をつけるため後ろへ引かれた腕を、爪先立ちになって握りしめる。
「こやつは、そなたに無礼を働くという大罪を犯した。命乞いなど無用、八つ裂きにしても飽き足らぬ」
「ひどいことしちゃ、ダメだってば!」
鮮血──といっても青黒いそれが水たまりにマーブル模様を描くさまに、胸がつきりと痛む。ハルトはしゃにむに銛をもぎ取ろうとして、ところが魔の声による後遺症だ。
よろけて、ぱふんとイスキアに抱きつく形になり、キュウリ系の爽やかな香りに包まれると、うれしさとホッとしたのをない交ぜに、こうせずにはいられない。淋しがり屋の猫のように長衣に頬をすりつけて、それでも語勢を強めた。
「羊飼いは無駄な殺生はしない。説教して、もう誰も襲わないと約束させて解放するのが恨みっこなしでいいと思う」
「甘い! わたしには領国の民が安心して暮らせるよう危険分子を排除する責任があり、水妖を根絶やしにするのもその一環……」
と、滔々とまくしたてていたのがウッと詰まった。イスキアは〝皿〟が焼け焦げるように感じて、濡れそぼった長衣の袖を急いで押し当てた。
怒り狂っているあまり気づくのが遅れた。下穿きを着けているきりのほぼ全裸という姿でしがみついてくるとは嵐を衝いて助けにきたことへの褒美、いや、はしたない。
だいたい下穿きじたい薄絹を仕立てたもの。瞳を凝らさずとも性器の輪郭を独りでにたどってしまい、かぶりつきで見たい、鎮まれと、せめぎ合う。咳払いと深呼吸を交互にしたうえで鹿爪らしげに言葉を継いだ。
「ここで下手に情けをかけたばかりに、こやつらが狩りに励んだとする。つぎつぎと犠牲者が出た場合、咎 を受けるのは水妖のみか? 綺麗事を並べた者は知らんぷりが許されるのか」
反対の手に銛を持ち替えるそばから、イスキアはてめえで、てめえをボコボコにしてやりたくなった。一歩間違えば、食い荒らされた肢体を発見する羽目に陥っていた、という悲惨な結末を迎えていたかもしれないのだ。ハルトの無事を祝う意味でも、溺愛道の教えからいっても、ありったけの情熱を込めて抱きしめるのが正解のはず。
せっかくの見せ場だというのに正論をぶって雰囲気を台無しにするとは、片恋こじらせ三十路童貞男を呪縛するものは、かくも強力なのか。
ともあれ長衣を脱ぐと、うっかり柔肌に触れてしまわぬよう慎重に(やせ我慢を張るとも言うが)、裸身に着せかけた。
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