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第71話

「あのさ……捜しにきてくれて、ありがと」  そう、ぼそぼそと紡ぐ声が背後にくぐもる。イスキアは肩越しに振り向き、危うくデレデレと笑み崩れそうになった。  照れ隠しだということが丸わかりな、ふくれっ面の愛らしいことといったら、もはや犯罪級。雪崩を打つ寸前まで〝ときめき〟がうずたかく積まれていたところに、さらなる〝ときめき〟が、どどんと積み重なった現在(いま)、抱きしめて返す以外の選択肢があるのか、いいや、ない!   またもや、やせ我慢を張ってせっかくの好機をフイにするのは愚の骨頂ではないのか、その通り!  イスキアは即、実行に移した。屁理屈をこねて結局、くちづけの(てつ)を踏まなかったのは正しい判断であった、と負け惜しみを言う羽目に陥っていた可能性が高い彼にしては異例の素早さでもって。  苦しがってジタバタしてもおかまいなしに、ありったけの力でかき抱くとともに熱っぽく囁く。 「そなたの身にもしものことがあれば、わたしも生きてはおらぬ。偽らざる本心だ」  科白じたいは百点満点だ。だが仏頂面で、且つ棒読みときては大減点は免れない。それでも申し訳程度とはいえ躰をあずけてきたあたり、多少なりとも心の琴線に触れるものがあったに違いない。溺愛道を学んできたのは決して無駄ではなかったのだ。    かたやハルトは心境の変化に戸惑っていた。真冬の草原は荒涼として寒々しい。時に吹雪いて何日もの間、灰褐色にけぶる世界の片隅で息をひそめて過ごすことになる。  厳しい季節を越せなかった何頭かの羊を埋葬したころ、やわらかな雨が降りはじめる。ふくよかに土の香りが立ちのぼり、それを境にして大地が萌え、やがて景色が一変する。  草原は再び緑の絨毯を敷き詰めたように華やぎ、ヒナギクやスミレが彩りを添える。  自然の摂理──それに匹敵するほどの劇的な変化が自分の中で起こりはじめている?  錯覚だ、とハルトはかぶりを振った。()めるように視線を上にずらしていくと、なぜだか心の奥底で産声をあげるものがある。  コンゼンコーショーに持ち込まれる危険性がなきにしもあらずな許婚という間柄とはいえ、男同士の気安さからさっきまで別になんとも思わなかった。なのに知恵の実を食べたように下穿き一枚の恰好で抱きしめられているのが突然、アネスの語録を引用すると「マジ恥ずかしい」。  なので固く(とざ)された門をこじ開けるふうに、熱烈な抱擁から逃れようとした。ところが、へっぴり腰で固まってしまう。  腕の中におさまったままでいるとドギマギする度合いがうなぎのぼりにあがりつづける反面、誂えた靴を履いたようにしっくりするのだ。

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