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第79話

 高いところ、狭い場所、尖った何か──等々。  〇〇恐怖症と名がつくものは多々あれど、ハルトが患ったそれは、いわばイスキア恐怖症だ。唇がふやけるほど接吻に酔いしれた夜から短い潜伏期間を経て発症した形で、その主な症状は、 「本土側の領主館のほうが何かと便利なんだよね? こっちに帰ってくるのは時間の無駄だからやめて、もう、あっちに行きっぱなしにしちゃえば」    おかえりなさいと言う代わりに憎まれ口をたたくかと思えば、 「とびきり瑞々しいキュウリをえりすぐっておいてあげたかもよ……おれが育てたやつを」  拗ねながら甘えるといったふうな態度をとってしまう情緒不安定ぶり。領主館(別館)で留守番をさせられている間、ちょっぴり切なさを味わわされたぶん我がまま放題にふるまう権利がある、と言いたげに。  ポンコツぶりを物語る例はあるわ、あるわ。たとえば仏頂面がわずかにゆるんで、 「そなたが丹精したキュウリは格別美味であろうな。ほっぺたが落ちるという、あれやもしれぬ」  珍しくおどけて頬の肉を支えてみせるさまを迂闊にも可愛い、と思った日は大変だ。ふにゅうと、ひと声呻いてへたり込んだあげく、抱き起される始末。快速艇の乗組員が口笛を吹いてひやかす、というまでつく。  地上にはたくさんの人がひしめいているなかで、特定の誰かの一挙手一投足に対してのみ心の振れ幅が大きい──その現象に冠するにふさわしい呼び名はなんだろう。  閑話休題。  伝書鳩の禽舎の下を覗いても、はたまた植え込みをかき分けても、一向にハルトが見つからないことからメイヤーとパミラは別の場所を捜しに行くことにした様子だ。ふたりの姿が柱廊の向こうへ消えて、中庭は静まり返った。  ハルトは手すりにもたれかかると、キュウリのエキスを煮詰めてこしらえた飴玉を舐めころがした。婚礼衣装を誂える、という世にも恐ろしい事態はひとまず回避できたもようだ。  だが衣装がないからとごねて嫁入り──ハルトの観点に立つと婿入りが正しいのか──を先延ばしにするのも限度がある。  イスキアが憑きものが落ちるとかして心変わりしてくれないかぎり、いずれ祭壇の前に引きずっていかれるのは必至。婚約の話が無効になったらうれしいか、といえば必ずしもそうとは言い切れないというか……。とにもかくにも男心は複雑なのだ。  悩みの種そのものを粉々に砕くように、飴玉を嚙みくだいた。螺旋階段を下りて、物見の塔の陰からあたりを見回す。  立ち去ったふうを装って待ち伏せをしていたメイヤーなり、パミラなりに捕まるということもなく、さて、ほとぼりが冷めるまでどこで時間をつぶそう。  草刈り番長こと、ヤギのライオネルさんをかまいがてら農園でひと汗流してこよう。そう思って物陰伝いに船着き場へ向かう途中、急に()が翳った。ふと空を仰ぐと、巨大な風船が太陽を背にしてゆらゆらと近づいてくるところだ。

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