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第92話

 イスキアが塀も柵もひとっ跳びに馬を走らせていたころ、ハルトは〝鳥かご〟と格闘するのに疲れてしゃがんだ。芸術家然と画帳に木炭を走らせるジリアンを、黒い瞳をぎらつかせて睨む。  ヌケ作、くそったれ、エレノアの腰巾着のおべっかづかい──等々。  罵詈雑言を煮詰めたような視線に弾き飛ばされた、というふうにジリアンが木炭を取り落とした。それでいて得意げに画帳を掲げてみせる。素描の段階だが、鉄の棒をこじ開けようとするさまを生き生きとした筆致で捉えているのが厚かましいというか、天晴れというか。 「いやあ、モデルがいいと創作意欲が湧くねえ。この習作をもとに傑作を描きあげたあかつきには従兄殿に謹呈といこう、うひゃひゃ」 「ユキマサはどこ、無事だよね? おっぽり出されて路頭に迷うなんてことないよね」 「自分のことは二の次で裏切り者を心配するとは、さすがハルちゃん、優しいなあ」  皮肉たっぷりにそう答えると、なみなみと水を()いだグラスを鉄の棒の間から差し入れる……と見せかけて引っ込める。すかさず小型版のベレー帽をちょいと持ちあげながらグラスを傾けた。  小まめに水をやらないと、しおれてしまう花がツムジに生えてでもいるように。前髪がびしょびしょになってもかまわず、そそぎ終えると、空っぽのグラスをわざわざ逆さまにして振った。 「しまった。ハルちゃんにあげるつもりの水をうっかり飲んでしまった。失敬、失敬」  嫌がらせにしても低次元にすぎて、怒るより呆れた。ハルトはずりずりと反転して、今さらめいて違和感を覚えた。  計二十のランプが〝鳥かご〟を煌々と照らし、そのぶん部屋の四隅には闇が澱む。長椅子も装飾用の甲冑も輪郭がぼやけて、それを差っ引いてもエレノアの姿がいつの間にか消えている。 「エレノア、さんは何か用事ができたとか」  努めて、さらりと訊いた。ところが真正面ににじり寄ってこられたうえ、掬いあげる角度で顔を覗き込まれた。 「ハルちゃんをだしぬいて従兄殿と密会している、みたいな想像をしちゃったのかなあ? そりゃあ気になるよね、とはいえ従兄殿の恋人とくれば恋敵だものねええ?」 「気に……気にならないもん!」  語尾がひずんで本音を洩らした。気にならないどころか美女という伏兵が登場して以来、消化不良を起こしたように胸の奥がしくしくと痛みつづけている。  にんまり顔に背中を向けて、サンダルの紐革をほどき、きつく結わえなおした。イスキアはたいがい仏頂面をしていて、それだけに時折こぼれる微笑みは凍てつく夜に舌鼓を打つスープのような温かみに満ちている。では、ほっこりするかといえば、ドキドキするほうが(まさ)って困る。

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