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第94話

 イスキアという無数の幸せ粒子から成る、きらきらしいものが崩れたかのごとく。  胸がきゅんとなって、縮こまった。許婚っぽさがそこはかとなく漂う直近のやり取りは、快速艇が小島側から出港するのを見送ったときのもの。  行ってくる、とイスキアが例によって例のごとく仏頂面で告げて、だが離れがたいと眼差しが語っているように見えたのは光の加減ではないはず。だって錨をあげた快速艇を追いかけて桟橋を走るのに応えて、航跡が薄れていく間じゅう甲板からずっと手を振り返してくれていた。  いわば新婚ごっこの気分を味わい、それが満更でもなかったあのとき、頭の隅っこで考えた。つぎからは、ほっぺたにチュッで送りだしてあげよう──と。 「八対二の割合かも……」  この調子で好きの分量がどんどん増えていっても、十割に達するのを阻む要素がある。すなわち、エレノアだ。  ランプの炎が揺らめくたび〝鳥かご〟の影が不気味に伸び縮みしながら絨毯の上を這う。振り子時計が時を刻む音が響くと、かえって静けさが際立つ。おしゃべりなジリアンが、らしくもなく黙ったままでいるから、なおのこと。  ハルトは、じっとしているのに飽きてきた。だいたいエレノアさんは無責任だ、と思う。生意気な仔犬を躾けなおす、と初対面の挨拶代わりにほざいたからには、煮るなり焼くなり早くしろ、と言いたい。  ユキマサを巻き込んでまで誘拐劇を仕組んでおきながら、興味が失せたとばかりにほったらかし。イスキアに冷たくされた腹いせに、おれをいたぶる気満々だったくせして尻切れトンボに終わらせるのか、ふん。  苛立たしさはつのる一方で、爆発寸前だ。にもまして心細さが頂点に達したころ、にわかに屋敷全体がざわざわしはじめた。 「おや、意外に遅かったのか早かったのか。どうやら主賓のおでましだ」 「主賓……イスキア、イスキアだよね!?」  ハルトはチュニックが、たぐまるに任せて跳ね起きた。複数の靴音が入り乱れてこだまするにつれて胸が高鳴り、イスキアが恋しい、恋しいと叫ぶようだ。  だが靴音は近づいたかと思えば遠のく。こちらの扉、向こうの扉と開け放っては踏み込み、内部(なか)(あらた)めているとおぼしい物音が響き渡る。  紙芝居の最後の一枚が抜き取られる直前で、つづきは翌日に持ち越されたときの何倍も焦れったい。鉄の棒を揺すりながら扉を見つめ、 「おやおや従兄殿ときたら屋敷を破壊しかねない猪突猛進ぶりみたいじゃないか」  薄笑いを浮かべたジリアンめがけてサンダルを投げ、顔面に命中した折も折、 「そなたを迎えにまいった、返事をいたせ」 「何とぞお静まりくださいませ、何とぞ」  イスキアが追いすがる召使を押しやるなり扉をくぐった。マントが翻り、荒ぶるものを持て余しているようなさまも相まって、軍神が降臨したかのごとき迫力に満ちていた。

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