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第96話

「ふ、んんん、ぬぬ、んんん……ふん!」  槍を〝鳥かご〟と床の間にこじ入れて、あらんかぎりの力で持ちあげる。梃子を用いても背骨が軋めくほどだが、愛の力が不可能を可能にする。 〝鳥かご〟の縁が浮くのにともなって、わずかに隙間が生じた。ハルトがすかさず蛇のように全身をくねらせて、ずるずると這い出してきた。  槍を離したとたん〝鳥かご〟がその槍を砕きながら再び直立した。地響きがするなか、イスキアはハルトを抱き起こすが早いか、すっぽりと両の(かいな)でくるんだ。  ──怖い思いをしたであろう、わたしが来たからにはもう安心だ。  ──そなたを害する(やから)は、ことごとく血反吐の海をのたうち回らせてくれる。  見事に想い人を助け出しおおせた、この場を彩る甘い科白はよりどりみどり。ところが、よりによってという局面で片恋こじらせ童貞三十路男(みそじおとこ)の呪いが発動したように、貧乏くじを引く真似をしてしまう。 「水妖の一件といい、そなたは(わざわい)を招き寄せる体質であるのか」  溺愛道の単元その十四、気持ちがすれ違う原因となる発言集を参照するまでもない。黒い瞳が潤んでいくさまに内心、大いにうろたえても後の祭りだ。  しかも、さも厭わしげに突きのけられると、罪悪感が表情筋におかしなぐあいに作用して、仏頂面が五割増しになるありさま。わたしの恋愛音痴ぶりときたら、もはや処置なし。イスキアはマントを羽織った陰でぼやき、暴言を吐いた口をつねった。 「……さらわれたりなんかして、ご迷惑をおかけしました!」  と、いきり立つにつれて堪えきれない涙がはらはらと頬を伝う。イスキアはそこで致命的なヘマをやらかした。あの、水晶のようにきららかな涙を舐め取りたい、と(よこしま)な衝動に駆られ、自分を抑えるのに手こずっている間に謝る機会を逸したのだ。  罪滅ぼしにこのうえなく優しく接したいときにかぎって、透明な縄でぐるぐる巻きにされたように身じろぎひとつできないとは、溺愛道はすなわち茨の道なのか。 「あ~らら、泣ぁかせた。はるちゃん、よちよち、こっちにおいで。ジリアンおにいちゃんが慰めてあげよう」  などと茶々を入れてきたジリアンときたら、ちゃっかり安楽椅子に腰かけてキュウリ酒を()っている。小型版のベレー帽にしてもつけ直したうえで、二度と剝ぎ取られることがないよう紐で髪の毛にしっかりと結わえつけてある。

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