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第98話
口許が際限なくゆるんでいくのを防止するため、唇をきつく嚙みしめるあまり血がにじんだ。今後、ワシュリ後の辞典を編纂 するさいには、ぜひとも幸せの同義語として〈イスキア・シジュマバードⅩⅢ世〉を載せたい。
そう思うと、純粋な気持ちが言葉と化して迸る。
「聞き飽きたと、うんざりされようが幾度となく繰り返し告げるゆえ覚悟いたせ。わたしは未来永劫、そなたひと筋だ」
ハルトは魂を鷲摑みにするような迫力にたじろぎ、後ろにずれて〝鳥かご〟にしたたか背中を打ちつけた。
「ひと筋って、添い遂げるって意味の、ひと筋……?」
「くどい。ひと筋と言ったら、ひと筋であるに決まっているであろうが」
負けず劣らず熱っぽい視線が絡むにつれて、ふたりの間を流れる空気は薄紅色に染まっていくようだ……いや、すでに染まった。
という下地ができたところで舞い下りた額への接吻は、百万言費やすより愛おしいと雄弁に語る。一陣の風が暗雲を吹き払うように、どす黒くてもやもやしたものが晴れていく。
ただしハルトは、ときめきに対して未熟だ。〝好き〟と〝嫌い〟の比率が、とうとう十対〇になんなんとする直前になって、感情の変化に戸惑いを覚えた。
突然、据えられた許婚という地位は、さしずめ三本脚の椅子のように腰かけるのを遠慮したい代物。ところが無理やり座らされているうちにいつしか馴染み、ひいてはイスキア本人に惹かれるに至っては、求愛に喜んで答えるのが正解に違いないのだろうが、ためらいが先に立つ。
拗ねたふりで迎えにくるのが遅いぞバカバカ、胸をぽかぽかなんて芸当ができるほど人間が練れていない結果、突拍子もない行動に走ってしまう。
ツンツンツーンと鉄の棒をのぼって〝鳥かご〟のてっぺんに腰かけた。
「なぜ逃げる、下りてこぬか」
「高いとこが好きなだけで、逃げてなんかいません」
「おーい、おふたりさん。のんびりイチャついてる場合じゃないよ。ほらほら、女王陛下のおな~り、さ」
なるほど、言いえて妙だ。召使にかしずかれて、エレノアがしゃなりしゃなりと現れた。衿が深く刳 れたドレスに着替えて、うなじには計算し尽くしたように後れ毛がひと筋。肉感的な唇に紅を差し、匂い立つように艶めかしい。
ハルトは〝鳥かご〟の中に垂らした足をぶらぶらさせた。故郷の村では男の価値は所有する羊の肉質および毛質の良し悪しで決まり、容姿は二の次だった。だが、都では価値観が異なるのは当然のこと。
お色気むんむんのエレノアは尾羽を華麗に広げた孔雀。対する髪はぼさぼさでソバカスもでき放題のこちらは、せいぜい雀。大多数の男がどちらになびくかは決まりきっていて、イスキアだって、つい色香にくらくらと──。
などと猜疑心に囚われるあたり、ジリアンが蒔いた嫉妬という毒花の種は発芽率が高い。
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