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第106話

 ハルトは奈落の底から這いあがったような凄みを漂わせて、ゆらりと立った。髪飾り風の帽子が、ランプとランプの間に転がっている。拾い、精緻な金細工がひしゃげたさまに切なさを覚えた。  調査がすんだ場所を白地図に書き込んでいくように、ふたりの距離が少しずつ縮まっていった時期を経て、自分とイスキアの間で濃やかに育ってきたものにも(きず)がついてしまった……。  髪飾り風の帽子がぼやけ、睫毛を濡らす涙をチュニックのの袖でぬぐった。どん! と床を踏み鳴らして感傷的な気分を振り払う。燃え盛る炎さながら黒髪が逆立ち、エレノアですら気圧されたふうに口をつぐんだ。  月光が射し込み、四つのシルエットがカラクリ人形ように揺らめくなかで、ふたつ、重なった。ハルトがイスキアにむしゃぶりついた瞬間に。 「河童なら河童で、いいじゃないか。おれに知られたくらいで、おたおたして、みっともない。いつもみたく、どっしり構えていろよ」  ひと回り大きな躰を揺さぶるたびに、くやし涙がこぼれる。隠し事があったということは、本当の意味では信用してもらえていなかったということで、それが言葉では言い表せないほど、くやしい。 「好きになりかけてたのに……だいぶ好きになってたのに」  十八歳になったこの年まで誰にも恋心を抱いたことはなくて、だから、と完璧に認識するまで無駄に時間を費やした。  イスキアがいつの間にか心の中に住み着いて、彼のことを想うと、くすぐったいような幸福感に包まれる理由が、やっとはっきりわかったのだ。  ユキマサを含めて男友だちと手をつなぐのはともかくチュウをしたら、きっとジンマシンが出る。  単なる好意と恋情の境界線は密やかに且つ、くっきりと引かれていたのだ。  ただし裏切られた感が強い現在(いま)は、恋の魔法にかかったもへったくれもない。イスキアが、わたしは河童の子孫と言い出しあぐねていた気持ちを理解したいと思っても、駄目だ。〝皿〟が灯りを弾いて妖しいぬめりを帯びると、たちまち総毛立つありさまでは、とてもじゃないが一緒にいられない。 「おれ、村に帰る。帰るったら、帰る」  地団太を踏むのにともなって、エメラルドグリーンの瞳がやるせなげに翳っていく。一拍おいて、イスキアは胸倉を摑んで離さない手をやんわりとほどいた。玻璃でできた小鳥をベルベットのクッションに載せるような手つきで。  それから懺悔するかのごとくハルトの足下にひざまずくと、魂そのものを担保に差し出すように、(こいねが)う響きを宿して紡ぐ。

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