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第107話
「そなたが、ただただ愛しい。後生だ、婚約は破棄してもかまわぬ……いや、大いにかまう、断腸の思いで受け入れる。しかし、せめて、わたしのそばに留まってはくれまいか」
「いやだ、イチ抜けた、する!」
する、ともういちど叫んで〝鳥かご〟を蹴りつけた。足首をひねっても、繰り返しそうした。
「まあまあ、従兄殿。帰りたいって言うんだから本人の意志を尊重して郷里 に帰しておやりよ。野性の薔薇を鉢に植え替えてごらん、枯れるのが関の山。もともと草原育ちの子を都につれてくることじたい無理があったのさ」
打倒・イスキアを旗印に掲げること苦節二十年。ジリアンが親切ごかしに妥協案を持ち出すと、
「賛同いたしますわ。では、さっそく遠乗り用の馬車と馭者 を準備しませんと」
エレノアがあ・うんの呼吸で呼び鈴の紐を引っぱる。
ハルトは、ひざまずいたまま微動だにしないイスキアと扉を交互に見た。ふたりの仲を引き裂く気満々のジリアン・エレノア組に対抗してイチャイチャしてみせるくらいのことをしなければ、あっという間に馬車に放り込まれて別れ別れだ。鶴のひと声で、
「決して、ハルトはどこへもやらない」
こそこそ画策しても無駄だ、と知らしめないかぎり思う壺にはまるのは必至の場面だということはイスキアだって重々承知のはず。なのに沈黙を守る。憑き物が落ちたみたいに、おれのことなんか急にどうでもよくなっちゃった……?
片恋こじらせ童貞三十路男の呪いが急性の失語症に陥らせたわけでも、ましてや心変わりなどするわけがない。イスキアは急激に衰弱しつつあった。
その原因はいわば燃料切れ。時として生き死にに直結する〝皿〟。ハルトを奪還するのが最重要課題と位置づけて、水分補給をおろそかにしたツケが正念場を迎えた今この瞬間に回ってきたのだ。ただでさえ怒り狂った影響で蒸発量が日ごろの数倍。
水、と呻き声が洩れたのを耳ざとく聞きつけて、
「おやおやあ、とってもお困りのご様子だよねえ。落書きの件を謝ってくれたら溜飲が下がるってもんさ。仲よし従兄弟のよしみで清らかな水をかけてあげたくなるかもよ」
ジリアンが空っぽの水差しで〝皿〟をつついてくる。
「おのれ~、しゃらくさい真似を……」
「『その節は〝皿〟に悪戯して恥をかかせて悪うございました』──さあ、額 ずいて復唱してもらおうか。うひひ、積年の恨みの深さをとくと思い知りたまえよ」
「大昔のことをねちねちと、さもしい根性ですこと。イスキアさま、お待ちになってて。あたくしが、花嫁修業に励むエレノアが、水をお持ちいたしますわ」
「弱みにつけ込んで、増長しおって……」
イスキアは、よろよろと立ちあがるそばから貧血ならぬ貧水を起こして頽 れた。その、わずかな振動が響いて〝皿〟のぐるりがささくれる。
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