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第108話
「水だね、おれ、汲んでくる!」
ハルトは扉に突進した。ところがジリアンが先回りして立ちはだかる。腋窩 をくぐって強行突破を図ると、それは罠で、抱きすくめられてウゲッとなった。
「どうだい、このさい従兄殿はエレノア嬢に譲って、ハルちゃんは僕と乳繰り合うというのは」
「離せ、離さないと〝皿〟? をかち割って踏み砕いてキュウリの肥料にしてやる!」
むしり取りにいく、喉をこちょこちょして阻止する。というぐあいに小型版のベレー帽を巡って攻防戦を繰り広げているさなか、手回しオルガンの陽気な音色が近づいてきた。
つづいて廊下側から扉が開いた。てっきり召使が呼び鈴に応えてやって来たのだと思えば、あにはからんやユキマサだ。ただ、これはなんの趣向なのだろう。かぶりものと、もっこもこの衣装で羊に扮していて、ハルトは目をぱちくりさせながら訊いた。
「羊祭りの余興みたいな恰好して、どしたの」
「ここんチのお抱え道化師が、ちょうどお払い箱になったんだと。で、俺が代役に抜擢されたってわけだ。臨時雇いでも給金をはずんでくれるって言うし、寮もあるって話だし、駆け落ちの軍資金をばりばり稼ぐぞ、メエ」
さすがに羊飼い歴が十数年に達するだけのことはある。四つん這いでトコトコと歩くさまは、本物の特徴をよく摑んでいる。
「幼なじみくんは、けっこう芸達者だね」
「あら、思わぬ拾いものですわ」
ジリアンとエレノアがそろって笑いころげ、イスキアでさえ苦笑を洩らした。
少し遅れてハルトも噴き出した。といっても朗らかさの欠けらもない。何もかも馬鹿らしくなったあげく、神経症的な笑いの発作に襲われたのだ。
「うんざりだ、つき合いきれない」
吐き捨てるように言って、だが語尾に嗚咽がにじむ。床にじかに座って長椅子に寄りかかり、荒い息をつくイスキアを振り返ると、きゅうと胸が締めつけられた。
緑がかった金髪は色あせて見えて、エメラルドグリーンの瞳も同様だ。日ごろのイスキアは威厳に満ちて、いばりんぼ、と敬遠していたのが打って変わってアバタもエクボの部類に含まれるようになってきただけに、弱々しい姿をさらすのは反則だ、と思う。
ハルトは磁力が働いているようにイスキアの元に取って返した。蒼ざめた顔が、それでも淡々しくほころびかけると言いよどむ。
ジリアン・エレノア組の計略が図に当たる形じゃなくて、自分の意思で別れを告げるのであれば、曲がりなりにもさばさばするはず。なのに「さようなら」は舌にのせるはしから、泡雪さながら儚く消える。
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