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第110話
「え……っと。もしもだけど草原に遊びにくることがあったら羊料理を大盤振る舞いするから。メイヤーさんとパミラちゃんによろしく、いろいろお世話になりました」
涙の残片を飲み下し、敬礼の真似事でおどけてみせた。ひと月前に空中分解する方向へ展開していた場合は、冷淡にあしらわれても屁とも思わないどころか、後腐れがなくて、もっけの幸いとせいせいしていた。
ひるがえって今宵はイスキアとの思い出の数々がひとつにまとまり、それがどんどん重みを増していって押しつぶされそうだ。
でも、と呟く。これが最良の選択、と自分に言い聞かせる。もともと男のおれが男の領主に娶 られる、という話じたい無理がありすぎたもの。
ハルトは、自分とイスキアをつなぐ赤い糸を引きちぎる思いで扉へ向かい、だが我慢できずに振り返った。たちまち双眸に涙の膜が張る。
名君と崇めたてまつられる人が、群れからはぐれた仔羊さながらの心細げな雰囲気を漂わせている。それどころか、なりふりかまわず這いつくばって追いすがってくる素振りさえ見せる。
駆け戻った。うつ伏せに崩れ落ちた躰を抱き起こすと、かさついた唇がわなないた。
あ──し・て・る? けたたましい笑い声が、私語 をかき消した。
「ああ、おかしい。道化師見習いの滑稽なことと言ったら手放すのが惜しいかしら。よくって? 心がけしだいで正式に雇ってあげなくもないことよ」
「お眼鏡にかなうとは恐悦至極。よかったな、幼なじみくん。ハルちゃん捕獲作戦の餌のほうはお役御免でも、働き口が決まってツイてたじゃないか」
「ハルト、メエ。豪勢な駆け落ち旅行めざしてドンと来いだ、メエ」
「……おまえら、ふざけるのもいいかげんにしろ! 水を持ってこい、今すぐ!」
ハルトは吼えた。〝鳥かご〟を持ちあげるのに用いたさいに折れた槍の、そのギザギザの断面を突きつけて凄む。
「水だ。ごちゃごちゃぬかしてみろ、こいつを〝皿〟にぶっ刺してやる」
迫力勝ちで、すぐさま巨大な水甕 が運ばれてきた。ちゃぽちゃぽと浸かるのにうってつけの大きさだが、イスキアはすでに自力では縁を跨ぐのもままならないふうだ。
「いばりんぼじゃなきゃ、あんたらしくない」
そう耳許で励ましながら、お椀形に丸めた両手で水を掬っては、こころなしか黒ずんだ〝皿〟にじゃんじゃんかけてあげる。旱魃 にみまわれた大地に恵みの雨が降りそそぐかのごとく、あかぎれめいた筋が生じた箇所にしみ込んでいっても、なおも〝皿〟を潤しつづけた。
やがて常日ごろの半分にも満たないながらも、エメラルドグリーンの瞳に輝きが戻った。
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