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第113話

 潮時だ。ハルトは宝物を手放すように心残りがするのをねじ伏せて、あえてぴょんと立ちあがった。 「本館のほうの領主館まで馬車で送ってあげて、って頼んでくから(やす)んでなよ」 「おかしな……ことを。そなた……も一緒に乗っていくのだぞ」  縦横どっちつかずに首を振りながら今ひとたび、しゃがむ。そして突風以上に素早く〝皿〟をついばんだ。  陶器さながら硬くて且つ、すべっこい。見た目から受ける、そんな印象に反してキュウリの切り口さながら(みず)やかで湿り気を帯びる。無骨な愛情表現と同様、ほの温かい。  意外に抵抗感を覚えなかったようでいて、後ろめたさが作用するせいだ。トカゲの腹にでも触れたように感じて怖気(おぞけ)をふるう。そのくせ一秒ごとに決心がぐらつく。急がないと、この場に縫い留められてしまう。 「ごめんなさい、さよなら……!」  万感を込めて告げるとともに、未練を断ち切って逃げる時間を稼ぐため、泣く泣くイスキアを突き飛ばした。彼が起きあがるのにもたついている隙に扉へ走り、一目散に屋敷から飛び出す。  馬車の(わだち)に導かれて街中まで駆け通しに駆けた。行き当たりばったりに角を曲がり、波音にいざなわれて湖畔にさまよい出ると、空にも湖面にも真ん丸なお月さま。 〝皿〟にそっくり。そう思った瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて水鏡に映った月がぼやけた。 「帰ろ……うん、婚約解消できて万々歳なんだし羊たちが待ってる」    サンダルの紐革を結びなおして、しょげ返りがちな自分に活を入れる。主要な街道沿いには駅馬車の発着所が設けられていて領国を大横断する旅人は、ほぼ全員乗り継いでいく。  しかし、こちらは文無しの身。道のりは遠くても左右の足を交互に出しつづけていれば、そのうち故郷にたどり着く。昼間は太陽を、夜は北極星を道しるべに、さあ出発だ。  誘惑に負けて、早くも恋しさをかき立てられる小島の影を波間に捜した。もちろん遙か彼方にあって、ちらとも見えはしないのだが。  頭をひと振りした。キッと行く手を見据えると、大股で歩きだした。現在(いま)は太い線で刻みつけたように心を占めているイスキアの面影が、都から遠ざかるにつれて薄れていくことを願いながら。

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