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第116話

「まあまあ親子喧嘩はそのへんでやめて、ばあちゃん特製のこれをお食べ」    と、祖母が「あ~ん」と唇をつついてきたスプーンには、よりによってキュウリの酢漬けが載っている。  キュウリといえばイスキア、イスキアといえばキュウリ。  キュウリの葉ずれが陽気に歌う青々しい農園やサンルームで、ふたり、摘芽を終えた株の数を競い合った。ワシュリ領国産のキュウリが世界中の食卓に並ぶのが夢だ、と熱っぽく語るさまにときめいた、あの日に時間を巻き戻せたら──。  酢漬けがしょっぱさを増したように感じられるにつれて、灯影(ほかげ)がにじむ。イスキアが恋しい、恋しくてたまらない。無理やり箱にしまったうえで鎖を幾重にも巻きつけたように封じ込めた素直な想いが、火砕流を上回る激しさで迸る予兆に口許がひくつく。  堰を切ったが最後、都へ向かって裸足で駆けだす。 「あんたってば傷口に塩をすり込むことを言って。ハルトのことはそっとしておやりよ」    母親が羊のチーズを荒っぽく切り分け、 「だいたい親父はガサツなんだ。責めちゃ、ハルトが可哀想だろうが」  下の兄が加勢に入ると、父親はむっつりとコケモモ酒を呷る。 「さて、と。今夜あたり狼が襲撃してくるかもだから、夜回りを手伝ってこようかな」  ハルトはチーズをつまむ合間にポンチョを羽織り、勢いよく表に飛び出した。夜の女神が濃紺のヴェールを広げて回るにしたがって、星々がさんざめきはじめる。  村の主な収入源は羊毛と羊の肉。出荷場や機織(はたお)りの工房を中心に、放射状に建ち並ぶ家々から煮炊きをする煙が立ちのぼる。  平和で、ちょっぴり退屈で、だが繭にくるまれているように安心できる場所だ。住民はみな気心が知れていて、妙ちきりんな帽子をちょこんと頭に載せている者はひとりいない。それが最近、ハルトは無性に淋しい。 「淋しいなんて柄じゃないってば」  架空の敵を撃退するように宙を蹴りつけ、それでいて望火楼の傍らにたたずむと棚引く煙へ羨む眼差しを向けた。あの煙に乗ったら夜な夜な夢に出てくる小島へと風が運んでくれないかなあ……。 「めそめそするの禁止、思い出すの禁止!」  望火楼の石壁に、ゴンゴンと額をぶつけた。狼よけの篝火(かがりび)に小枝を()べ足していると、そこにブチ犬がやって来て、鼻と鼻面をこすり合わせて挨拶を交わす。  その湿りぐあいから〝皿〟を連想すると、もう駄目だ。小枝が爆ぜる音も風のそよぎも、あらゆる物音が「そなた」と囁きかけてくる声と化す。

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