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蝙蝠だって恋をする 1
人間が怖い。
和泉 奈帆人 にとって、その最初の体験は、小学校に入ってすぐのことだった。
元々、奈帆人は吸血鬼の力が不安定で、本性の蝙蝠に戻りやすい体質をしている。保育園のときも何度か戻ってしまって、そのときには部屋の隅に隠れて難を逃れていたのだが、小学校に入って、上級生に囲まれてしまって、何を言われたのかはよく覚えていない。世津の弟で似ているとか、可愛いとか、そういうことを言われたような気がする。自分よりもずっと大きな体の上級生に囲まれた時点で、奈帆人は怖くてたまらなくて、泣き出してしまった。その拍子に蝙蝠の姿になってしまったのだ。
「うわっ! 蝙蝠だ!」
「蝙蝠って、人間に感染る病気持ってんだろ」
「気味悪い」
投げかけられた言葉に傷付いて泣きながら家に飛んで帰ったが、世津はまだ授業があって帰っておらず、鍵を忘れていた奈帆人はどうしようもなくて、ふらふらと迷い込んだのが隣りの左岸 家の庭だった。ちょうど庭仕事をしていた金色の髪に水色の目の逞しい体つきに穏やかな顔立ちの男性が、落ちてきた奈帆人を見つけた。
気味が悪いと言われる。
触ったら病気が感染ると言われる。
震えながらちいちいと鳴いて逃げようとしたら、そのひとは大きな手で奈帆人を拾い上げてくれた。
「ふかふかの蝙蝠さんね。どこから迷い込んできたのかしら」
艶やかな低い声で紡がれる優しい言葉。安心した瞬間、奈帆人は元の人間の姿に戻っていた。
手の平に乗せていた小さな蝙蝠が、6歳の男の子になったのだ、驚かないはずはない。
「あなた……人間だったの?」
「お、おれ、きゅうけつきやけど……せっちゃんが、いうたらあかんって。どないしよ、せっちゃんにおこられる……おうちにかえられへん」
ぼろぼろと涙を零して泣く奈帆人を、そのひとは暖かな胸にだきしめてくれた。
「お家に帰れないのは困るわね。あなた、お隣りの和泉さんのところの弟さんよね?」
「せや……いずみなほといいます」
ぐすぐすと洟を啜って挨拶をすると、そのひとはティッシュを取り出して奈帆人の鼻をかませてくれた。
「私は、衛陸 よ。エリさんって呼んでくれたら嬉しいわ」
不思議とそのひとの女言葉はいやらしさもなく、穏やかで、艶っぽく奈帆人の耳に響く。ぽうっと見つめていると、ランドセルを背負った世津が迎えに来てくれた。
「うちの弟がすみません。あそこにいた奴らの記憶は消しといたから」
相手の記憶が消えても、奈帆人が気持ち悪いと言われた記憶は消えない。けれど、そのせいで衛陸に会えたのならば、これも嫌なことではない。
「奈帆人の兄の和泉 世津 です。……奈帆人の正体、聞きましたか?」
「えぇ、私の記憶も消す?」
吸血鬼ということに関しても、記憶を消すということに関しても、大して驚いていない様子の衛陸。その理由は衛陸の家に招かれておやつを振舞ってもらったことで知れた。
「うちの両親は、私と兄を養子に迎えたんだけど、世界中でひとではないもの……つまりは、奈帆人さんや世津さんのような人外の奇譚を蒐集しているのよね。だから、私も遂に本物に会えたんだって、不謹慎にも喜んじゃった」
最近お隣に引っ越してきたという衛陸は、元々この家が実家なのだが、両親は世界中を飛び回っていて、大学に入るのを機に双子の兄と一緒に日本に正式に戻ってきたのだという。双子の兄は大学近くのアパートに住んでいるらしい。
「もしも、俺らを気味悪がらんといてくれて、共存してくれるんやったら、俺らにとってはそれ以上に心強いことはありません」
「あなた、まだ小学生でしょう? そんなに警戒しなくていいのよ。奈帆人さんも可愛いし、小学生だけでお家に暮らしてるっていうのは、心配だわ」
ときどき両親が家に帰ってくるとはいえ、世津と奈帆人はほとんど二人で暮らしているようなものだった。まだ18歳だが衛陸はそれを気にしてくれる。
それ以来、お隣りの左岸家と和泉家は交流を持つようになった。
様々な国に行っていたという衛陸の話は面白くて、世津も奈帆人も衛陸の家に入り浸るようになった。晩ご飯はそれまで買ったものか、世津が頑張って作った種類の少ないだったが、衛陸と一緒に作るようになって、レパートリーも増えた。
奈帆人にとって、衛陸は優しくて、憧れのひとだった。
13歳の年に両親は生まれたばかりの妹の千都を置いて、本格的にどこかに行ってしまった。生活費は振り込まれているし、その頃には世津が衛陸の話を聞きつつ、小説を書いて印税をもらっていたので生活には困らなかったが、乳児を抱えての暮らしは楽ではなくて、やはり衛陸の手をたくさん借りた。もう衛陸は奈帆人にとっては家族のようなものだった。
それが本格的に家族になったのは、衛陸の双子の兄……といっても、同じ日に病院に捨てられていて拾われた、衛陸と正反対の印象の褐色の肌に黒い髪、オレンジ色の目のエキゾチックな顔立ちの男性、晴海 と世津が、紆余曲折あった末に、結婚を決めたことからだった。
無駄に広い家の一部を改築して、晴海の工房にして一緒に暮らすのだと喜んでいる世津に、晴海もにこにことしていたが、奈帆人は独占欲の強い世津が晴海を自分がいないときに外に出したくないのが分かっている。それを口には出せないのだが。
察しのいい衛陸も気付いているのだろうが、「はるちゃんが幸せならいいわ」と受け入れているようだった。
吸血鬼は体が成熟してくるにつれて、渇きを覚えて、血を欲する。幼少期に周囲に気持ち悪いと言われた奈帆人にとっては、自分が血が欲しくなるということも、恐怖だった。
「血なんか、いらへん。梅昆布茶でも飲んでた方がマシや!」
そうは言っても、18歳になった奈帆人の体は確実に成熟に向かっていた。
血が欲しいというのは、吸血鬼にとっては本能である。渇きを覚え始めた体に恐怖して、梅昆布茶でごまかしていた奈帆人だったが、どうしても我慢ができなくなってしまう。
真祖の血が濃い世津は、15歳のときに無理やり運命の相手以外の血を飲まされて、それ以降絶対に誰の血も口にしないと誓って、晴海に出会うまで我慢ができたが、奈帆人は世津ほど吸血鬼として強くない。すぐに蝙蝠の姿になってしまうのも、吸血鬼としての弱さの証だった。とはいえ、吸血鬼には違いないので、伴侶は奈帆人と同じだけの時を生きられるようになる。そのため、奈帆人は狙われやすく、世津も気にしてくれていたし、奈帆人自身も気を付けて、あまり一人で外出はしなかった。
血に渇いて、飢えて、干からびて、ソファの上に蝙蝠の姿で倒れていると、5歳の妹の千都が覗き込む。
「あにうえ、そんなところでつぶれていたら、ちづ、まちがってあにうえのうえに、すわってしまうかもしれませんよ」
「そんなことがあらへんように、俺用のクッション置いとるやん、ちぃちゃん」
蝙蝠になった奈帆人は体も小さく、踏まれやすい。だから、和泉家のソファには、奈帆人がいるのが分かるように、可愛い黒猫の刺繍のしてあるクッションが端に置かれていて、蝙蝠になったときには、奈帆人はそこに避難していた。
「そうでしたね、うっかりうっかり」
「絶対にわざとやろ……」
どうにもこの家の兄弟の自分に対する扱いが酷いような気がする奈帆人だったが、家に来ていた晴海が心配そうに覗き込んでいるのに、びくりと体を震わせた。
「奈帆人くん、血が欲しくて困ってるの?」
「せ、せやけど……平気や」
「俺ので良ければ、飲んでみる?」
晴海は世津の運命の相手で、世津は晴海の血をとても美味しそうに飲む。その兄弟なのだから、味は口に合わないかもしれないが、渇きは癒える可能性があると、晴海は申し出てくれたのだ。
誰かの血を口にするつもりなどなかった。けれど、衛陸の兄弟である晴海は、気性も穏やかで、奈帆人にとって、珍しく怖くない相手だった。
「首から吸うたらせっちゃんに殺されるから、手首からちょっとだけ、もらってもええ?」
衛陸と同じものを食べて、同じように育ってきた晴海。顔立ちも声も全く違うが、穏やかな雰囲気はよく似ている。つい、その手首に蝙蝠の姿のまま吸い付いた奈帆人は、即座に後悔した。
運命の相手の血は甘美で、一口で吸血鬼を魅了する。
しかし、兄の運命の相手である晴海の血は、そんなものではなかった。
喉に砂でも流し込まれたような感覚に、胃から中身が逆流して、奈帆人は床に落ちてそこで吐いてしまう。
「うぇぇぇぇ! な、なんやこれ!」
初めて飲んだ血の味は、あまりにも酷いものだった。
「だ、大丈夫、奈帆人くん!?」
吐いたものを晴海が片付けているところに、世津が何事かとやってくる。
「どないしたん、はるさん?」
「奈帆人くんがつらそうだから、血を分けてあげたんですけど……世津さんが美味しいって飲んでくださるから、喉の渇きが少しは癒えるかと思ったら」
「吐きよったんか、こいつ! はるさんの血をなんと思っとるんや!」
怒髪天を突く勢いで、世津が奈帆人の体を掴んで放り投げる。軽い蝙蝠の体は、窓の外に飛んで行ってしまった。
「あー!? 奈帆人くん!?」
叫ぶ晴海の声が聞こえたような気がする。
渇いている上に気も遠くなって、奈帆人はふらふらといい匂いのする方に飛んで行っていた。
「奈帆人さん、どうしたの?」
気が付けば衛陸の家の窓から入り込んでいたようだった。シャワーを浴びて寝る支度をしていた衛陸が、飛び込んできた奈帆人を手の平で受け止めてくれる。
「えりしゃん……おれ、もう、あかんわ……」
「大丈夫?」
「えりしゃん……ええにおい……」
よじよじと首筋に登った奈帆人は、甘い香りのする衛陸の首にほとんど無意識で噛み付いていた。
口の中に広がるのは、先程と全く違う甘美な味で、夢中で吸っていると、奈帆人の姿は人間のそれに戻っていた。
しかも、下着一枚で。
「きゃー!?」
年下で体格も劣るとはいえ、下着一枚の男に首筋に吸い付かれて、押し倒されるような形になった衛陸は、思わず奈帆人に掌底を叩き込んでいて、奈帆人は綺麗な放物線を描いて床に吹っ飛んで落ちた。
「堪忍やー!」
「きゃー!? ごめんなさい、奈帆人さん、大丈夫!?」
助け起こしてくれた衛陸の胸に無意識に触れながら、奈帆人は意識を手放した。
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