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蝙蝠だって恋をする 2

 気絶する前に飲んだ衛陸の血は、甘美で、奈帆人の渇きを潤してくれた。小さな頃から衛陸に惹かれていた。ほとんど家にいない両親の代わりに、衛陸の家に入り浸って、存分に甘えさせてもらった。奈帆人が吸血鬼でも、蝙蝠になっても気にしない、大らかで優しいひと。  このひとが運命ならば良い。  このひとが運命でないならば、奈帆人は運命なんかいらない。一生血など飲まなくて良い。  小説家として有名になっている世津のように、自立した大人になったら衛陸に告白をしようと決めていた。まだ奈帆人は大学に合格したばかりで、高校も卒業していない。  そんな身分で、翻訳家で世津の作品の資料や、法律関係の翻訳を仕事にしている、立派な衛陸と並ぶのは烏滸がましい。  薬学部を受けていたので、大学を出るまでに六年間かかるのだが、それもきっと我慢ができると思っていたのに、渇きに負けて衛陸の血を吸ってしまった。その結果として、衛陸が運命だと確信できたのだから、問題がないといえば問題はないのだが。 「エリさんのことが、小さい頃から好きやった。俺の運命の相手が誰でも、エリさんやなかったら、要らんって思ってた。血を吸って分かったんや、エリさんは俺の運命のひと。俺と付き合ってください」  ボクサーパンツ一枚で床に土下座して懇願する奈帆人を、衛陸が抱き起こしてソファに座らせて、大きなシャツを羽織らせてくれる。奈帆人よりも体格のいい衛陸のシャツは、ほんのりと甘い衛陸の匂いがした。それを嗅いでいると、血を吸った名残もあって、奈帆人の中心が反応してしまう。  血を吸う行為は、吸血鬼にとっては性的な行為に密接している。そのため、血を吸うと快感を得て酩酊に近い状態になってしまうのだ。  結果として、ボクサーパンツ一枚で、股間をおっ立てている奈帆人に首筋に吸い付かれ、押し倒された衛陸の反応として、奈帆人を掌底で吹っ飛ばしてしまったのは仕方がないことだった。 「服はどうしたの?」 「せっちゃんに、毟られてしもた……」  発端である晴海の血を吸って吐いたことを説明すれば、衛陸は「あらあら」と奈帆人に同情してくれた。 「世津さんははるちゃんに夢中だものね。世津さんなら蝙蝠の姿の奈帆人さんの服も毟れるのね」  妙に感心している衛陸に、涙目で奈帆人は返事を待つ。付き合ってほしいという告白の返事を、まだ衛陸は口にしていなかった。 「私が奈帆人さんの運命なのね……そうかぁ。運命だからって絶対に結婚しなきゃいけないわけでもないし、伴侶にしなきゃいけないわけでもないわよね?」  運命の相手が見つかれば、どうにかして伴侶にするものだと、奈帆人は思い込んでいた。世界中を自由に飛び回っている両親も運命の相手同士だし、世津も晴海が運命と分かれば、手に入れると決めていた。 「結婚せなあかんわけでも、伴侶にせなあかんわけでもないけど……」 「奈帆人さんのことは小さい頃から知ってるし、可愛いと思っているわ。だから、血が欲しいときには、上げても構わない。でも、伴侶にもなれないし、結婚もできないわ」  自立した大人になったら衛陸に告白をして、対等の相手として見てもらいたい。優しい衛陸と穏やかな家庭を築くのが夢だった奈帆人にとって、その返事はあまりにも理想とかけ離れていて、一瞬、何を言われたのか理解できないほどだった。 「な、なんでぇ?」  見開いた茶色の目から涙が溢れる。黒髪黒い目の世津は父親似で、茶色の髪に茶色の目の奈帆人は母親似だった。両親共に吸血鬼だったが、父親が血が濃く強く、母親が若干弱い吸血鬼だったので、母親似の奈帆人は世津のように強い吸血鬼にはなれないのだろうと分かってはいた。だから、人間社会の中で生きていくその隣りには、衛陸がいて欲しいと願っていたのに。  現実を受け入れられない奈帆人に、衛陸が寒くないようにシャツのボタンを留めてくれる。身長差が15センチ以上ある上に体の厚みも全く違うので、衛陸のシャツは奈帆人にはワンピースのようだった。 「恋愛関係にしたくないの。私、恋愛感情っていうのが、よく分からない体質みたいでね、奈帆人さんのことを家族のように思ってて、弟のように可愛いと思ってるからこそ、恋愛感情がないのにそういうのって、とても失礼でしょう?」 「ど、同情でもなんでも構わんから! 俺はエリさんが好きで、エリさん以外考えたこともないんや! この通り、エリさんのことを考えたら、なほとくんのなほとくんも臨戦態勢になってしまうくらいなんや!」  泣いて縋っても衛陸は緩々と首を振るだけだった。 「ごめんなさいね」  好きで好きでたまらない。  ずっと衛陸だけを思ってきた。  その想いにバッサリとトドメが刺された瞬間だった。  とぼとぼと家に帰ろうとして、奈帆人ははたと気付いた。 「鍵持ってない……」  鍵を持って来ていないどころか、服も世津に毟られた奈帆人。このまま家に戻っても、世津の怒りは治っていないだろうし、最悪殺されてしまう。いや、流石に弟を殺しはしないだろうが、八割殺しくらいの目にはあわされるかもしれない。  震えて泣き出した奈帆人に、衛陸が冷静に突っ込む。 「何より、パンツ履いてないこと、思い出してね?」  そうだった、奈帆人は衛陸のシャツを借りてはいるが、下半身はボクサーパンツ一枚だった。これで家に入れずに家の前をウロウロしていたら、警察に捕まってしまう。 「俺……野生の蝙蝠になるわ……エリさん、お世話になりました」  振られたことだし、野生の蝙蝠になって生きていこう。そう決めて蝙蝠姿になる奈帆人を、衛陸が両手で優しく捕まえる。 「可愛い蝙蝠なら、飼ってもいいわよ?」 「それって……」 「世津さんの怒りがおさまるまで、うちにいたらいいわ」  着替えは晴海に持って来てもらうとして、衛陸の家に居候させてもらえるのならば何の問題もない。衛陸がきっぱりと奈帆人の告白を断ったこと以外は。 「……エリさんは、残酷や。好きを受け取ってくれへんのに、家にはおってええって、優しくする」 「それじゃあ、家に戻る?」 「無理無理無理無理! まだ、死にたくない!」  小首を傾げた衛陸の手の平の上で、奈帆人はガクブルと体を震わせる。 「そうや、エリさんは優しいひとやもんな。一緒におったら、絆されてくれるかもしれへん」 「……奈帆人さんって、本当に素直よね」  全部口に出てるわよと指摘されて、奈帆人は蝙蝠の小さな両手で尖った口を押さえた。 「聞かんやったことにしてぇ?」 「良いわよ。はるちゃんにメールしましょうね。晩ご飯は何が良い?」  はっきりと奈帆人の気持ちを断ったと思えない変わらない笑顔で、衛陸が奈帆人に問いかける。 「エリさんのふわふわオムレツ食べたいわ」  告白は失敗に終わったが、衛陸の態度は変わらず、離れる必要もない。  時間だけは若い奈帆人にはあるのだから、衛陸の気が変わる日を待つのも悪くないかもしれない。  このひとでなければいけないと、奈帆人はとっくの昔に決めていたのだ。  まだ諦める気など、更々なかった。  衛陸は奈帆人に血をくれると言ってくれている。 「エリさんの血、甘くて、美味しかった……」  伴侶にする方法も血を吸うのと同じなのだが、無理矢理にする気はないし、そうしても衛陸の気持ちは奈帆人に向かないだろう。自分といることが心地よく、幸せだと思ってもらえれば良い。もちろん、奈帆人は若いので、性欲も有り余っているが、まずはそういうことではなく、衛陸の心が欲しい。 「口説いて口説いて口説きおとしたる」  ソファに蝙蝠姿の奈帆人を踏まないように目印にクッションを置いてくれる衛陸の背中を見ながら、奈帆人は心に誓うのだった。

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