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蝙蝠だって恋をする 3
直球の告白をして、盛大に振られた後も、衛陸の態度は変わらない。小さい頃から可愛がっていて、奈帆人のことを本当に大事にしてくれているのだということだけは分かっていたからこそ、諦める選択肢はなかった。
家を追い出された夜には、衛陸から連絡を受けた晴海が、奈帆人のしばらくの生活用品を持ってきてくれた。
「せっちゃん、まだ怒っとる?」
「怒ってるというより……」
言いにくそうに晴海が口にしたのは、「奈帆人がおらんやったら、奈帆人の部屋をはるさんがつこうて、うちに住んだらええやん」と喜んでいたということだった。世津ならば言いかねない。いや、絶対に言う。
「俺の部屋、片付けとくから、奈帆人くん使うと良いよ」
あんな鬼のような……実際には吸血鬼なのだが、そんな兄の伴侶とは思えない優しい晴海は、奈帆人が絶句するような散らかった部屋を片付けて、最低限奈帆人が生活できるようにしてくれた。大学にはもう受かっていて、高校も自由登校になっているので、一日のほとんどを衛陸と過ごせる。
企業向けに海外の法律関係の翻訳や、世津の資料の翻訳をやっている衛陸は、連絡をメールで済ませて、在宅で仕事をしていた。小さい頃から世津と一緒に家事をしてきたから、奈帆人も家事ができないわけではない。
「お昼ご飯は俺が作るで。エリさん、何が食べたい?」
「なんでも良いわよ」
「エリさんが食べたいもんを聞いてるんや」
「簡単なもので構わないわ」
おやつを手作りしてくれたり、料理を作ってくれたりするが、衛陸は自分が何が食べたいと言うことはあまりない。作るものも奈帆人の好物だったり、世津の好物だったり、千都の好物だったりで、自分が欲しいものを口にしたことがないような気がするのだ。
「俺は! エリさんの! 好きなものが! 知りたいねん!」
下心満載で奈帆人が詰め寄ると、衛陸は困ったように微笑む。
「好きなものって、難しいわよね」
食事は栄養が取れれば良い。その程度にしか考えていないという衛陸に、奈帆人は悲しくなってしまった。好きなものがない人生とはどういうものだろう。
好きな食べ物がないように、衛陸には他人を好きになる気持ちもないのだろうか。
「好きなもんがこれから見つかるかも知れへんし、恋なんていつ堕ちるか分からへんもんや!」
小学一年生の6歳のときに、ふらふらと庭に落ちてきた奈帆人を衛陸が優しく拾い上げてくれたとき、奈帆人は衛陸に恋をした。まだそういう気持ちを持ったことがなくても、これから衛陸が恋心を持つ日が来るかも知れない。願わくば、その相手が奈帆人であって欲しいものだが。
簡単なものと言われたので、仕事が立て込んでいるので素早く食べたいのかと、奈帆人は厚焼き玉子のサンドイッチを作った。挟んだパンの片側にケチャップを、もう片側にマスタードを塗って味に飽きが来ないようにする。作っている間に、衛陸はコーヒーを淹れてくれていた。
「とっても美味しいわ。奈帆人さんはいい旦那さんになりそうね」
「エリさんの旦那さん以外にはなりたないんやけど」
話しながら食べる。挽きたての豆で淹れたコーヒーのカフェオレは、とても美味しかった。
「私のことが好きって勘違いしてるだけかもしれないわ」
家族に抱く感情を、恋愛感情と勘違いしているのかも知れないと言われて、奈帆人は流石に腹が立った。
「俺は、せっちゃんにも、ちぃちゃんにも、勃つようなことあらへんわ!」
親愛の情ならば、下半身が反応することなどない。それを言えば、衛陸は申し訳なさそうな顔になって、奈帆人は決まり悪くキッチンに食器を片付けに入った。昼食の後片付けを奈帆人に頼んで、衛陸は仕事に戻っていく。
在宅での仕事は、時間制限がないせいか、逆に忙しそうだった。家にいるときに世津は何もしていないように見えても、話しかけると「小説の構想を練っとるんや」と怒られる。そんな風に衛陸も四六時中仕事のことを考えているのは大変だろう。
せめて出来ることはしておこうと、洗濯物を庭に干したり、衛陸が大事にしている庭の木々や花の手入れをしたりして過ごしていると、まるで衛陸と結婚したような気になってくる。
やっと18歳で結婚できる年になった奈帆人である、本当は大学を出るまでは衛陸に気持ちを告げるのも我慢しようと考えていたが、学生結婚も悪くはないかも知れない。
「学生と主夫の兼業でエリさんを支えて、将来は働きながらエリさんと……」
「おめでたいあたまですね、あにうえ」
幸せな妄想に浸りながら庭木に水をやっていると、顔を出したのは千都だった。小さな奈帆人の正体がバレて交流を持つようになってから、衛陸はいつでも和泉家のものが入って来られるように、庭の境目の柵を取り払ってしまった。おかげで、奈帆人は蝙蝠になってちいちいと鳴きながら、衛陸の元に逃げて来られるのだ。
境目を超えて入ってきた千都は、その小さな体に似合わぬ大きなバッグを持っている。
「『はるさんをあごでつかうとは、なにごとや』とせつあにうえがおいかりで、ちづがとどけにきました」
バッグの中身は、高校の制服だった。すっかりと新婚気分で浮かれて忘れていたが、近々高校の卒業式があるので、最後の制服を着なければいけない。
「せっちゃん、まだ怒ってはる?」
「おこっているというより、おもしろがってますね、あれは」
「まぁ、俺もエリさんと同棲できるチャンスやし」
「……エリさん、すきなひとがいて、わすれられないんじゃないですか?」
毎日のように衛陸の家に押しかけて、奈帆人や世津は過ごしていた。千都が生まれてからは、乳児の扱いなど分からず、慌てふためく奈帆人に、世津がいないときはほとんど衛陸が千都を見てくれていた。
ずっと一緒にいたから、好きな相手がいる可能性など、考えたこともない。18歳のときから知っている衛陸は、大学や仕事の付き合いで帰りが遅れることもあったが、そこに恋愛が絡んでいないとは限らなかった。
「エリさーん! エリさん! エリさん、エリさん、エリさん!」
居ても立っても居られずに家に飛び込んだ奈帆人に、衛陸が不思議そうに部屋から出てくる。
「どうしたの、奈帆人さん。何か怖いことでもあったかしら?」
「え、エリさんは……」
恋愛感情が分からないと言った衛陸。分からないと言うだけの理由があったのだろうか。口ごもってしまった奈帆人に、千都が脇から顔を出す。
「あにうえは、エリさんにわすれられないひとがいるのではないかと、いっています」
「千都さんったら、奈帆人さんの通訳さんみたいね」
休憩しておやつにしましょうかと、衛陸がお茶を入れて、千都と奈帆人にプリンを出してくれた。プリンやムースやゼリーは千都の好物なので、左岸家には常備されている。
リビングのソファに座って、お茶をしながら衛陸は静かに話してくれた。
「大学時代の友達で、このひとなら好きになれるんじゃないかと思ったひとがいたのよね」
人懐っこくて、仲が良くて、彼ならば恋愛感情を抱けるのではないかと、衛陸はそのひとに付き合ってみないかと申し出た。快く了承されて、付き合い始めたは良かったのだが、その後が散々だった。
「どないやったんや?」
「普通にお付き合いする分は構わないのだけれど、キスとか、それ以上とか、お付き合いするとするものでしょう?」
友人として仲が良くて、そばにいることが心地良かったから、それ以上になれると思ったのに、いざ口付けられて、性行為に及ぼうとすると、衛陸は完全に拒否反応を起こしてしまったのだ。触れられることを受け付けない。素肌に触れられるのが、あんなに怖くて気持ち悪いと感じるのだと、衛陸は学んだ。
「そういうことが、苦手な体質みたいなの」
たった一人、安心して触れられる相手は晴海だけ。
「小さい頃、夜に眠れなくて、はるちゃんのお布団によく入っていったわ。はるちゃん、すごく寝付きがいいから、健やかに寝息を立てて寝てて、それに安心して、私も眠れたの」
「はるさんのことが、好きなんか?」
双子の兄弟として育てられたとはいえ、晴海と衛陸に血の繋がりはない。同じ病院に同じ日に捨てられていたというだけで、それは肌の色や人種の違い、顔立ちを見ても明らかだった。
「それこそ、大間違いだわ。はるちゃんは、私の大事な家族」
家族以外を深く愛することはできない。
衛陸の説明にも、奈帆人はめげなかった。
「未来なんて、誰にも分からへんやろ。いつか、エリさんが俺を好きになる日が来るかもしれへん!」
「その頃私はお爺ちゃんかも知れないわよ」
「お爺ちゃんのエリさんも、俺は好きや!」
この言葉に嘘はない。
はっきりと告げた奈帆人に、プリンを食べていた千都が「せつあにうえも、これくらいストレートだったら、こじれなかったんですけどね」と呟いていた。
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