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蝙蝠だって恋をする 6
本来蝙蝠は夜行性だ。夜の街を飛んで、奈帆人は街路樹に身を隠した。勢いで飛び出してきてしまったが、行くあてなどどこにもない。隣りの自分の家、和泉家ですら、世津と晴海が旅行に行っているので、厳重に戸締りがされている。
「野良蝙蝠ってどうやって生きていけばええんやろ……」
人間の食べ物か、血しか受け付けない吸血鬼の奈帆人だが、その血も運命の相手である衛陸のものでなければ、双子の晴海のものであっても吐いてしまうほどだ。無一文、身一つで蝙蝠の姿で飛び出してしまった奈帆人は、途方に暮れていた。
ぽつぽつと雨が降りだして、霧のような小雨が視界を奪っていく。木の陰に隠れているし、もう春とはいえまだ肌寒く、どこにも行けなくなった奈帆人は、体温を奪われて木にぶら下がったままで震えていた。
暖かなお家に帰りたい。
泣き出しそうになっていた奈帆人の耳に、衛陸の声が聞こえる。
「奈帆人さんー! どこに行ってしまったの? 家に帰りましょう?」
この雨の中をパジャマ姿にカーディガンを羽織って、衛陸は奈帆人を探しに出てくれたのだ。今すぐにでも飛び出して行きたかったが、それを恥じが邪魔をする。バスルームで衛陸の姿を思い浮かべて自分で抜いていたなど、目撃されたのにどうしてのこのこと出て行けようか。
諦めることなく、衛陸は奈帆人の名前を呼びながら、傘もささずに道を歩いていく。奈帆人のぶら下がっている街路樹の下を通りかかったときに、どれだけその胸に飛び込みたかったことか。
土下座して謝ったら許してくれるだろうか。
謝ってもギクシャクとした関係になるのならば、奈帆人は消えてしまった方がマシな気がしていた。
「猫でも探してるのかい?」
足を止めた衛陸が声をかけられていることに気付いたのは、衛陸が街路樹のそばを少し離れてからだった。
「そんな感じよ。お構いなく」
「どんな猫だい? 俺も探してやるよ」
酔っ払いらしき男性は衛陸に近付いていく。その距離が妙に近いのを、奈帆人の目は捉えていた。
「結構よ。放っておいて」
「でかくてゴツいけど、綺麗なお兄ちゃんだなぁ。この雨だし、ご休憩していかないか?」
男性の手が衛陸の尻を掴む。その光景を目にした瞬間、奈帆人は街路樹から飛び立っていた。
「そのひとに触るんやない!」
酔っ払いの男性と衛陸の間に割って入った奈帆人は、人間の姿に戻っていた。ただ、奈帆人は衛陸のことを助けるのに夢中ですっかりと忘れていたのだ。自分がバスルームからそのまま飛び立ったせいで、全裸であることを。
「ぎゃー!? 変態!?」
突如現れた全裸の奈帆人に、酔っ払いの方が悲鳴をあげて逃げていく。ハッとして気付いた奈帆人は、慌てて両手で股間を隠した。
「え、エリしゃんの、こと、たしゅけたかった、だけ、やねん……」
公道に突如現れた全裸の男、奈帆人。何も言い訳のできない状況に、蝙蝠になって飛び去ってしまいたかったが、素早くカーディガンを脱いだ衛陸が、それで奈帆人の体を包み込んでくれる。
「良かった、無事で。それに、ありがとう、私を助けてくれて」
ぎゅっと抱き締められ、「もうどこにも行かないで」と言われて、奈帆人は衛陸の腕の中でじっとしていた。カーディガンで包んだ奈帆人を姫抱きにして、衛陸が家に連れて帰ってくれる。
「あにうえ、みつかりましたか?」
「えぇ、見つかったわ。こんな夜にお留守番させてごめんなさいね」
「いいのです。でも、ちづはもうねむいので、ねます」
ソファでうとうとしながら待っていた千都は、綿毛布を引き摺ってベッドに向かう。衛陸は奈帆人の手を掴んだままで、バスルームに直行した。
「え、エリさん?」
「体が冷えたでしょう?」
「は、恥ずかしいから!」
「でも、一緒にいなかったら、奈帆人さん、どこかに行ってしまうかもしれない」
雨に打たれただけではない青ざめた衛陸の顔に、奈帆人は大人しく衛陸と一緒にシャワーを浴びた。豊かな大胸筋、引き締まった腹筋、丸い大臀筋、見事な太ももの筋肉まで、見ないように意識しないようにしていても、どうしても視界に入ってしまう。先程抜いたばかりなのに、また元気になりそうな中心を、胸中で般若心経を唱えて我慢して、奈帆人はパジャマに着替えた。
ソファに座った衛陸は震えているようだった。
「あの……迷惑かけてごめんなさい」
「良いのよ。もういなくならないでね」
自立する準備が整って、自分の意思で出ていくのならばともかく、あんな風に夜の街に飛び出すのは危険すぎると言う衛陸の表情は真剣そのものだ。
「エリさんは、怒ったりとか……気持ち悪かったりとか、してへん?」
自分の肌に触れられるのが苦手だと言っていた衛陸である、好きだとは伝えてあったので欲望の対象にされていると分かってはいただろうが、実際に見てしまうのはショックだっただろう。
「嫌、ではないの……」
ぽつりと漏らした衛陸の言葉に、奈帆人は身を乗り出す。
「どういうことや?」
「首に噛み付かれるのも、吸われるのも、他の相手なら多分、絶対無理だったわ。奈帆人さんなら平気なのが、不思議だったのよ」
「俺は特別ってことか?」
思わず鼻息荒く身を乗り出す奈帆人に、衛陸は気圧されたようにぽつぽつと話す。
「最初は、家族みたいに小さい頃から一緒だから平気なんだと思ってたわ。この前首を吸い上げられたとき、嫌じゃなくて……その、ちょっと気持ちよかったっていうか……」
言いにくそうに言葉を切る衛陸に、奈帆人が心の中でガッツポーズをする。
「さっきのお風呂で……奈帆人さんがしてたのを見ても、嫌じゃなかったし、奈帆人さんが服も着てないのに私のために人間の姿に戻って助けてくれたのも嬉しかった」
だから、試してみたのだと衛陸は言った。
同じバスルームで肌が触れるほどの距離で、シャワーを浴びても平気なのか。あれは奈帆人にとっては、ある種の修行のようなものだったが、それで衛陸に認められるならば、我慢した甲斐がある。
「それで、どうやった?」
「平気、みたい……だけど、実際にコトに及んで、無理でした、なんて、失礼すぎるでしょ?」
初めてで衛陸を抱こうとして、無理でしたと言われたら、今度こそ奈帆人は野良蝙蝠になるために家出してしまうかもしれない。衛陸が心配なのはそのことだけのようだった。
「体の問題やないんよ、エリさん。エリさんと体の関係がなくても、俺は……そら、めちゃくちゃしたいけど、嫌やったらせんでええ。本当に大事なのは、エリさんの気持ちや」
「私の、気持ち?」
「俺はエリさんが好きや。俺のこと子ども扱いせず、自分の言いにくいことまではっきり言って、真正面から俺に向き合ってくれるエリさんが好きや。エリさんのその高潔で美しいところが好きや。エリさんの穏やかな凪いだ水色の目、優しい表情、顔立ちも体も、エリさんの存在は美しい。愛してる」
蝙蝠になったときには乗せて撫でてくれる肉厚の手を取って、水色の目を覗き込んで言えば、戸惑うように衛陸は目をそらした。その頬が赤くなっているのに、奈帆人は確かな手応えを感じる。
「好きになっても、良いのかしら」
「エリさんが好きになってくれたら、俺は世界一の果報者になれる」
一世一代の口説き文句を全て並べ立てたつもりはあった。これでダメでも、まだ奈帆人は衛陸を諦めるつもりはない。衛陸の表情に、眼差しに、行動に、少しずつ好意が見え始めているのはまぎれもない事実なのだから。
「私、奈帆人さんにも世津さんにも……はるちゃんにも、言えてないことがあるの」
凛と顔を上げて言う衛陸に、奈帆人はそれがどんなことであろうとも、受け止める自信があった。
「なんでも、言うて」
「私、狼なの」
「はい?」
狼。
その単語に奈帆人は目を丸くする。まさか、ここで動物の狼が出てくるとは予測してもいなかった。愕然としている奈帆人に、衛陸は続ける。
「100万分の1とかの確率で、人種の違う、肌の色の違う双子が生まれてくることがあるらしいのよね。多分、はるちゃんと私はそれなの。それで、私の方が狼の血が強くて、はるちゃんは自分でも気付いてないくらいに薄いのね」
肌の色も顔立ちも全く違う褐色と白色の二人で、病院に捨てられていたところを拾われたというから、当然血は繋がっていないものだと奈帆人は勝手に思っていた。だが、自分が狼である自覚のあった衛陸は幼い頃から、晴海の匂いや雰囲気で自分と同種であると気付いていたようなのだ。
「きっと、はるちゃんは何も気付かないままに、人間として生きて、人間としての生を終えるのだと思ってた。私だけが残されるのだと」
しかし、大学に通うために戻ってきた左岸の家の隣りの家は、吸血鬼の家族で、人ではない衛陸と同じくらいの時間を生きられるかもしれないと気付いた。
「欲が出たのよ。ここに混じっていれば、私も孤独にならないで済むかもしれない。はるちゃんを失った後でも、家族のような存在ができるかもしれない」
結果として晴海は世津と結婚して、吸血鬼の伴侶となって同じ時間を生きることになった。大団円のはずだった。
「狼って、どういうこと?」
「正式には、狼男(ワーウルフ)なのだろうけど、私は血が強すぎるのか、人間の要素がなくて、奈帆人さんが蝙蝠になるみたいに、狼そのものになってしまうのよね」
まさかのお隣りでずっと一緒にいた衛陸が、人間ではなかったなど、世津ですら気付かないように隠し通した衛陸に奈帆人は驚きよりも感心していた。
「狼、やったんか」
「奈帆人さんは、吸血鬼の中でも血が薄いわ。私と結婚したら、多分、私の血が勝って、生まれてくる家族は全部狼よ? 狼に囲まれる蝙蝠として、生きていける?」
自分が奈帆人のことを好きかもしれない。そう気付いたときに衛陸が一番気にしたのはそのことだったという。
「狼でも、エリさんはエリさんや」
それに、猫よりもええ。
猫科の動物は蝙蝠のような小動物を弄んで殺して遊ぶ。狼ならばそういうことはないだろうと答えれば、奈帆人は衛陸の胸に抱き締められた。
「どこにも行かないで」
衛陸にとっては、奈帆人がバスルームから家出したことが、よほど堪えたようだった。
「どっこも行かへん。俺はエリさんのや」
答えて、奈帆人も衛陸を抱き締めた。
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