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青い世界に憧れて 4

 握った手が湿って熱かった。  ブルーモスクでもアヤソフィアでも、世津は晴海のそばを一瞬も離れず、ずっと手を握って隣りにいた。オレンジ色の瞳がキラキラと感激に煌めいて、握った手が熱く湿って、物も言わず集中して鑑賞する晴海の感動を伝えてきていた。  こんなにもこのひとは、美しいものに惹かれて、美しいものに夢中になる。その美しいものの中に自分が入っていることを実感しながら、感動する晴海の横顔をずっと見ていられるだけで、世津は幸せで楽しくて仕方なかった。  新婚旅行なので毎晩のように体を交わすのも嬉しくて仕方ない。 「はるさんは可愛いし、どこもかしこも綺麗やったし、はるさんとトルコに行けて良かったわ」  帰りの飛行機の中で晴海の逞しい肩にもたれかかって言えば、晴海が世津の肩を抱き寄せてくれる。 「俺も、世津さんと一緒で良かったです」  このひとならば一生一緒にいても大丈夫だ。  晴海がそう思ってくれたのならば、新婚旅行は世津にとっては大成功だった。  家に帰って、洗濯をしていると、衛陸と奈帆人が報告に来た。衛陸はいつもの穏やかな様子だったが、奈帆人は頬も火照っていて、脚も子鹿のような足取りで、衛陸に抱き寄せられているような形になっている。  出掛ける前に、奈帆人は衛陸のことを抱きたいと思っていたようだが、その様子を見ると、抱かれたのは奈帆人ではないかと世津はハッとする。 「奈帆人が抱きたい言うてたから、エリさんに振られてて……奈帆人が抱かれる方を了承したから、くっ付いたってことか……」  抱きたい奈帆人と、抱きたい衛陸では、それは確かに振られもするだろう。それで、奈帆人が抱かれる方を受け入れて、二人が付き合うことになったのならば、世津は祝福する以外できることはないが、まさか、トルコから帰ったら弟が嫁に行っていたなどという事態になるとは思わず、呆然としてしまった。  その間にも晴海と衛陸の双子は「良かったね」と言い合っている。  買ってきた赤い花とオレンジのお茶で乾杯をして、世津は蕩けて衛陸にしなだれ掛かる奈帆人が雌にしか見えず、「まさか俺の弟が雌になるやなんて」と何も言えないでいる間に、晴海は衛陸と奈帆人と千都にお土産を渡して、トルコのことを話していた。 「すごく美しかったよ。ブルーモスクのドームも美しかったけど、世津さんがアヤソフィアにも行こうって誘ってくれてね」 「はるちゃん、そういうの大好きだものね。世津さんが気の合うひとで良かったわ」 「本当に、世津さんのお陰ですごく感動して、楽しかった」  オレンジ色の目を煌めかせる晴海の横顔に癒されていると、千都がトルコの伝統手芸の縁飾りで作られたネックレスを首にかけて、誇らしげな顔で世津を見てくる。 「あにうえ、にあいますか?」 「ちぃちゃん、かわええで」 「はるさんがくれたのです。やはり、あにうえとはセンスがちがいますね」  嬉しそうに鏡を見に行く姿は5歳児なのだが、吸血鬼の血が濃いせいか、ときどきどきりとするほど鋭いことがあるので、妹ながら油断ができない。奈帆人と衛陸には、モザイクのキャンドルホルダーを二人で選んだ。 「世津さんには、これを」  一緒に旅行に行ったので、自分にまであるとは思っていなかった世津は、壁に飾る大きなタイル装飾を渡されて驚いた。初日に晴海が店を聞いてまで行きたがって、ずいぶん悩んで買っていた、赤と青の花のタイルのうち、赤い方を渡される。 「これ、俺にやったんか?」 「本人の目の前で買うのもどうかと思ったんですけど、俺と世津さん、旅の思い出に、部屋に飾れたらいいなと思って」  照れ照れと言う晴海に、世津は飛び付いて「ありがとう!」とお礼を言った。もらったタイルを部屋のどこに飾ろうかと悩んでいると、玄関のインターフォンが鳴る。  上機嫌で出て行った先に、死んだ魚のような瞳の編集者が立っていた。 「……和泉先生、原稿、できてますよね」 「いや、あー、えーっと……」  何事かと玄関にやってきた晴海が、世津を見る。 「もしかして、世津さん、お仕事があったんですか!?」 「どこでも原稿は書けるかなって思てたんやけど……トルコ、楽しかったから、つい」 「ついじゃないですよー! 原稿、落ちますよ!」  編集者に縋り付かれて、世津は目をそらす。 「書く。書きます。すぐに、書きます」 「そんなこと言って、また、ふらふらどこかに行っちゃうんでしょう。先生、原稿煮詰まると、どこか行っちゃうから」 「え? 世津さん、どこかに行っちゃうんですか?」  驚いた様子の晴海に、世津は慌てて首を振った。 「どっこも行かへんよー! はるさんのそばに一生おるに決まってるやん」  縋り付いて晴海に言う様子に、編集者は何か察したようだ。晴海に近付いて、深々と頭を下げる。 「編集者の飽田(あきた)と申します。和泉先生の原稿が出来上がるまで、そばにいてあげてくれませんか?」 「左岸晴海と申します。俺でお役に立てるなら」  こうして、世間で流行っている「××するまで出られない部屋」ではないが、「原稿が終わるまで出られない状況」が出来上がってしまった。 「ご飯は作って持ってくるから、はるちゃんは、世津さんのそばにいてあげるといいわ」 「ありがとう、エリちゃん。奈帆人くんも無理しないようにね」  へにょへにょと笑って衛陸に抱き上げられるようにして左岸の家に戻っていった奈帆人を見送り、千都にはお茶とおやつを用意して、晴海がスケッチブックを広げて今回の旅行の覚書や、デザインを書いている隣りで、鬼の形相でパソコンのキーボードを叩き続けた。幸い、話の構想はできていたし、資料も衛陸から受け取っていたので、後は書き出すだけだった。そのせいで、どこでもできると油断してトルコ旅行を楽しみすぎて、原稿が落ちかけたことに関しては、世津は反省していない。  夕飯は衛陸が作ってきてくれたものを食べて、休憩する。 「そういえば、はるさん、写真とかないん?」 「あ、写真。ごめん、俺、見るのに集中して、写真撮るのいつも忘れるんだよね」 「せっちゃんは写真は?」 「はるさんと手ぇ繋いでたさかい、撮られへんかったわ」 「あぁ、ご馳走さま」  惚気る世津をあっさりとあしらう奈帆人に、「もっと俺の話を聞け!」と言いたかったが、事態はそれどころではない。休憩を終えるとまた原稿。  書き終える頃には夜が明けていた。  締め切りは破ってしまったが、印刷には間に合うということで、編集者さんに渡して、朝食を食べて、シャワーを浴びてから、世津と晴海はベッドに入る。 「俺のせいではるさんまで徹夜させてごめんなさい」 「えぇ、俺は怒ってますからね。次からはもっと健康で計画的に仕事ができるようにしてください」  怒っていると言いつつも、抱き締めて世津を寝かせてくれる晴海の声は優しい。  その胸に埋もれて、世津はぐっすりと眠った。  起きたのは千都を保育園に迎えに行く頃で、大慌てで準備をして保育園まで走る。お帰りの支度をしていた千都は、世津の顔を見てふっと大人びた笑いを浮かべた。 「はるさんとへんしゅうしゃさんに、ごめいわくをかけてはいけませんよ、あにうえ」 「はい……」  18歳も年の離れた妹なのに、奈帆人も千都に頭が上がらないが、世津も時々千都に頭が上がらない。  それから締め切りのたびに、世津の隣りに座って晴海は作業してくれるようになった。他人がいると仕事がしにくいかと思っていたが、晴海がそばにいると不思議と落ち着いて、心が凪いで仕事が捗る。そのことを編集者の飽田に話すと、次回から菓子折りを持ってきて、「バイト代払うので、和泉先生の隣りに座っててください」と晴海に頭を下げていた。  世津と晴海、新婚生活も順調だった。

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