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蝙蝠と子猫兄弟 2

 和泉奈帆人は、人生最大の危機に見舞われていた。 「もーいーよー? いーよー?」  隠れんぼをしているつもりなのだろう、真和は鬼なのに「もういいよ」と言うものだと勘違いして、奈帆人を探している。活発な兄はソファの上に飛び乗ったり、テーブルの下に潜ったりしているが、ゆったりした弟の真那は歩くよりもはいはいをした方が早いと判断したのか、床に手をついて「いーおー」と真和の真似をして叫びながら奈帆人を探している。  時間はその日の昼まで遡る。  午後は大学の授業が休講になった奈帆人は、衛陸とご飯を食べようと携帯電話をチェックした。液晶画面にメールの表示がある。開けてみると、衛陸からのものと、世津からのものだった。  どうしても外せない出版社の会合に作家の世津と、その資料を翻訳している衛陸の二人が招かれて不在だという。威月は夜まで舞台の稽古が入っていて、晴海は病院に定期検診に行くという知らせ。その時点で、嫌な予感はしていた。 「つまり、俺がちぃちゃんと真和くんと真那くんを保育園に迎えに行って、はるさんが帰ってくるまで、みとかなあかんってこと!?」  午後6時までは保育園が子どもたちを預かってくれるが、お迎えがあまり遅くなると千都の機嫌が悪い。早くお迎えに来られる日は行くのが保育園の決まりであるから、晴海が早く帰ってきてくれることを願って、大学の帰りに奈帆人は保育園に三人を迎えに行った。 「ちぃちゃん、真和くんとお手手繋いでな。真那くん、しっかり掴まって」  保育園の保育士に挨拶をして、お昼ご飯を食べ終わった三人を千都と真和に手を繋がせて、真那を抱っこして家に戻るまでは良かった。三人は保育園でお昼ご飯も食べていたし、お腹がいっぱいで眠くなっていて、お昼寝をしている間に、奈帆人は自分の昼ご飯を準備して食べた。片付けを終えて寛いでいると、威月の部屋兼真和と真那の部屋から泣き声が聞こえる。 「真那くん、起きた? オムツが濡れたやろか」  オムツを替えて着替えさせると、真那は元気に起きてきた。泣き声で真和も起きて、千都も起きて、遊び出す。  最初は三人で遊んでいたから良かったのだが、そのうちにつまらなくなったのか、千都が奈帆人の手を引いた。 「あにうえは、きんじょにすてられているいぬなのです」 「おままごとの配役とはいえ、ちょっとお兄ちゃんの扱いが酷くない、ちぃちゃん?」 「しかたないですね、ちづがおかあさんで、まなくんがおとうさんなので、あにうえはあかちゃんですよ?」  5歳児と1歳児の夫婦の間に、赤ちゃんとして配役される理不尽。それに耐えておままごとをしていたら、真和が言ったのだ。 「あかたん、ちったい! ちったくなって!」 「それは……もしかして、蝙蝠になれってことかいな」  恐れていた事態が起きてしまった。奈帆人が大きすぎて赤ちゃんらしくないので、真和は蝙蝠になれという。 「まおくん、てんさいですね。あにうえ、おねがいします」 「いやいやいやいや、生命の危険を感じるんやけど!?」 「あにうえ?」  笑顔で千都に圧をかけられて、渋々「絶対に乱暴に扱わんといてや!」と真和と真那に言い聞かせたのだが、しばらくはままごとに夢中になっていたが、そのうちに小さな鉤爪が動く様子や、尖った鼻がぴくぴくするのに、真和も真那も我慢できなくなったようだった。 「ちゅかまえゆ!」 「うー! あー!」 「あかーん! ままごとは、そんな遊びやなーい!」 「いま、ままごとはおいかけっこに、かわったのです」 「待って、ちぃちゃん! 急に変えんといてー!?」  蝙蝠の奈帆人を捕まえたがる真和と真那に、奈帆人は大人気なく本気で飛んで逃げた。息を潜めて、クローゼットの中でかけられた衣服に紛れてぶら下がって隠れる。 「ここかなー?」 「あにうえーまおくんと、まなくんが、さがしてますよー?」 「うぁー?」  キッチンに入れないようにと、二階に上がれないように柵がしてあるので、ものすごく危険な場所はないはずなので、このまま隠れ続ければ命は助かるかも知れない。瞳孔が縦長になった真和と真那の二人に、本当に捕まってしまったらどうなるか分からない。恐怖のあまり、奈帆人は人間の姿に戻ることも忘れていた。 「あーにーうーえー?」 「うわぁぁぁぁ!?」  クローゼットを開けて光が入ってきた瞬間、奈帆人は叫んで羽をばたつかせて飛び出ようとした。それを猫科の素早い動きで、真那が捕まえてしまう。 「まなくん、ちゅかまえた! しゅごいねー!」 「すごいのです、まなくん」 「んふっ!」  鼻息荒く誇らしげな顔になった真那の小さな両手でがっしりと掴まれて、奈帆人は気絶しそうになっていた。羽を広げられたり、匂いを嗅がれたりした後で、涎まみれの口で背中を吸われる。 「いやー!? 俺は食いもんとちゃうー!」 「まなくん、へんなものたべちゃ、だめなのですよ?」 「まなくん、めっ、よ?」  千都と真和に止められても、ぢゅっぢゅと奈帆人を吸ってご機嫌の真那に、奈帆人は気絶しかかっていた。 「奈帆人くん……? 真那くん、奈帆人くんを食べたらダメだよ?」  救いの手は、玄関から歩いてきた晴海のもので、優しく真那の手から解放した奈帆人を、安全地帯のソファのクッションの上に置いてくれる。助かったとホッとして、奈帆人はクッションの上で潰れていた。 「帰りが遅くなってごめんね。お土産のゼリーがあるよ。おやつにしようか」  未練がましく奈帆人を追いかけて、手を伸ばしていた真那も、晴海の口から出た「おやつ」という言葉に、素早く自分の部屋にかけて行って、スタイを持って戻ってきた。 「よくわかっているのです。えらいのです」  褒めながら、千都が真那にスタイを付けて、晴海が三人を椅子に座らせて、おやつを食べさせ初めて、ようやく奈帆人に平穏が訪れた。  ソファで休んだおかげで気力を取り戻して人間の姿に戻っても、背中が涎でびしょびしょになっていて、しょぼくれた奈帆人にも晴海はゼリーとお茶を出してくれた。 「はるさん、帰ってきてくれてありがとう……」 「一人で大変だったね」 「めっちゃ大変やった……」  テーブルに突っぷす奈帆人を晴海が慰めてくれた。  会合から早めに帰ってきた世津はいそいそと晴海に病院の定期検診の結果を聞きに行き、衛陸がびしょびしょでしょぼくれている奈帆人を姫抱きにしてくれた。その胸に縋ると、涙が出てきそうになる。 「俺、子育てとかできへんかもしれん」 「三人も一人だけで見るのは大変よ。今日はよく頑張ったわね」  威月も帰ってきたのでみんなで夕食を食べた後で、「今日は先に休むわね」と衛陸が奈帆人を連れて左岸の家に戻って行った。しっかりと抱き締められて、ホッとしていると、バスルームに連れて行かれる。 「ぜぇんぶ、洗ってあげるわ」 「エリさん!」  涎でびしょびしょの背中も、甘噛みされた体も、全部。  一日の苦労が報われた気がして、奈帆人は衛陸にしがみ付いて泣いてしまった。  お風呂で体も髪も洗ってもらって、バスタブにぎゅうぎゅうになりながら二人で入ってリラックスする。口付けて体に触り合っていると、精神的にだけでなく、奈帆人の中心も元気になってくる。 「エリさん、今夜、ええやろ?」 「明日に差し支えない程度なら、ね」  色っぽく微笑む衛陸に、奈帆人は蕩けきった顔を見せた。  その後は奈帆人は子どもの相手をするときにはできるだけ、衛陸と一緒に行動するようになるのだった。

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