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優希と緑朗④

 強い空腹を感じていい加減何か食事をしなければと体を起こすと、全身に散らばる情事の痕が生々しく浮かび上がっていた。 「……やらしい体になっちゃったね」  禄朗はベッドに横たわったままひとつひとつ、自分がつけた痕を指でたどった。施されるその刺激でさえ敏感に感じてしまうコントロールの効かない身体に不安さえ抱く。 「責任取ってよ」  ため息交じりに訴えると、彼は面白そうに瞳を輝かせ気軽に答えを返してきた。 「優希が望むならいいよ。責任取る」 「またそうやって適当なこと言って」  適当な言葉でその気にさせておきながらあっさり捨てていくのだ。禄朗という男は。嫌というほど学んできた。 「えー、本気で言ってるんだけどな」  悪びれることなく続ける彼を軽くにらみつけると、むき出しのお尻を軽くたたいた。引き締まった尻肉がぺちんと軽い音を立てる。 「いて」 「よく言うよ。それよりお腹すいた。……何時?」  ベッドサイドに転がって落ちた時計を拾って見るとどうやらまだ深い夜の時間帯だった。あれからそんなに経ってないのかと首を傾げつつ、携帯の電源を入れて確認して驚いた。  日付がかなり進んでいる。どうやらベッドの上だけで二晩過ごしてしまったようだった。おなかがすいて当たり前だ。それに、明日美からの着信とメールが何件も届いている。  無理やり電話を切って以来何の音沙汰もなく電話も通じなくなっていて、きっとものすごく心配しているだろう。彼女が不安に過ごすだろうことを全く考えてあげられなかった。  その上、名前を呼ばれたというだけで明日美にひどく嫉妬してしまった。彼女には何の落ち度もないのに。 「優希?」  携帯を見つめたまま固まった優希を後ろから抱きしめて、禄朗が囁いた。 「明日美ちゃんに連絡する?」 「……いや、いいよ」  今更電話したところでどうにもならない。どんな顔をして話せばいいのか想像もつかなかった。  禄朗に会おうと決めた瞬間から、穏やかで幸せと思えた日常は手放したのだ。 「ねえ、……別れてないつもりだったって本当?」  再会したバーで言われたセリフを思い出す。別れたつもりじゃなかったって、迎えに来るつもりだったって、あれはどこまでが本当なんだろう。 「本当だよ」  頬を寄せたまま禄朗が答えた。 「最初はアメリカに行って、いつものようにちょっとだけ勉強するつもりだったんだ。でも思いがけず有名な先生に拾ってもらえてさ。毎日目まぐるしくて覚えることも刺激もいっぱいで……こき使われてくたくたで、でも優希がいるからがんばれるって、思って……気がついたら七年たってた」  ごめんな、と彼は囁いた。 「もっと早く連絡するつもりだったんだけど」 「ほんとだよ」  待ってろ、と言われたら待っていられた。何年だって信じていられた。手紙の一つ届けてくれれば、それで十分だった。なのに勝手に捨てられたと思い込んで他人の優しさに逃げてしまったのは、優希の弱さだ。無駄に明日美を傷つけることになってしまった。 「嫌になるな……」  あまりにも情けなさすぎる。禄朗に依存しすぎていた自分にも、受け止めて支え切れなかった幼さにも。自己嫌悪で膝に顔をうずめた優希へ、禄朗は囁いた。   「一緒にアメリカへ行かないか?」 「えっ?」  聞き間違えかと思って振り返って問いかけると、禄朗の真摯しんしな視線とぶつかった。これは本気な時の目だ。 「アメリカ?一緒に、って、本気で……?」 「そう」  あの時ほしかった言葉を今、言うのか。  ほかの女性と結婚して普通と呼ばれる穏やかな日々を送っている今。行きたい、と思う。禄朗と一緒に、今度こそ行けるのなら何を捨ててもいい。 「日本に帰ってきたわけじゃないんだ?」 「今は一時帰国なんだよな。実はこれから個展を開けるかもしれないってなって……どうしても優希に会いたくなった。おれの写真にはおまえが必要なんだ」  そっと優希の手を取り、甲に唇を落とした。映画の中の王子が求愛するかのように、優しく。 「昔は怖くて一緒に行こうって言えなかったけど……今なら言える。お前を連れてくよ」 「……連れて、行ってくれんの?」 「お前が望むなら」  ぎゅうっと厚くてたくましい胸の中に閉じ込められた。当てた耳からどくんどくんと禄朗の命の音が聞こえてくる。彼の緊張が伝わってくるようだった。 「……そうだね」  この先二度と離れないでいられるのなら、どこまででもついていこう。  明日美との生活がモノクロになって遠く離れていく。優希は瞳を閉じると全身を禄朗に預けた。  朝方、まだ陽が上がる前。家に戻ると、部屋の電気はついたままだった。体中にまだ禄朗の匂いが沁みついて残っている。体の奥もじゅんと潤ったままだ。あれからもう一度抱き合って食事をし、連絡先を交換し合って別れた。禄朗の出発はまだ未定だが、日本での準備が整い次第向かうということ。それまでに片付けなければいけないことは山積みだ。仕事も辞めなきゃいけないし、明日美とも話し合わなければならない。  優希の勝手に振り回してしまうことは申し訳ないけど、もう二度と禄朗と離れたくなかった。 「……ゆうちゃん?」  ふいに寝室から声がして、明日美が姿を現した。 「あっ……、起こした?」 「ううん」  フラつきながら歩いてくる明日美の目の下にはくっきりとクマができている。あまり眠れていなかったのだろう。優希の元へたどりつくと、強く抱きついて声を震わせた。 「よかった……っ、帰ってきてくれた……」 「ごめん、心配かけて」 「本当に、心配したの。何かあったのかと思って……連絡も取れなくて……怖かった」  腕の中の明日美は少しやつれている。帰れないと連絡を一本してあげればよかったと申し訳なく思う。 「ごめん、余裕なくて、連絡できなくて……」  肩を震わせ優希から離れない明日美の背中を撫でながら、どうやって別れを切り出そうかと考えてしまう自分はなんて冷たい人間なんだろう。明日美との間のずれは一気に生じ、取り返しのつかないところまで来ている。 「ごめん」 「ゆうちゃん……っ」  とりあえず落ち着かせようと明日美の肩を抱いた。禄朗と違って細くて柔らかい女の体。数日前までたったひとりの大事にしていた妻の体が、今はとても他人のものに思えてしまう。 「ごめんね、ぼくは大丈夫だから……落ち着いて?」 「……っ」  なだめるように抱きしめながら寝室へと連れていく。興奮が落ち着くまで、ベッドで添い寝した。静かな寝息が聞こえてくるまでは、そんなに時間がかからなかった。  乱れた前髪をかきあげると、若々しかった明日美が一気に老け込んでしまった。弾ける若々しさは鳴りを潜め、濃いクマに縁どられたまぶたは落ち込んでいる。  どれだけ心配をかけたのかと思ったら胸が痛む。彼女には何の落ち度もないのだ。被害者でしかない。こんな男でごめんね、と聞こえていない明日美に囁く。 「こんな、ろくでもない男でごめん」  幸せにしてあげたいと思っていた。それは嘘じゃなかった。優希に笑顔を取り戻してくれた彼女を、大事にしていこうと思っていたのに。  禄朗は逃げられない麻薬のようなもの。魅せられて一度触れてしまったら逃れることはできない。そしてその深みに望んではまり込んでいくのは、優希の意思だ。  ベッドから抜け出るとひっそりとしたリビングへと足を忍ばせた。隅々まで綺麗に片付けられた清潔な部屋に、もう自分の居場所はないのだ。今の優希からは遠く離れた世界に代わってしまった。  カーテンを開けると遠くがほんのりと色づき始めている。新しい一日が始まろうとしていた。ふいにポケットの中にしまっていた端末がメールの着信を告げた。 「……」  見ると禄朗からで、『早くお前に触れたい』とたった一言。 「……今更マメかよ」  欲しいと思っていたころは一度も連絡もよこさなかったくせに。散々抱き合ったあとで施される勝手に、小さな笑みが漏れる。  __好きだよ。  もう二度と口に出せないと思っていた気持ちが胸の奥から湧き上がる。早く会いたいのは優希も同じだった。端末を唇に当て、禄朗と初めて出会った時のことを思い出していく。  あれは大学に入ったばかりのころだった。幼くて人見知りだった優希の前に、突然現れた太陽のような眩しい存在。その求心力はあっという間に人を集め、にぎやかで笑いの絶えないかたまりの中心にいたのが禄朗だった。その眩しさにくらんでしまったのは、多分優希だけじゃない。  憧れを込めた視線を送っている人がたくさんいる中、たまたま同じゼミで前後に並んだ。話をするようになれたのが、信じられないくらいの奇跡だ。最初はおどおどと、だけど強い力で禄朗に引き込まれていく。元々にぎやかな場所が苦手でうまく交じりきれない優希に、彼はいつも声をかけてくれた。  写真が好きなんだとはじけるような笑顔で語っていた禄朗。隣にいれるだけで幸せで__好きだとは言えなかった。恋愛感情だとバレてしまったら、もう笑いかけてもらえない。だから気持ちを押し隠して、友達でいれたら十分だと言い聞かせていた日々。  __きっかけはなんだったっけ、と記憶をたどっていく。多分あれは、サークルに誘われた時だったと思う。 「優希も一緒に写真サークルに入ろうぜ」 「……サークル?」  垢ぬけなくて引っ込み思案だった優希がたじろぐと、禄朗はおもむろに近づき、顔を隠していた長い前髪をグっとかきあげて「やっぱり!」と叫んだ。 「お前、絶対、美人だと思ったんだよなー」  キラキラとした瞳で、彼は勝ち誇ったように笑った。 「その前髪で顔隠すのやめてさ。もっと、堂々として……視線上げて、背筋伸ばして。心の中でいってみ、ぼくは美人です、って」 「美人って、なにを……?」 「優希のこと!絶対きれいだと思ってた。おれの勘は大当たりだな」  うんうんと一人納得したようにうなずきながら、強く言葉をつなぐ。 「なあ、顔隠すのやめとけって。もったいないから。おれの行きつけの美容室連れってってやるよ。任せろ」  ぐいぐいと腕を引かれ、何が何だかわからないうちにおしゃれな美容室の鏡の前に座っていた。緊張のあまりおどおどとしていても、大丈夫だからと言われると本当に大丈夫な気になってくるから不思議だ。  禄朗は片時も離れず美容師と何やら言葉を交わし、その都度優希は変化していった。彼の望むように作り変えられていく。それは興奮さえ与えてくれる体験だった。こざっぱりと整えられた鏡の中の自分が自分じゃないようでオロオロする優希に、禄朗は満足そうに笑いかけた。 「想像以上。やっぱお前きれいだわ……惚れる」 「ほ、惚れるって……っ」 「うん」  禄朗は独りごちて何かを得たように頷くと、今度は買い物へ行こうと連れ出された。 「おれ好みに変えちゃっていい?」 「……いい、けど」  それはとても気持ちの高ぶる時間だった。  自分をあまり構わず、普段の買い物も適当に済ませていた優希の世界が禄朗によって更新されていく。知らない世界、見たことのない煌めきの中に、優希は足を踏み入れ始めた。  あまり高くもないのに質が良くて優希になじむような服を選び、どんどん垢ぬけていく様を禄朗は嬉しそうに眺めている。 「いいなあ、やっぱりおれのタイプど真ん中だった。なあ、おれたち付き合わない?」  その日の帰り道、なんでもないことのように禄朗は言った。 「つきあうって、どこに」 「そうじゃなくて、おれと恋人同士になろうってこと」 「こ、恋人?!」  思いもしなかった展開に、優希は動揺した。ほのかな想いがばれていたのかと焦ったがそうではなかったようだ。禄朗が真剣な顔で優希に求愛している。 「おれじゃダメ?」 「ダメ、じゃない……けど」 「ホント?やった!じゃあさ、モデルになってよ」 「モデル?!」  今まで目立たずひっそりと生きてきた日常では起こりえないことが次から次へとおこり、優希は必死に頭をひねった。 「君は一体、何を……」 「君じゃなくて、禄朗。呼んで、禄朗って」 「禄朗」 「そう。おいで」  手をつながれ、禄朗の家へと連れていかれた。優希の住む一人暮らしのマンションより少し小さくて古ぼけたアパートの一室で、その日優希は禄朗を初めて受け入れたのだ。  禄朗に誘われて入ったサークル活動は思いのほか楽しかった。カメラを構えた姿はかっこよくて、見惚れていたらいつの間にか写真を撮られていたことなんかザラにあった。 「普段は風景画しか撮らないんだけど、なんだろな……優希を初めて見たときから、この子撮ってみたいなって思ってさ」  布団の中で裸でくつろぎながら禄朗はよくカメラをいじっていた。  その隣で寝ころびながら、裸で過ごすのはいつまで経っても慣れなくて恥ずかしかった事を覚えている。 「モロ、おれの理想だったっていうか。だから隠された優希がもったいなくて……でも、一皮むいたら想像以上に好みだったから、こりゃーほかの奴の目に触れさせるわけにはいかないぞって」  そんな甘い言葉を吐きながら、シャッターを押していく。気だるげでアンニュイな表情の自分の写真を見たときは、これは本当に自分なのかと驚いたりもした。優希の知っている姿とはまるで別人で、禄朗にはこう見えているのかとほんの少し誇らしい。  自信がなく俯いてばかりで、人との距離を怖がっていた優希を連れ出してくれた新しい世界。禄朗の隣で優希はどんどん花開いていく。  日に日に華やかさを増す優希に、いつの間にか取り巻きができ、友人と名乗るものが現れ、それは禄朗がもたらしてくれたものだった。その先に今の優希がある。あれから十年が経つのか。禄朗と離れた世界で築いてきた生活が信じられないくらい、それは生々しく今に接続された。 「ぼくも、会いたい」  メールにそう返信して、久しぶりに味わう甘酸っぱさに端末を抱きしめる。禄朗だけが優希に変化を与え、否応なしに新しい世界へ引きずり出していく。  まだ体内に彼がいるかのよう。散々受け入れた優希の体内に、禄朗の命の種がまだ残っている。  ぼんやりとイスに腰掛けながら空を見上げ、ただ禄朗のことを想っていた。

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