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蜜月①
夢のような時間を過ごしても、いやおうなしに日常がやってくる。ほとんど睡眠をとっていないけれど、不思議と眠たくなかった。身体の奥から気力がわいてくるような気さえする。
明日美はぐっすり眠ったままで、その顔はいまだ疲れ切っていた。声をかけず自分で朝食の用意をし、彼女の分にはラップをかける。こうやっていつもの朝を過ごしていると週末の出来事は嘘だったように危うくて、優希はブルリと震えた。
禄朗を欲していたから見た白昼夢。そんな恐ろしいことを考えてしまう。だけど現実だったことを教える禄朗の痕を残している体に安心した。ワイシャツのすきまから情事の色が見えないよう細心の注意を払いながら、ネクタイを締めスーツにそでを通す。
会社に行くとなぜかすれ違う人がみんなはっと息をひそめるように優希を振り返った。あからさまなわけではなく、不意に何か気がつき優希に視線を送る。ため息にも似た息遣いにキスマークが見えているんじゃないかとひやひやしたが、鏡の前でいくら確認しても禄朗の残した赤色はどこからもみえていないはずだった。いくら何でも職場で色事を見せびらかす真似はしたくない。居心地の悪ささえ感じていたら、ぽんと肩を叩かれた。
「斎藤くん、その様子だと盛り上がったようだね!」
そう声をかけてきたのは、同僚の板垣だ。
「何を言ってるんですか」
いぶかしく問いかけると、口元を緩ませながら板垣は耳元でささやいた。
「だって、お前気づいてる?」
ひそっと秘密を暴くように、彼は言葉をつづける。
「めっちゃフェロモン駄々洩れ。遠くからでもピンクオーラがキラッキラしててまぶしいの」
「ピンク……オーラ?」
「なんだろうね?今日の斎藤は色っぽいよ、やらしい雰囲気むんむん。つか新婚じゃないのに仲いいね」
じろじろとのぞきこまれ、嘆息する。その瞳には今まで見たことのない色が光っていた。
「仲がいいのは良いことだよ。うらやましい」
「そんなことないですよ」
「そうなの?つーかこれ、セクハラだった?」
「そうですね。朝っぱらからものすごくセクハラです」
「わはー、ごめん!訴えないでくれる?」
「考えておきます」
そっけなく答えながらも、優希の心臓はバクバクと音を立てていた。
昔からそうだった。禄朗と過ごした後は何かが漏れているのか、いつも人の視線を引き付けてしまう。それがフェロモンなんだっていうなら、彼から与えられたものだ。禄朗が触れた場所が熱を持ち、火照ったまま自分では止めようがない。仕事中はあまり考えないようにしよう。
そう決めると気持ちを引き締め、仕事へ向かった。
昼になるちょっと前に、ポケットの中で端末がメッセージの到着を告げた。見ると明日美からだった。
『ごめんね。朝、起きれなくて』
しょぼんとしたキャラクターのスタンプのあとに『今日は早く帰ってこれる?』と続いた。あんなに心配をかけてしまったあとだからか、文字から明日美の不安が伝わってくる。こんな不誠実な男に、愛情を注ぐ彼女が哀れで悲しい。
『早く帰るようにする』と返事を送り、ポケットへしまった。
本当は禄朗に会いたい。今すぐにでも抱きしめあいたい。彼の熱でいっぱいになってしまいたい。
もう一度端末を取り出すと、指を滑らせた。昨夜のメッセージを開く。
『早く、お前に触れたい』
その言葉が耳元で聞こえるかのようだった。会いたい。
通常通り帰宅すると、玄関へ迎えに出た明日美は心からほっとした表情を浮かべた。
「ゆうちゃん、おかえり!」
「ただいま」
「今ご飯作ってるところ。先にお風呂にする?」
「お風呂もらってもいい?」
「了解!ゆっくり入ってきて」
いつも通りニコリと笑う明日美に微笑み返し、バスルームへ向かう。ワイシャツを脱いだ体には、まだしっかりと禄朗の痕が刻まれていた。
筋の浮き出た大きな手が体中をまさぐっていく。味わうように優希の体に唇を這わせ、噛み痕をつけていく。吸われて、ざらりとした舌が全身を舐めていく。そのひとつひとつを思い出すだけで、全身がうずいてしまう。
気持ちを切り替えなきゃと言い聞かせ、風呂から出ると夕食の美味しそうな匂いがした。
「なんか豪華だね」
「うん、この前の仕切り直し」
「そっか。……ごめんな」
向かい合って座り食事に手をつけた。口に運ぶと、ジュージーな肉の味がいっぱいに広がる。
「美味しい」
「ふふ」
優希の美味しそうな顔を見て、明日美は嬉しそうに笑う。本当にいい人だな、とまぶしい気持ちで明日美をみつめた。こんなに可愛くて優しくてよくできた女の人なんかそういるものじゃない。人間関係に疎い優希にでもわかる。
なんで優希なんかと結婚しようと思ったのか、いまだに不思議でならない。不器用でろくでもない優希に、普通の人生を歩ませてくれる明日美には感謝してもしきれない。彼女がいなきゃ、今頃どうなっていたのか想像もつかなかった。それなのに、平気で明日美を裏切っている。今この瞬間でさえ、ここにいない禄朗でいっぱいになっているというのに。健気な彼女に胸が痛んだ。
「ごめんね」
優希はもう一度謝った。謝ったってどうしようもないことは百も承知で、そうすることが自分を楽にすることもよくわかっていた。どこまでもずるい男だ。だけど明日美は首を横に振り、ニコリと笑った。
「いいよもう。それよりね、わたし、ゆうちゃんにいわなきゃいけないことがあるの」
心なしか上気した顔で、明日美は優希を見ていた。ぞわり、としたものが背筋を駆け抜けていく。
聞いちゃいけない予感がする。聞いてしまったら戻れなくなるような、なにか。
「……なに」
「あのね、わたし」
嬉しそうに言葉をつなぐ明日美から視線がそらせない。なんで今?とか、どうして?とか、嘘だろ?とか。思わず口から出てしまいそうな言葉をなんとか飲み込む。
「……本当に?」
そう聞き返すと明日美はコクリとうなずき、嬉しそうに頬を高揚させた。
「予定日は五月だって」
「五月」
「なんだか体調がすぐれなくて、そういえば生理も来てないなって……もしかしてって思って、あの日レストランに行く前に病院へ行ってきたの」
どうしよう!わたしたちついにパパとママだって、と明日美は嬉しそうに笑っている。
「そうか」
言葉が繋げない。
禄朗に会ってしまう前に聞かされていたら、きっと迷いなく心から喜べていた。明日美を抱きしめ、よかった、うれしい、体を大事にするんだぞ、とおなかを撫でていただろう。だけどなんで今なんだ?
顔色をなくす優希に気づき、明日美は悲しげに眉を寄せた。
「……うれしくなかった?」
「いや、そんなはずないよ。その、突然すぎて……びっくりして」
おめでとう、と絞り出すように言葉を出す。
「本当に明日美のおなかの中に、ぼくの子供が」
「うん、そうだよ。ここにいるの」
愛おし気におなかに手を当てて、明日美は微笑んだ。まだペタンコなそこに、新しい命が宿っている。ふいに優希の腹の奥がずくんと鈍い痛みを発した。
ここに残っている禄朗の種は命を芽生えさせることはない。どんなに濃厚に何度もそそがれても、優希のおなかの中では命を育めない。そういうことなんだ、とガツンと殴られるような衝撃があった。思い知らされる。どんなに禄朗と体を繋げても、どんなに好きでも抱き合っても、自分たちではその先を掴めない。体だけの関係がどれだけ続いたとしても、未来には何も残らない。
はは、と乾いた笑いが漏れた。これは天罰なのか。
禄朗に与えられる快楽によって吐き出され、シーツやお互いの腹の間で冷えて拭い去られてしまう優希の種は、こうやって明日美の中で命を宿した。どんなに求め合っていても、禄朗とでは成しえない生命の理を目の当たりにする。どんなに好きでも、優希は禄朗の子を成せない。その反対もしかり。明日美のように、体に命を宿すことができないのだ。
優希は立ち上がって近づき、明日美の足元へひざまずく。彼はそっとおなかへ震える手を当てた。自然に涙がこぼれ落ちる。
それは妊娠を喜んであげる夫のものではなく、悲しみに近いもの。優希がはらむことのできない禄朗の命。
たっぷりと奥まで注がれたが、無為に排出されてしまった命のかけらが悲しかった。誰かを必死に好きになると、人は愚かになってしまうのだろうか。
幸せにしてあげたい、幸せになりたいと誓い合ったのに、一瞬にしてすべてを覆し攫さらって行ってしまう。常識とか、優しさとか、情とか、そういう人としての感情が嵐に巻き込まれて前も後ろもわからなくなってしまうような。
禄朗との関係はまさにそのものだった。明日美の妊娠を喜べない。うらやましいとさえ感じてしまった自分の心の闇に、優希は恐ろしさを覚えた。自分はこんなに冷たく非道な人間だったのだろうか。今まで気がつかなかっただけで、弱気で人の目を気にして自信のない優希の奥に、冷酷な魔物が住んでいる。
自分の子供を成した明日美より、禄朗との未来を手にしたい。父親として、夫として守っていかなきゃいけない常識。そんなものを捨て去ってもいいと思うくらい、禄朗に溺れていた。多分、ずっと昔から。
「そうか」
優希はそうつぶやくと、ひそやかな涙を流し続けた。
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