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第8話
「ホラ、起きろよ~!」
ジャッ、ジャッと何度かに分けてカーテンを開いていくと、寝室に太陽の光が広がり途端に部屋中が明るくなる。
「う…………、ん……」
顔の眉間が、光によって眩しいのか寄せられ、窓とは反対の方へ首を振る橘に
「朝ご飯出来てるからな」
一声掛けて寝室を出ると、コーヒーでも準備しとくかと俺はキッチンに足を向ける。
先日の一件依頼、俺は橘のハウスキーパーとして働きに来るようになった。
次の日にはちゃっかり橘が雇用の書類を作成していて、俺は契約書にサインし正式に橘から雇われている。
今までのハウスキーパーへはお断りの連絡をしたと、後日橘から聞いたが、その人とは違って俺はほぼ毎日ここへ出勤し、家事や掃除をしている。
前の人は確か月に何度かと聞いていた気がする
が……、まぁあの破格の値段を見れば、月に何回かなワケねーよな。と、自分を納得させ毎日ここへ馳せ参じているワケだ。
コーヒーメーカーに豆をセットしていると、ピンポ~ンとインターフォンが鳴る。
「はい」
受話器を取りながら画面を見ると、向かいの部屋に住んでいる長谷川さんが写っていて
『石川君おはよう、開けてくれるかい?』
「おはようございます、少し待って下さい」
受話器を置いて、俺は足早に玄関へ行くと、ガチャリと扉を開け
「お待たせしてすみません」
「イヤ全然、悪いね朝早くから」
「イエ、どうぞ」
「お邪魔するよ」
俺が空けたスペースから玄関に入ると、長谷川さんは勝手知ったるという風に部屋の中へ入り
「橘はまだ寝てる?」
「あ、ハイ……。多分もう少ししたら出てくると思いますが……」
「そうか」
と、言いつつも長谷川さんの足は寝室に向かっていて
「あ、コーヒー飲まれますか?」
寝室のドアを開けて中へと入っていこうとする長谷川さんの背中に声をかけると
「ありがとう、頂くよ」
顔だけドアからヒョイと出して、ニコリと笑うとそのまま寝室へと入っていってしまう。
俺はまたキッチンへと戻り、橘と長谷川さん用にコーヒーカップを棚から出して用意する。
長谷川利一。橘の向かい側の部屋で奥さんと一人娘の紗夏ちゃんと三人暮らしをしている人。
橘とは大学時代からの付き合いがあり、会社経営も一緒に立ち上げたと先日初めて長谷川さんと会った時に説明された。
彼はダイナミクス性ではなく、ごくごく一般のノーマルな人。だが、橘に物怖じすることなくズバズバと意見を言っている。
めちゃくちゃ優しい感じの人なんだけど、橘に対してはどこか厳しい面で接している感じだ。
会社を立ち上げたのも長谷川さんから話を持ちかけられてと橘が言っていたが、代表取締役は橘。何故かと聞くと苦笑いしながら、その方が都合が良かったから。と一言だけ。
まぁ、Domが代表取締役の方が何かと便利なのは否めないからなと納得した。
『出会った頃から私に対しては辛辣なんだ、アイツ』
と長谷川さんの事を言っていた橘の顔は楽しそうで、どことなく俺は長谷川さんと出会ってから考え方が修整されたのかな?と感じた。
「だから今日は早目に起きとけよって言っただろ?」
長谷川さんの声とともに、二人が寝室から出てくる。
俺はカップにコーヒーを入れて、リビングのソファーに喋りながら座る二人の前にコーヒーを置く。
「ありがとう石川君」
「おはよう」
欠伸をしながら橘が一口コーヒーを啜っていると
「これが今日の資料、昼はN製薬の板野さんと食事って覚えてるか?」
「覚えてる。お前が行けば十分だって言ったよな?」
「は?馬鹿か?Domのお前が行かなきゃ話にならないって再三言ってるだろ?」
長谷川さんも会社の重役なのに、何度か二人の会話を聞いていると、橘の秘書っぽい事も兼任してやっているのか?と思うほどの働きっぷり。
二人の横でトレーを持って立っている俺に気付いた橘は、俺に視線を向けて
「どうした?」
「あ、イヤ……朝ご飯食うのかなって……」
長谷川さんの口振りだと、食べてる余裕は無さそうだから出すに出せない感じだけど……。
「食べるよ、持ってきて」
「橘ッ………」
やはり長谷川さんの言うように、時間は無いみたいだけど、せっかく用意した俺に申し訳無いのか、それ以上長谷川さんも何も言わない。
俺はキッチンに戻って、素早く朝食をトレーに乗せてリビングに引き返すと、テーブルの上に料理を置く。
てか、昨日も何時に起こせば良いのか橘には確認は取ってあった。
だからその時間に起こしたのに、こういう事もあるのか………。ならば
「あの、長谷川さん」
「ん、何かな?」
「俺と連絡先交換してもらっても良いですか?」
「ブフォッ……、グッ、ゴホッ、ゴホッ」
俺は着ているエプロンのポケットから自分のスマホを取り出すと、長谷川さんと連絡先を交換するためにラインの画面を操作していたら、朝食を食べている橘が突然むせた。
「オイ大丈夫か?水飲め、水」
コーヒーの横に置いていた水を手に取り、橘にズイと差し出す長谷川さんも、俺の台詞を聞いて
「良いけど……?」
どうして自分と?みたいな顔でジャケットの内ポケットからスマホを取り出している。
「イヤ俺今日も一応起こす時間は聞いてたんですけど、こういう事になってるから……」
「あぁ、そういう事ね。石川君QRコード読み込める?」
「大丈夫です」
「オイオイオイオイ、何勝手に連絡先交換してる?」
不機嫌そうに橘が、バッと片手を出して俺と長谷川さんのスマホの間を邪魔してきた。
だが俺は橘の腕をペイッとはたき落として
「アンタが悪いんだろ?俺にちゃんと時間言っとけば、長谷川さんに迷惑かける事も無かっただろうが?」
「ッ、今日たまたまだろ?別に長谷川と連絡先交換しなくても支障無いだろ?」
「この先、絶対に繰り返さないって言い切れるか?」
長谷川さんのQRコードを読み込みながら尋ねた俺に、橘は言葉を無くす。
「だろ?だからお前の為に聞いてやってるんだよ。ウダウダ言ってないで早く食べろ」
フンッ、と鼻息を荒くして言う俺に、橘は言われたようにモソモソと朝食の続きを食べ始める。
俺と橘の会話を聞きながら、フルフルと肩を震わせていた長谷川さんが、たまらずといった感じで吹き出す。
「アハハハハハハッ!た、橘が……ッ言い負かされてるッ……ククッ」
「うるさいぞ長谷川!」
「だって……ッ僕以外にお前ッ、ヒィ~~ッ……、そんな態度ッ」
「笑いすぎだ長谷川!」
腹を抱えて笑っている長谷川さんに対して、橘は眉毛を寄せて不機嫌そうに呟いている。
俺は二人のやり取りを見ながら黙っていると、目の端を指で押さえながら長谷川さんが
「石川君は、コイツのフェロモンにあてられないんだ?」
ニコリと笑って俺に尋ねてくるが、目の奥は笑っていない。
俺は長谷川さんの目に一瞬グッと詰まってしまうが
「………、別にあてられない、ですね」
フイと、長谷川さんから視線を外して呟く俺に、長谷川さんは、ふーん。と含みを持たせた返事をしている。
薬を飲んでいるから、橘のフェロモンにはよっぽどな事がない限りあてられる事は無いし、橘も俺がSubだとは思っていないから、そのままそう思わせているし……。
「何だ?何が言いたい長谷川」
俺よりも橘の方が長谷川さんの返事に食いついたようで、口の中に食べ物を含ませてモゴモゴと聞いている。
「……、別に一般人のノーマルでもお前のフェロモンにあてられる奴は多いだろ?けど、石川君はそうじゃないんだなって思っただけだよ」
「?、お前だってそうじゃないか」
ゴクンと食べ物を喉に飲み込みながら、橘は不思議そうにそう言うと
「僕の場合は、僕以外の周りがほぼDomだったからね慣れだよ、慣れ」
「え?長谷川さんの周りが……?」
意外なカミングアウトに、俺は同じ言葉をオウム返しすると、長谷川さんは一瞬橘の方を見て
「あ、聞いてなかった?僕の家系、僕以外は全員Domなんだ」
……………は?自分以外、全員Dom?
なんの拷問、だよ。
長谷川さんの台詞に言葉を無くしてしまった俺に対して、クスリと苦笑いを浮かべた彼は
「あぁ、もう悲観することは何も無いけどね。実家とも縁を切ってるし、僕は僕で好きな事出来てるし、ね?」
「は、ぁ……」
何も俺から言える事は無い。
言ったところで、上辺だけだと解ってしまうし、それは余りにも長谷川さんに失礼だからだ。
「だから僕はDomの側にいても、普通だし媚びへつらう事もしない。けど石川君はそうじゃないだろ?だから不思議だなって……」
こうやって、大学の頃から橘に近付くワケの解らない人達をこの人は遠ざけて来たのかもしれない。
それならば、橘よりも人を見る目があるこの人の事こそ一番警戒しないといけないかもだな。
俺は小さくコクリと喉を鳴らして
「俺は……、単純にDomが嫌いなんです」
素直な気持ちを吐露する。
何をおいても、俺の一番最初にくるDomに対しての感情はそれしか無いから。
「……、へー変わってるね。Subでも無いのにノーマルの人がDomをただ単に嫌いって……、何かされた事があるのかな?」
グイグイと俺に対してくる長谷川さんの言葉に、俺は小さく肩を震わせてしまう。そうして何も言わなくなった俺の態度は、長谷川さんが言うように、何かされた事があると肯定しているようで……。
言葉を紡ぎたいが、どう言って良いのか解らない。
これだけ無言になって、今更何かを言ったところで、嘘だとバレてしまう。
「残念ながら時間だ。長谷川出よう」
「ん?あぁ、そうだな」
チラリと俺を見た橘は、小さく溜め息を吐き出しながらそう言うと、ソファーから立ち上がる。
次いで腕時計を見ながら長谷川さんも立ち上がると
「明日からコイツが社に出勤する時の時間は、僕から石川君にラインするよ」
ニコリと笑って橘と一緒に玄関に向かう。
俺も二人の後を追って玄関まで見送ると、靴を履いた橘が俺を振り返り
「帰りの時間はまた連絡する」
いつものようにそう言って、長谷川さんと一緒に部屋を出て行った。
「解った……」
扉が閉まる前に呟いた俺の台詞を残して。
ガチャリと自動でロックのかかった扉を数秒眺めて、俺はリビングへと引き返す。
帰って来たら、何か聞かれるかもしれないな……。
俺に対しての視線と、溜め息がそれを物語っているようで、俺は唇にグッと力を入れる。
俺がDomを嫌いな理由。
出来れば知られたくないし、自分の中でも消したい過去の一つ。
「……、つーか長谷川さん、鋭すぎだろ?」
Domが身近にいた環境下なら、そりゃぁDomに対して免疫は出来ているはずだし、対等に渡り歩いて行けるはず。
長谷川さんが橘にとってのセコムなら、俺がSubだと知られちゃいけないのは、長谷川さんだ。
「……………、イヤ良いのか?知られても?」
最悪長谷川さんに知られても、逆に橘との関係が終わるから、それはそれで俺にとって好都合なのでは?
「…………、イヤでも橘に俺がSubだと知られるのはまずいか?」
Subだと知られて、橘が俺にどう出てくるのかが解らない限り下手に動くこともできないよな?
グルグルと自分がどう立ち回れば一番良いのか考えるが、結局は現状維持が安牌なのでは?という答えに行き着く。
Dom嫌いのノーマルとして、橘の近くにいることが……。
「はぁ~、止め止め。目の前の仕事に集中、集中!」
自分の中で気持ちを切り替えて、俺は自分に課せられた仕事に集中していく。
まずは橘が食べた朝食の食器などを洗って、橘の寝室に入る。
ベッドからシーツを剥いで、枕カバーも取り、ベッドの上に投げ捨てられているパジャマと一緒にバスルームへ向かう。
バスルームでは、前のハウスキーパーしか使って無かった大型のドラム式洗濯機に先ずはシーツと枕カバーを入れて、洗濯する。
洗濯が終わるまで再び橘の寝室に行き、部屋に備え付けてある簡易のトイレとシャワールーム、洗面台を綺麗に掃除して寝室に掃除機をかける。
それが終われば、リビングとキッチンの掃除。そうこうしていたら洗濯が終わるので、広いバルコニーに出て、洗濯物を干すと第二陣で衣類を洗濯機にかける。
橘が着ているものはどれもハイブランド品なので、洗濯タグを必ず確認して、洗濯機で洗えない物はコンシェルジュへと出しに行く。そこでクリーニングへと回されるのだ。
二陣の洗濯が終わるまで、バスルームとトイレ、廊下や玄関の掃除を済ましてまた洗濯物をバルコニーへと干す。
それが終われば、脱水してシワシワのワイシャツをアイロンして、綺麗にしたらクローゼットへと戻して、玄関へと移動。
大きな下駄箱の中からハイブランド品の革靴を取り出し、一足づつ靴磨きを始める。
探せばいくらでも家事をすることは出てくる。どの作業も嫌な事は無い。一人で黙々と出来るし、自分のペース配分で事を済ませられるのは楽だ。
誰かに気を使うことも無いし……。
ほぼ毎日夜中の三時頃からジムには行っている。そこから二時間ほど体を動かして部屋へ戻り、愛猫の餌と部屋の掃除、洗濯を済ませて、橘が会社に出勤する際は、七時頃に橘の部屋へ上がる。
着いて直ぐに朝食の用意をして、橘を起こし、大体九時頃に橘は部屋を出て会社ヘ。
だが、それも月に半分位だと聞いた。
代表取締役ともなれば、部下に仕事を振る事が多くなるし、自分がする仕事といえば確認作業が主で、大体はそれも電話かパソコンで確認が取れる為、会社に顔を出すのは今日みたいに誰かと会食する時や、新しい仕事やプロジェクトについて話を聞くときだと言っていた。
「この前はずっと部屋で仕事してたしな」
橘の部屋で唯一俺が入れない場所がある。
それが書斎だ。
橘と契約した時に
『書斎には入らないでくれ、会社の機密や諸々の書類があるから』
と、念を押されている。
だから橘が会社に行かずに、部屋で仕事をする時は、主にラインで橘と連絡を取り合う。
昼食などを食べる時に、書斎の扉をノックすれば良いのだろうが、一度テレワークをしていた時にノックして邪魔をしてしまった事があるので、それ以降はラインに切り替えた。
橘からもコーヒーが欲しい時はラインがくるので、ラインを受け取ってからコーヒーを淹れ、書斎の扉をノックする。すると橘が扉を開けて、受け取るのだ。
だから俺は書斎には足を踏み入れた事さえ無い。
あらかた橘の部屋が綺麗になると、俺は自分の部屋へと戻る。
戻るついでにコンシェルジュヘクリーニングを出しに行って戻ると、待ち構えていた二匹が玄関先でお出迎えしてくれる。
「ただいま」
少し遅めの昼食を自分の部屋で食べながら、配信の編集をして、干していた洗濯物を取り込んで、二匹に餌を置いていく。
また橘の部屋へ戻ると、今度は夕食の準備だ。
その前に干していた洗濯物を取り込んで、畳んでしまい、夕飯の準備の前にラインを確認すると、大体決まった時間に橘から帰る時間が送られてきているので、了解。と返信して夕飯を作る。
夕飯が出来ると、一応今日のメニューを橘に送り、奴が帰ってくるまで待機。
ピンポ~ン。ガチャリ。
玄関が開く音がして、俺は玄関まで出迎える。
「お疲れ、風呂と飯、どっち?」
「ただいま、風呂かな」
「ン、お湯張ってるから」
「ン」
玄関先でジャケットとネクタイだけ受け取って、俺は寝室へと行く。
クローゼットのハンガーにジャケットを掛けて、一応ファブってからしまい、ネクタイも同様にしてから、またバスルームへ。
脱衣所で橘が脱ぎ散らかしているシャツと下着は洗濯かごへポイし、スーツのパンツだけ先程のジャケットと同じようにするために、出ようとすると
「今日も、一緒に夕飯食べるんだよな?」
「あ~~……、まぁ」
「ウン、解った」
毎日の確認。
ここへ来るようになってから、毎日橘と夕飯を食べている。
当初、拘束時間は夕方頃までと聞いていたので、初日に夕飯を作って帰ろうとした俺に
『え?なんで君のが無いんだ?』
一人分だけ用意したテーブルを見て呟く橘に、俺は不思議そうに
『は?なんで俺の分があるって思うの?』
と、聞き返した事がある。
俺の台詞に橘は、更に不思議そうに
『一緒に食べるだろ?その方が効率が良くないか?』
効率………。
まぁ、また自分の部屋に帰って自分の分を作って食べるって、効率は悪いケド……。
『それに、一緒に食べたほうが楽しいだろ?』
……………、楽しいのか。
俺と一緒に食べるという行為に、橘にもそういう感情があるのかと、少し意外に感じながら見詰めていると
『食費も浮くし、一石二鳥だろ?』
ハハッ。と笑いながら言った言葉に、それもそうかと納得してしまい、それから一緒に食べるようになった。
橘が風呂から出てくる前に、食事の準備を整えていると
「はぁ~、お腹空いたな」
「今日も飲むのか?」
「そうだな、飲もうかな」
「何飲む?」
「ビール」
寝間着になった橘は、キッチンの椅子に腰掛けている。
リビングのソファーで一度一緒に飯を食べたことがあったが、その時に俺は無意識に橘より一段低い位置に自分の腰を落ち着けてしまった。
その時の橘の顔は不思議そうで、なんとか誤魔化すことはできたけど、それ以来俺は橘と夕飯を食べるときは、キッチンのテーブルで食事をする事に決めている。
冷蔵庫で冷やしていたグラスをテーブルに置き、缶ビールをその隣に置く。
「ありがとう、頂きます」
「頂きます」
俺も橘の対面に座って、お互い手を合わせると、夕飯を食べ始める。
意外にテレビなど点けていなくても、会話は成り立っている。
ほぼほぼ橘が喋ってくれているお陰だが、俺にとってそれは有り難い。
元々、会社勤めの頃は営業職だったので、話す事も嫌いでは無かったはずなのだが、引きこもりになってから、人と話す事を止めてしまえば、会話力は自然と失われる。
しかも自分自身が無理して話す事を止めたので、誰かがこうやって喋ってくれるのは、楽で楽しい。
橘の話は基本時事ネタが多いが、長谷川さんの事だったり、俺が知らない難しい話や、たまにくだらない事などウィットに富んでいる。
会社を辞めて、愛猫との暮らしは俺にとって穏やかで好ましいものだ。それは変わらないが、こうやって誰かと喋りながら飯を食う行為も、人として忘れてはならない何かがある。
橘がDomでは無かったら、普通の友人として付き合っていられたかもしれない。
……………………。
イヤイヤイヤッ!!!
今、俺何か危ない思考に走ってた!?
絆されてる的な、何かそういう感情が出てたか!?
ドッドッドッと急に自分の心拍数が上がり、動揺してしまう。
以前橘に、自分のイメージは良くなっただろうと言われた事があるが、出会った頃に比べれば、格段にそうだ。
俺に対して一番変わったのは、表情。
笑っていても目が笑っていなかったコイツが、ちゃんと笑顔を俺に向けるようになった事だ。
それが変われば、雰囲気も変わる。
Dom特有の威圧感は最近橘からほぼ感じられない。それに伴って俺も橘に対して緊張することが少なくなった。
夕飯も終わり、食器を洗ってリビングに顔を出すと、橘はテレビを見ながら酒を飲んでいる。
「じゃぁ俺帰るから」
「イヤ、ちょっと話そう」
俺が声をかけると、橘は視線をテレビに向けたままでそう言い、クイとグラスの酒を一口飲む。
……………。やはりあの話題になるのだろうか?と俺は身構えながらも橘に近付くと
「座りなよ」
近付いてもソファーに座らず立っている俺に、チラリと視線を寄越しながら橘が言う。
俺は、オズオズとソファーに腰を下ろすと、そのタイミングで橘はテレビを消した。そうして、俺の方に体ごと向き直ると
「朝、長谷川が言ってた事だけど……」
と、やはりその話題を俺に振ってくる。
昔、Domに何かされたのか?という話題だ。
だが、俺は言いたくない。
だから橘の顔を見ずに下を向いて、沈黙を守っていると
「それはどうしても言えない事かな?」
思いの外穏やかな口調で問われ、俺は顔を上げてしまう。
上げた先の橘の表情は、複雑そうだが決して俺に対して無理強いをするつもりは無いと語っていて
「……………、言いたくないんだ。まだ自分の中で完全には消化しきれてないから……」
ポツポツと喋った俺の言葉に、小さく鼻から溜め息を漏らして持っていたグラスをテーブルに置いた橘は
「そうか、その件で君はDomを嫌いになったのか?」
内容までは聞かないが、気になった事を俺に問うてくる橘に、俺は素直にコクリと首を上下に振る。
俺の反応にしばし橘は考えるように口元に自分の手を当てると無言になったが、次いでは真剣な眼差しで
「じゃぁ、そのDomと私は違うと認識出来る?」
橘の台詞に俺はハッとなり、顔を上げて彼を凝視してしまう。
「以前私は君に、私のイメージはどうかと聞いてみた事があるよね?」
「あ、あぁ……」
「私がDomなのは変えられない事だからしょうが無いにしても、私っていう個人に対しての事を言ったのも理解してくれてるよね?」
……………。橘が俺に対して何が言いたいのか、薄っすらと解ってきて俺は再び顔を俯せる。
俺の態度に、橘は俺が理解していると解ったようで
「君が今まで出会ったDomがどういう人だったかは、この際どうでも良いんだ。ただ、そういう君を嫌な気持ちにさせたDomと私を一緒くたにされたくない」
ズバリと言われて、俺は自分の膝に置いていた手をギュッと握り締める。
前にも橘から言われた事を、もう一度俺に伝えてくる。
………、解っている。俺が出会ったDomと橘が違う事位。だが、自分を守るためにはDom全員がそうだと思わないと、暮らしていけなかった。
Dom嫌いだと自分自身に言い聞かせて、虚勢を張らなければ……。
ギュッと微かにソファーの革が鳴る音がして、俺の近くに橘が座り直す気配に、俺は視線をそちらに向けると、スッと伸びてきた手が俺の頬に触れ、スリと撫でる。
「君も解ってるよね?だからもう一度聞く、私のイメージは変わっただろ?」
その言葉に俺は、カアァッ。と顔が赤くなるのを感じて、咄嗟に橘の手を払うと立ち上がり、何も言えずに部屋を飛び出していた。
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