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第9話
風邪をひいた。
イヤ……、熱が出た。
昨日橘の部屋から帰ってきて、動揺したまま風呂に入って、顔が熱いので温めのシャワーをずっと浴びながらグルグル考えていたら、熱が出た。
夜中にいつものようにジムに行こうと目が覚めたのはいいが、体がダルくてヤバイなと思い、リビングの棚にある体温計を取り出し計ってみたら、熱があってジムに行くのを諦め、このまま熱が下がらなければ、愛猫達のご飯がと思い、先ずは自動給餌器を二台設置して、その後で橘にラインで連絡。
橘は、会社に行かない時にジムに通うスタンスだから、今日はジムに来る日だ。
それも俺に時間を合わせた夜中に来るので、もう起きて準備しているかもしれない。
『悪い、熱が出たからジムには行けない。熱、下がったら仕事にはお邪魔するから』
橘はジム行った後、二度寝する。だから部屋で仕事をする時は、昼前に橘のところに行けば良い事になっている。
なので、それまでに熱を下げようと抑制剤では無く解熱剤を飲んで、ベッドに潜り込むと
『無理しなくて良い。ゆっくり休んでくれ』
と、橘から返信が入る。
『解熱剤飲んだから、もう一回起きた時の体調でまた連絡する』
『何か欲しい物があれば、連絡してくれ』
俺の返信を聞いているのか、いないのか解らない返事がきて、一応、了解。とだけ打ち返し俺は目を閉じた。
スマホのアラームが鳴って、薄っすらと目を開けると、変わらず体はダルくて今日はもう橘のところには行けないなと確信する。
一旦ベッドから起き上がり、部屋を出ると締め出しを食らっていたティーとルゥが足元に擦り寄ってくる。
「あんま、近付くなって」
人間の風邪や発熱が猫に伝染るのか解らないが、夜中の時点で二匹には俺と近付かないよう寝室の部屋の扉を閉めて、入れないようにしていたので、ここぞとばかりに甘えてくる。
嬉しい気持ちはあるが、不安もあってあまり撫でないようにし、キッチンの冷蔵庫から水を何本か取って再び寝室へ戻ると、ベッドに入って、すぐに橘に連絡を入れようとラインする。
『やっぱり熱が下がらなかったから、今日は申し訳無いけど行けない』
『了解。何か欲しい物は?』
『無い』
すぐに返信が返ってきて、もしかしたら待ってたのかと思うと、少し申し訳無い気持ちになったが
『様子を見に伺っても?』
と、返信がきたので、俺はすぐさま
『来なくていい、伝染ると困る』
今日は抑制剤を飲めないのだ。
先程、解熱剤を飲んでしまったから、抑制剤との併用が出来無い。そんな時に橘に来られたら、俺がSubだとバレてしまう。
『人に伝染せば早く治るだろ』
何の根拠でこんな馬鹿な事を返してくるのか……。
『とにかく、来られても迷惑だから。絶対に来るなよ!』
キツめに念押しして、俺はフゥ~ッと息を吐き出す。
橘は、俺の部屋の鍵を持っている。だからこうでも言っておかないと、本当に来てしまう可能性があるのだ。
橘と契約書を交わした時に、俺の個人情報も橘にバレている。この部屋の部屋番や歳、学歴、職歴など、全てだ。ただ、ダイナミクス性については別で、それについて表記するかしないかは個人に委ねられている。大体のSubは表記しない。まぁ、当然だろう自分を守るのは自分しかいないから。
俺の部屋の鍵を橘に渡す事には、抵抗があった。だが、橘のところでハウスキーパーをする時に、交換条件だと言われお互いの部屋の鍵を交換したのだ。
俺は仕事上、橘の部屋の鍵を持っておくのは当たり前だと思うが、何故アイツが俺の部屋の鍵を持たなければならないのか……。
散々それについて文句を言ったが、フェアじゃないと跳ね除けられて、最終的には渡さないと給料を減額だと言われれば、渡すしか他に無かった。
時たま橘は、俺よりも年上のはずなのに、酷く子供みたいな事を言う時がある。
昼過ぎに一度トイレに行った際、リビングの棚にある風邪薬と解熱剤を飲んで、再び寝室へと戻り、寝る。
ここへ引っ越してきてから初めてこんなに熱が出た。
引き籠もりが他人の家でハウスキーパーなんてしだしたから環境の変化で疲れが溜まってしまったのか、昨日橘に言われた事もグルグルと考えてしまい知恵熱的な事になってしまったのか……。
昨夜の橘の言葉を、ずっとベッドの中でリピートしている。
『君を嫌な気持ちにさせたDomと私は違うだろ?』
……………、そうだな。違うよ。
お前は俺に嫌な事はしない。
Domだが、俺が出合ったDomとも違う。
「………、だから質が悪い……」
目を閉じたまま呟く。
俺が引きこもりになってしまった理由、それはDomだ。
それまでは俺も普通に生活していた。
会社に勤めていたし、そこで営業職をしていた。Sub特有の人に尽くしたいって体質のおかげで、結構マメだったり、良く気が付くと取引先の人達にも可愛がられていたのだ。
同期の倉田って奴とも会社には内緒で付き合っていて、幸せだった。
その時の俺は、将来動画配信で食っていけて、悠々自適な生活を夢見ていた。そこにダイナミクス性では無く、ノーマルではあるが好きな倉田と一緒に生活していく未来を想像もしていた。
倉田にもよくその話はしていて、アイツも笑いながら『応援する』と言ってくれていたのに……。
それをアイツが全部台無しにしたんだ。
その日は倉田の誕生日だった。
俺達が付き合って二回目のアイツの誕生日。
チョット良いところで食事して、その後普段なら行かない良いホテルを予約していて、次の日会社も休みだからゆっくり二人で過ごそうと笑いながら部屋へ行くと、見知らぬDomと、何人かの男達が俺達を出迎えた。
『何だよッ、コレ!?』
部屋を出ていこうとする俺の腕を掴んで、倉田は笑いながら
『俺の誕生日になんでもしてくれるって言ったじゃん?』
その顔を思い出すと、今でもゾッとしてしまう。
当時の俺は今よりも数段弱い抑制剤しか飲んでおらず、その場にいたDomのGlareに支配されてしまった。
GlareはDom特有の威嚇。それにあてられるとSubは強制的に従わなくてはと、簡単に服従してしまう。
俺も例に及ばずそのDomの前で項を見せるように跪くしか無かった。
『ヘ~~、本当にそうなるんだ?』
俺の隣で、上から倉田の声がして俺はユックリと視線を隣に上げると、楽しそうに口元を歪めている顔とぶつかる。
『お前……ッ、何がしてーの?』
聞かなくても解っていた。だが、信じたく無かった。だから、言い訳を聞きたくて敢えて問い正したのに
『イヤ、SubがDomにされたら、どんだけ乱れるか興味あってさ。お前何でもしてくれるって言うから、用意したんだぜ?』
悪びれる素振りも見せず、ただただ楽しそうに言うアイツの台詞に、ツっと涙が一筋頬を伝った。
今日俺の中では、倉田とそういう仲になっても良いと覚悟を決めていた日でもあったから……。長く続いたコイツといつまでも体を繋げない関係から、一つステップを超えて親密になろうと俺の中で決めていた。
だからこの日に合わせてスムーズに事が進むように、前々から自分で準備もしていたのに……。それなのに、こんな裏切られ方って……。
『何、泣いてる?嘘だろ……、お前も喜んでくれると思ってたけど?ノーマルの俺じゃ無くて、本物のDomに気持ち良くしてもらえるんだぜ?』
恋人だと思っていた奴から、全く見当外れな事を言われて、俺は言葉を失う。
ノーマルの奴はDomとSubがどういう関係性を築かなければいけないのかを理解してない奴が多い。
だから安易にDomとSubでプレイが出来ると思っている。だが、DomとSubの間でも信頼関係が築けていない場合は、プレイ自体が地獄なのだ。
無理矢理関係が築けていないDomに従うということは、Subにとって自殺行為。その事はDomなら当然知っている事だが、金の為や自分の欲を満たす為だけに無茶苦茶な事をするDomもいる。
俺が出会ったDomは、そういう類のDomだった。
倉田から相当な金を貰い、フェロモンを撒き散らして俺を好きなように蹂躪する。
俺は信頼していた恋人から裏切られた喪失感で、プレイの前に精神的に相当やられていたからDomの圧に簡単に服従してしまい、すぐにサブドロップしてしまった。
初めてのDomとの行為で、初めてのサブドロップ。
Subの従う本能を利用され、同意も無いまま無理矢理にコントロールを奪われる。自分の体なのに、自分ではどうにも出来ない苦しさにその場で何度も嘔吐してしまうが、誰も助けてはくれない。
俺の反応が自分が想像していたものと違った倉田は、恐怖に顔が強張り俺を置いて部屋を出てしまったし、残されたDomと数人の男に俺は、精神的な苦痛を与えられただけ。
レイプと言ってしまえばそうなのだろう。最後までは致さなかったにしろ、口で男根を愛撫する行為は俺にとってレイプと同じだった。
一通り男達が楽しんだ後、俺はそのままその場に放置されたのだ。
疲労感と虚無感。自分の存在自体を否定したくなるような感情が自分自身を包んでいて……。
震える手でなんとかホテルのフロントに連絡して、その後の記憶は無い。
目を閉じて昔の記憶が蘇ると、熱があって体は熱いはずなのに、カチカチと歯が鳴る。
ゾゾゾと寒気が背中を這い上がってきて、俺はギュッと包まっている布団を握り締める。
……………、駄目だ……、持っていかれる……。
当時の事を俺はまだ消化できずにいる。
こうして思い出してしまえば簡単にその時に戻ってしまうし、そうなれば感情をコントロール出来なくなってしまい、セルフサブドロップになってしまう。
あの後、目が覚めた俺は病院にいた。
退院時に医者から聞いたが、結構ヤバい状態で運ばれて来たらしい。
心拍は乱れ弱く、低体温症になっていたとか……。何日か意識が戻らず、手の打ちどころが無かったみたいだ。
でもそうなのだ、サブドロップになってしまえば、高確率で救えるのはパートナーのDomのみ。
精神的な苦痛からくるサブドロップは、Sub自身の精神力か、パートナーのDomから与えられる安心感のどちらかで救える。前者は奇跡に近く、後者の方が救える確率は高い。
なのでニュースでよく聞くDomに襲われたSubは、パートナーがいなければ助かる見込みはほぼゼロだということだ。
俺もその部類に入っていた為に、医者は手の施しようが無かった。
意識は戻っても、そこから普通の生活に戻るまでにも時間がかかる。
それでも奇跡的に助かった俺は、病院を退院してから精神科にしばらく通った。その間は仕事が出来ないので、傷病手当てで生活して、その期間が無くなると退職して、退職金と失業保険で暮らして……。
俺を襲ったDom達は未だ捕まっていない。し、倉田も罪には問われていない。
体が回復してから病院に何度か警察の人が事情聴取に来てはいたが、精神的に不安定だった俺は、倉田の名前も出さなかったし、俺を襲った奴等の顔を見ていないと答えた。
それは、俺自身早くこの件を忘れたかったから。無かった事にしたかったからだ。
パートナーも誰もいない俺にとって、これから一人で過ごしていく事実にその記憶は不要だったから……。
精神科に通院しだして、俺の心も大分良くなった。精神科の先生が良かったのか、薬が体質に合っていたのか、失業保険を貰う頃にはだいぶ精神的にも落ち着いてきたので、何もかもリセットしたくて引っ越しをした。
倉田とはあの時以来会ってはいない。
会社も俺がDomに襲われた事は把握していたし、傷病手当てや退職の事はリモートや電話、郵送等で全て処理してくれて、会社にあった俺の私物も後日送ってくれたから会わずに済んだ。
アダルト配信をする経緯は、昔からの行き付けのバーのママが、そういう事務所のスタッフと知り合いで、紹介してもらってからするようになって………。
で、なんとか今の生活が出来ているというワケだ。
少し前まで精神科には通っていた。一番キツい抑制剤を出してくれるところだったが、先生と話をすると決まって
『安心できるDomのパートナーを見つけて下さい』
と、言われる事が多くなった。
それが一番俺が普通に戻れる解決策らしい。
そりゃぁキツい抑制剤をずっと飲む事は無理だろう。体がそれに慣れてしまえば、効きが弱くなるのは当たり前だし、信頼出来るDomをパートナーにできれば、トラウマも消化出来て薬も飲む必要が無くなる。
だけど、もし出会ったDomがあの時と同じような奴だったら?
ノーマルの男も、倉田のような考えの奴だったらと思うと、まともに恋愛が出来なくなって、人が信じられなくなって、自分を守る為にDomが全員敵になった。
毎回同じ事を言われる度に、出来ない自分がもどかしくて徐々に病院にも足が遠退き、今はネットで薬だけ買っている。
処方箋は前に貰った病院のやつを使い回しているので、まぁ……駄目なんだけど、薬を手に入れる為には致し方無い。
「はぁ………、寒い……ッ」
ブルブルと震えながら、体を丸めるが足の先まで冷たくて、俺は頭まで布団を被ると丸まって震える。
橘は、Dom全員を一緒にするなと前から俺に言っていた。
自分自身を見て評価して欲しいと……。
以前ジムで最初にそう言われた時に、理屈では理解していた。
人は千差万別、十人十色。それは解っている。
俺の中でのDomのイメージだけで橘を見ていた事も。
アイツの過去や家庭環境なんかを少なからず橘から聞いて、それでもアイツは自分なりに考えて、悩んで、今のアイツがいる事も。
だから昨日、再び橘からちゃんと変わったかどうかと尋ねられた時、自分の中でキチンと理解出来て気まずくなったのだ。
認めたく無い感情を伴っていた理解は、俺を酷く動揺させたから。
気付かないように、そうならないように予防線をガチガチに張っていた俺に、橘はユックリと時間をかけて俺に解らせたのだ。
ただ、俺とは違う方向性で。
橘にとっては自分を認めて欲しいっていう欲だ。だが俺にとっては恋愛感情が含まれている。
昨日から散々、その感情に対して否定し続けてきたが、考えれば考えるほど行き着く答えはそこになる。どこで、どうなって、そうなった?と自分に問うても、気付けばそうだともう一人の自分が答える。
恋は盲目。落ちる時に理由は無い。
「ケド……、最初から望みも無い」
俺にコーヒーをぶっかけたSubは女だった。という事は、橘はノンケだ。ゲイの俺とは根本的に対象者が違う。
セルフサブドロップに落ちている時に、更に自分を追い詰める思考にはまった俺は、何も考えずにいようとする。
脱する為にはそれが一番の方法だと知っているのに、気持ちが沈んた時にはどうしても次々に嫌な思考に囚われてしまう。
「う゛ぅ゛〜〜……ッ」
カチカチと歯を鳴らしながら、俺は数字を数えることにした。
何度か浅い眠りを繰り返して、体温は熱いのか寒いのか自分でも解らなくなっていた。
朦朧とする意識の中で、ギシリとベッドが沈む感覚。
頭まで被っていた布団がはぐられて、こもっていない新鮮な空気と、冷たさが顔を撫でる。
……………、誰、だ?………夢?
目を開くのも億劫で、閉じたままにしていると、額に冷たい感触。次いで頬にスリっと指が滑る感触に、薄っすらと目を開けてしまう。
「気分は?」
開けた先に心配そうな顔の橘を見付け、頬に触れている指を掴み、自分の方に抱き込む。
「ン?どうした?」
橘の指を抱き込んだことで、近くに寄った彼に俺は
「寒い……ッ」
ボソリと呟いた瞬間に、橘は俺に掛かっている布団を退けると、俺の隣に寝そべって再び布団をかける。
……………、あ、夢だ。
橘が俺の隣で寝るわけが無い。
俺が見ている都合の良い夢だと認識していると、ギュッと背中に腕がまわる。
「大丈夫、側にいる。ゆっくり寝るといい」
耳元で優しく囁かれ、背中をポンポンと一定のリズムで叩かれると、緊張していた俺の体は徐々に力が抜けていき、ほぅっと安堵の溜め息が漏れ出る。
「そうだ……、良い子だな」
優しく、温かなぬくもりに包まれ、トクトクと聞こえる心音に安心して、俺はゆっくりと目を閉じた。
不思議と恐怖心は無くなっていた。
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