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第9話 タイムリミットの話

 店を出たところで夕希は隼一に頭をさげた。 「申し訳ありませんでした。お誕生日とは知らず、ご馳走になってしまって……」 「え?」  隼一は彼に似合わずポカンとした顔でこちらを見た。そして夕希が謝った意味を察して苦笑した。 「いやいや、何を言ってるんだ。俺こそ誕生日だと黙って誘ったりして悪かったよ。騙し討ちするつもりはなかったんだが」  隼一は少しも怒っていないようだけど、夕希としてはファン失格ものの失態だ。すると彼がうなだれる夕希の背中を優しく叩いた。 「それにこの仕事を依頼したのは俺の方だ。食事代のことは君は一切気にしなくて良い」 「でも、やっぱり申し訳ないです。もしよければこの後別のお店で僕が――」 「いいから。それよりワインが飲みたい気分なんだ。今日は車で来てるからこの後うちでテイスティングの練習をしないか?」 「隼一さんのお宅でですか?」 「ああ。今後のことも話したいしね」  まさか自宅にお邪魔するなんて思ってなかったし、誕生日プレゼントどころか手土産も何も無い。 「失敗した……」 ――誕生日に気づいてたら会社に戻る前に何か買えたのに……。 「ん? 何か言った?」 「いえ、なんでもありません」  僕のつぶやきはV型十二気筒エンジンの排気音にかき消された。一見スマートでエレガントなイギリス車だけど、アクセルを踏むと比較的高めで爽快感のある音が出る。この車の見た目と音のギャップは隼一の冷たく整った顔立ちと内面に秘める食への情熱を彷彿とさせた。 「いい音しますね」 「もし苦手なら次からはもっと静かな車で迎えに行く」 「いえ、僕は好きです」 「君とは趣味が合いそうだな」  そう言われて夕希も悪い気はしなかった。 ◇◇◇  隼一の自宅は渋谷区にあるマンションだった。彼がこの部屋を選んだ理由は備え付けのワインセラーがあるからだという。そもそも一年のうち半分は海外で過ごしているから、住み心地にはこだわりが無いそうだ。  とはいえ、夕希が住んでいるマンションと比較して広さも高級感も格段に上だった。壁やファブリックはダークグレーで統一され、床や椅子の木目がアクセントとなっている。 「君がこの仕事を引き受けてくれてほっとしているよ。おかげで今夜も久々にディナーを楽しめた」 ――隼一さん、食べてる間はほぼ無表情だったけどあれで楽しんでたんだ……。 「夕希が隣に居てくれるだけで匂いのことを忘れられるんだ。君の香りは感じられるから。それに君の説明はつたないけれど、不思議と伝わったよ」  夕希は憧れの美食家の役に立てたことが嬉しかった。 「だから今夜の寿司は美味しく感じた。これからもよろしく」  目を細めた彼の表情は美味しいものを食べた喜びを純粋に示していた。ときに辛辣なところもあるが、それが逆に本音で話してくれている証拠でもあるので安心できる。  自分はベータだと嘘をついておきながら夕希は裏表のある人間は苦手だ。隼一はストレートに物を言うためこちらも遠慮なく話せるのが気楽だった。 「さて、今夜はこれを飲んでみようか。夕希はワインが好き?」 「普通に飲めますけどそこまでは……」 「そうか、それは良くないな」 ――ワインがそんなに大事なの?  隼一は特にお気に入りだというワインを開けてくれた。夕希はお酒の場は好きだけど、あまり強くはない。  彼はグラスに注ぎながら尋ねる。 「君はコラムニストをプロとしてやりたいんだよね。メディアに寄稿する形で」 「はい、そうなんです」 「有料で記事を書いたことは?」 「以前webライターをやったことはあります。だけど、自分の書きたいものが書けるとは限らないので……」  夕希としては、自分の観点で発信できるコラムの連載を持つのが希望だ。 「そうか。まあ、俺の鼻がすぐに治るとも思えないし時間はたっぷりあるから焦らずゆっくりやっていこう」  彼はそう言ったが、夕希にはタイムリミットがある。誕生日以降は見合いと結婚で自由に身動きできなくなるだろう。 「その件なんですけど、事情があって僕、今年の誕生日までになんとかコラムの仕事の足がかりをつかんでおきたいんです」 「誕生日? 一体いつなんだ?」 「七月三日です」 「七月? あと三ヶ月しかないじゃないか」  彼は目を丸くした。 「そうか、それならぼやぼやしてる暇は無いな」  彼が思案するのを見て夕希は少し不安になった。 「間に合いそうにないですか? できれば会社を辞める七月末までにはある程度――と思ってるんですが……」 「君は七月で会社を辞めるのか?」 「はい。家庭の事情で……」 「なるほどね……わかった。じゃあなるべく短期間で店を回ってどんどん食レポ記事を書くんだ。それをwebで公開しつつ俺の担当編集者に見てもらおう」 「はい」  自分でも無理があるのはわかっていた。だけど、退職後には隼一に会うことも婚約者が許してくれない可能性がある。 「とりあえず今夜はワインの味を比べてみよう」  

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