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第三話 困惑の七鳥和真
ピンポーン、とチャイムを鳴らす。古びた扉の向こうから、はーいと薫の声がする。無警戒に玄関を開いた彼は、フリルのついたエプロンをかけていた。
「こんにちは! 本日は訪問販売にお伺いしまして。奥様にとっておきのお話があるのですが」
黒いスーツの和真はやや棒読みにそう切り出し、薫もややオーバーに「えっ、なんですか?」と不安そうな顔をするも、断りはしない。
「奥様、旦那様との夜の関係に、お悩みはありませんか?」
「え、あの」
「普通のやりかたでは物足りない、ということはございませんか?」
「い、いえ、私は、」
突然、性的な話を切り出されて顔を赤くした薫。そんな彼に、和真はアタッシュケースを見せて、笑顔を浮かべた。
「私共の商品が、奥様の素晴らしい夜の生活をお助けします! 是非、試供品を使ってみてください」
「あの、困ります……!」
「大丈夫です奥さん、実演もさせて頂きますから! 使い方はしっかりお伝えしますので」
「困ります、困りますから、あ、ちょっと!」
和真は困惑する薫をよそに、ずずいと部屋に入り、鍵をかける。困りますという割に大した抵抗をしない薫を、「まあまあそう言わず」と雑に宥めて、持ってきたアタッシュケースを開く。
露骨なピンク色の液体が入った小瓶。それをゆらゆら揺らしながら、和真が囁いた。
「これは合法的な媚薬でして」
「び、びやくって……?」
「気持ちよーくなれる薬ですよ、奥さん」
薫の表情が、困惑から不安、そして僅かな期待に染まる。絶句している彼をよそに、和真は、薫に手を伸ばした。
「どうぞ、お試しになってください。大丈夫、私がサポートしますよ」
「あ、だ、ダメです、ダメ、私には夫が……!」
そして和真は薫を引き寄せ、顔を近づけて――。
「っだあああああああ!」
和真は叫び声を上げて飛び起きた。瞬きを繰り返して周りを確認すると、そこはいつもどおり、薄暗く冷えきった自室である。
ベッドの上でハァハァと呼吸を繰り返しながら、和真は今まで見ていたのが夢だと悟り、安堵の溜息を吐き出した。
「あーーーもう、なんだよ今の夢……」
ぐったりとうなだれて、それから白い壁を見る。隣の薫に聞こえていないだろうか。あんな絶叫をしたら心配されるかもしれないが、理由を聞かれて素直に答えるわけにもいかない。
昼間鑑賞した、コッテコテの団地妻もの、古いAVそっくりのことを、自分と薫でやっている夢を見た、だなんて。
幸いにも、特に何が起こるわけでもなく、和真はまた深い溜息を吐き出し頭を抱えた。
あれから、ふたりは年末年始を共に過ごした。
和真は毎日薫と一緒に食べる夕飯を作っていた。薫に言ったことに嘘偽りは無く、学生時代から作っているので苦ではない。それに、一人分を作るのは逆に面倒なのだ。二人分になったからといって、そう変わるものでもない。むしろ楽でさえある。
夕飯を作り始めるまでの時間は、映画やAVを見て過ごした。映画はそれなりに面白かったし、AVも適当に手に取ったから、ハードにエロいものからトンデモ設定の、エロを楽しむ前にツッコミどころ満載で笑えるものまで色々有る。返却期間までに全部見るには一日何本見たらいいかを計算しながら、和真は日中を過ごした。
そして薫の帰りを待つ。彼が仕事から戻ってくると、薫の部屋へと赴いて下ごしらえした食材を調理し、ふたりで食べた。
薫は大人っぽい穏やかな人なのに、ごはんを食べる時は子供のように「美味しい」と笑う。その笑顔がなんとも、心地良い。
大晦日はおせちと年越しそばを用意し、テーブルを挟んで「良いお年を」と挨拶し、笑ったりして。年が明けたら今年もよろしくと頭を下げる。それで一度、和真は自室に戻って眠り、また朝になったら薫の所へ行く。
お節をつつき、一緒にぶらりと初詣へ出かけた。人でごった返す神社の境内、順番待ちの参拝。ふたりの番が来ると、和真は二礼二拍手の後に、手を合わせて願った。
(今年こそ、恋人のいる年末年始を過ごせますように……!)
切実な願いである。今年こそ、寂しくない年末を……と、早くも祈る。と、同時に、果たして今回の年末年始は寂しかったのだろうか、と首を傾げた。
そのまま隣を見れば、目を瞑って真剣な様子の薫が手を合わせている。混雑しているし、サクっとお願いを終えた和真とは違って、薫は随分長い時間手を合わせていたように感じた。
やがて彼がゆっくりと顔を上げて、深々と礼をする。慌てて和真もお辞儀をすると、ふたりしてそそくさ参拝の列から離れた。
何をお願いしたのか、と聞かれもしなかったし、和真も聞かなかった。あれこれ詮索したり、深く繋がろうとしなくたって、人は一緒に過ごせるのだ。
おみくじを引いて、和真が「恋人、待てばくるだって!」と大はしゃぎした時も、薫は微笑んで一緒に喜んでくれたものだ。
そうして時間は過ぎて、元旦の夜にふたりは別れた。
なんでも、2日と3日は先約が有るらしく、一緒に食事をするのも難しいそうだ。和真もそれで構わないと思う。十分、ふたりで過ごした。もうそろそろ映画も見なくては返却に間に合わないし。いい加減、セックスができる男も掴まるだろう。
「和真君、とっても楽しい時間をありがとうね」
別れ際に、薫が言った。
「こうやって年末年始を誰かと過ごすのは久しぶりで、とっても嬉しかったよ」
「いえいえ、こちらこそ楽しかったです。いっぱいおうちにもお邪魔しちゃったし、迷惑かけてなければいいんすけど……」
「迷惑だなんて。本当に良い時間を過ごせたよ。和真君は優しい子だね」
「は、はは……」
優しい子、だなんて言われると気恥ずかしくなってしまうし、申し訳無くもなる。和真だって、ひとりで過ごしたくないから薫と一緒にいたのだ。利害関係が一致しただけ、だと思うのに、こんなに良く思ってもらうとなんだか困ってしまう。
「そうだ、和真君。いい夢が見られるといいね」
「えっ?」
「初夢。縁起がいい夢とか見れたら、いい年になりそうだから」
「あ、ああー、そうすね! いい夢見れたら、また話しますよ! 薫さんもいい夢見て、いい年にしましょ!」
和真はそう元気に言って、薫と別れた。
そして見た夢が、団地妻である。
「いやいやいや……え? 待て待て、おかしいおかしい……」
和真は考え込んだ。全てがおかしい。
まず、和真はあの団地妻のAVをゲラゲラ笑って見ていたのだ。そりゃエッチなシーンではエッチをしていたけれど、設定にツッコミどころが多すぎてそれどころではなかった。そもそも妻役の男がムキムキの男すぎてちょっと面白かったのだ。
ところがさっきの薫ときたらどうだ。まるで本物の団地妻じゃないか。エプロン似合ってたもんな……と思い返して、和真は首を振る。いやいやいや、待て、違う、おかしい。
そもそも、身近な人間とは性的関係にならないことが和真の中のルールだ。お隣さんとそういう関係になって、もつれたら非常にめんどくさい。あちらが引っ越してくれればいいが、そうでなければこちらが引っ越す羽目になる。郊外の新築なのに、妙に安いこのアパートを簡単に手放したくはなかった。
ついでに言えば、そうでなくとも薫のようなタイプの人間と寝たことはなく、様々な意味で彼がそういう対象とは思っていなかった。名前も知らない神に誓ってもいい。思っていなかったのだ。
「……じゃあ、なんで……」
どうして、あんな夢を見たのか。わからな過ぎて震える。考えるほどに、先ほどの薫が脳裏に蘇る。
エプロンをした、髪の長い、とろんとした顔立ちの薫。左目の下の泣きほくろが妙にセクシーで、その艶やかな唇が柔らかそうだ。彼からはいつものように、優しいいい香りがした。
あの優しい、善人にもそういう欲求が有るのだろうか。快楽への期待に頬を染めた薫の表情を思い出すと、グッと胸に来るものが有って。
「……っ!」
はっとして、布団をめくって。和真は顔を覆って、唸った。
「嘘だろぉ……え? なんで? どうして……」
はっきりと存在を主張する自分の息子を感じながら、和真は心の底から困惑していた。
「……もしかして俺……薫さんとセックス、したくなっちゃったの……?」
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