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「シノ~、シノさん~、シノ様~! 頼むからぁ~!」  始業前。廊下を歩いていたシノを見つけて、和真は彼の腰に抱き着いた。駄々っ子のように喚いているのを、他の社員がクスクス笑いながら通り過ぎていく。和真が時折、こうして子供のように甘えている姿は、彼らにとってそう珍しいものではなかった。 「頼むから、なんです」  シノは手帳をめくって今日の仕事を確認しながら、和真に目もくれない。それでも返事をしてくれるところが、シノの優しさだ。いや、優しさなのかは正直わからないけれど。 「今夜付き合ってぇ!」 「金曜日の夜ですよ? 僕だって早く帰りたいんですけど」 「そう言わんといて、奢るから! なんでも好きな物、食べていいから~!」  和真の言葉に、シノはパタンと手帳を閉じて。じ、と和真を見下ろしてから言った。 「お寿司。お持ち帰りも含めて」 「寿司! わかった寿司ね、わかった、個室予約しちゃう! ……回ってるやつでもいい?」  恐る恐るお伺いを立ててみると、シノがニッコリと満面の笑みを浮かべる。それを見て、和真は敬礼する勢いで答えた。 「はいっわかりました、回れないお寿司にしますッ!」  定時で上がり、ふたりは回らない寿司店へと赴いた。途中でATMに寄った和真は、財布の中身を確認しつつ、「あの、お手柔らかに……」とシノに囁いたけれど、またニッコリとした笑みを向けられると黙るしかなかった。  寿司店の個室だからして、そんなに大声を出すわけにもいかない。和真は注文した本日の握りのセットが届いてから、ヒソヒソとシノに相談を切り出した。 「前に話してたお隣さん、いたじゃない」 「はい。クリスマスの時の人ですよね?」 「そ。その人とね、年末年始もずっと過ごしてたんだけど」 「……はあ」  シノは話している和真に構わず、寿司を食べ始めている。雑な相槌しか返って来なかったが、いつものことなので和真も気にせず続けた。 「いやでもね、その人のことは嫌いじゃないし、一緒にいて楽しいけど、その、そういう対象だとは思ってないのよ。ね、つまりその、ね?」 「はい」  静かな寿司店ではハッキリ言いにくい。和真が察してと身振り手振りで伝えるけれど、シノのほうは言われなくても大体わかるようで、そのまま寿司を頬張っている。 「なのにさ、最近、夢に出て来るんだよ! それもちょっと……あんまりよろしくない出方をするっていうか……」 「よろしくない出方、というと?」 「ええ~、シノさん、それ聞いちゃう?」 「聞いて欲しいから、こんなところで寿司をおごる羽目になってるんでしょう」  ところでコレ、なんです? と芽ネギの握りをいろんな角度から見ているシノに、和真は小声で答えた。 「その、……ぇっちなの……」 「え? コレそういう寿司なんですか?」 「いやいやいや、そっちじゃなくて、いやソレは芽ネギ。ネギの赤ちゃんなんだけどさ!」 「ああ、なるほど。ネギの赤ちゃんなんですね」  頷いて口に入れる。その表情がなんとも言えず微妙なのを見ながら、和真は小声で繰り返した。 「いやだから。ちょっとその、ぇっちな夢を見るんだよ。お隣さんの……」 「……はあ」 「いや、繰り返すようだけど、俺はお隣さんをそういう目で見てるわけじゃないんだよ、めっちゃ、めっっっっちゃ普通にいい人だから、ホント、考えてみてよシノ、見ず知らずの隣の人間が酔っぱらって廊下に落ちてたらどうする⁉」 「通報するか放置しますね」 「だろぉ⁉ そこを自分の部屋に入れて介抱までして! 次の日にはピザパに呼んでくれる上にだよ? 夕飯のおすそ分けから年末年始も一緒に過ごそうなんて、そんな人いるか?」 「いたんでしょ」 「いたんだよなぁーっ、身近にいちゃったんだけど……。だけどそんな人さ、ちょっとした聖人だよ? ぇっちな目で見るなんてとんでもないでしょ……見ちゃいけないよ、だから俺はそんな目で見てない。わかる? シノさん」 「あ、これ美味しい……」  事情を語り散らかす和真に対して、シノはマイペースに寿司を食べ続けている。シノがこうして塩対応をしてくるのは、今に始まったことではないから気にしない。 「なのにさあ、俺ってば、ヤバイ夢見ちゃって……」 「例えばどんな……、あ、あんまり具体的には言わないでください」 「えーと、俺、年末年始に暇つぶしでその、『大人しか見ちゃいけない映像』を見まくってたんですけどもぉ」  なるべく伏せたつもりだが、ここまで言ってしまえば誰だって見当はつくだろう。シノも「有意義な年末年始をお過ごしで」と呆れた顔をしていたけれど、和真は続ける。 「その内容にそっくりな夢で、お隣さんが登場するんだよ……」 「……はぁ……でも夢なんてそんなものじゃありませんか? 脳が記憶整理の為に作っている映像らしいですから、最近見た物が混在してしまうのはよくあることでしょう」 「それが二日に一回ぐらいの頻度で見ちゃうの……違うシチュエーションで……」 「…………はぁ……」  シノのなんとも言えない表情を見てから、和真は頭を抱えた。  最初の夢は団地妻。次に見たのは未亡人モノだった。その次は宅配を頼んだらえっちなお兄さんが来てくれる、そんな内容。  どれもこれも、AVの内容をアレンジしたもので、しかも毎回薫が相手役で登場する。それだけなら笑って済ませられないこともないのだけれど。 「起きたらね、なんか……興奮してんの……」 「……なるほど……」  シノは神妙な面持ちで頷いて、かっぱ巻きを口に入れている。 「ねえ、俺ホントにお隣さんのこと、そういう目で見てないんだよ?」 「はい」 「なのになんでこうなってんの⁉ このままじゃ俺、意識しちゃうよ! 大体、次にお隣さんに会う時、どんな顔してればいいの⁉ 困るんだよぉシノ、なんとかならんかな~、困るよぉ~」  はぁー、と大きな溜息を吐き出す和真に、シノは少ししてから、「僕が思うに」と口を開く。 「和真さんは……」 「俺は⁉」 「既に意識してるんじゃないですか?」 「いやー! いやいや! してないって! 全然! いや確かにね? いつもすっごいいい匂いするし、めっちゃ優しいし、美人だし、なのにちょっと子どもっぽい天然なトコもあるギャップがなんつかクセになる人で、年末年始ずっと一緒でも全然楽しかったけど、まさかまさか、そんな、ハハ、ハハハ」  和真は早口でまくし立てて、それから乾いた笑いを漏らし。 「……俺、意識してる?」 「僕にはそう見えます」  シノに即答されて、和真は言葉を失った。  何がどうしてそんなことになったのだろう。恋は突然襲い掛かってくる、とは誰が言ったことなのやら。和真は生まれてからこれまでの25年間、一度も誰か特定の人を意識し、想ったことが無い。  だから、このソワソワする感じなのが恋なのか、まだわからない。ただ、この状態が続くのは大変よろしくないということだけはわかった。 「シ、シノさん」 「はい」 「俺どうしたらいい? なんていうか困るんだよ、お隣さんのぇっちな夢なんて見続けたら、そのうちお隣さん本人もそういう目で見ちゃいそうだし、せっかく優しい人と出会えたのに、そういうことで台無しにしたくないじゃん」 「関係が壊れるぐらいなら、関わらないほうがいい……みたいな話ですね。わからないでもありませんけど……」 「でしょ⁉ わからないでもないよね⁉ どうしよ、どうにかしてコレ、無かったことにできない? ニュートラルなお付き合いがしたいの、俺は。深入りせず、されずの関係でいたいの!」  和真は喚いて、テーブルに突っ伏す。散々喋り散らしていた和真の前には、殆ど手付かずの寿司が並んでいるままだ。一方シノはといえば「ご馳走様でした」と手を合わせている。  その間、和真はうーんうーんと頭を捻り、ついにひとつの答えに辿り着いた。 「そうだっ! お隣さんのこと、もっと知ればいいんだ」 「知るほうにいくんですか」  お茶を啜っていたシノが、少し驚いたように返す。そんな彼に、和真はウンウン頷いた。 「知らないものってワクワクしちゃうじゃない、見る前の映画とか。でも見た後にはそうでもなかったなーとかいう感想に変わるじゃん? だからきっと、お隣さんのことをよく知れば、こんな風に意識しなくても済むんじゃないかな!」 「……なるほど……」  そうとわかれば簡単だ。薫のことをもっと知るために、仲良くなればいい。和真は心が軽くなって、ようやくルンルンと寿司に手を伸ばした。シノが「一か八かの賭けですけどねえ」と小声で呟いたのにも気付かずに。 「今日は相談乗ってくれてありがとな、シノ!」 「……僕はお寿司を頂いただけだと思いますけど。お役に立てたのならなによりです。ご馳走になります」  実際、シノは特にアドバイスも何もしていないし、なんなら相槌も半分打っていなかったけれど。和真は苦笑いして、財布の中身を確かめた。 「あ、お持ち帰りのぶんもお願いしますね」 「ひぇえ……」  

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