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 すっかり日の暮れた街並みを、和真は肩を竦めて歩いている。今日はまた一段と冷え込みが強い。風も有るから、猶更かも知れない。  シノと別れた後、和真はそそくさと帰路に着いた。薫のことをもっと知る。その作戦を実行に移す為、計画を練らなければ。そんなことを考えながら、いつもの道を急いだ。  アパートの建物内に入ると、少し風除けができて寒さはマシになった。早く部屋に帰って、暖房にあたりたい。うーうー小声で呻きながらエレベーターに乗り込み、4階に着くと急いで降りた。  ポケットの鍵を取り出そうとしていた和真は、廊下の先に人影を見つけて、一瞬立ち竦んでしまった。  アパートの廊下。決して広くはない、冷たい床と壁。そこに、縋りつくようにもたれている、薫の姿を見つけたから。 「――っ、か、薫さん!」  慌てて駆け寄った。薫はいつかと違ってダウンジャケットを着ていたけれど、この寒空の下で長居するのは、きっと良くない。 「……あ、和真君……」  薫が顔を上げる。心なしか、顔色が悪い。肩を貸して倒れないようにしてあげながら、「大丈夫すか」と声をかけた。 「どしたんです、まさか呑み過ぎて鍵失くしたとかじゃないスよね?」 「あはは……ちょっとね、薬を、買いに行こうと思って……」 「薬?」  それで気付いた。薫の顔色は悪いけれど、頬は赤い。いつも優しげな眼差しをしていたけれど、今日はまたいつにも増してとろりと今にも眠りに落ちてしまいそうな様子だ。もしかして、と和真は、薫の額に手を伸ばす。 「すいません、ちょっと失礼して……うわっ、熱い」 「わあ、和真君の手は冷たいね、早く暖房に当たったほうがいいよ」 「いやいやいや、薫さん、熱有るでしょ絶対! ダメです、部屋で寝てないと!」 「でも、薬を切らしてしまってね? 解熱剤を飲めば楽になるから……」 「解熱剤ぐらい、俺が買ってきますから! ほら! 薫さん、鍵出して! ね!」  いつもは大人の薫が、ぼんやりしているものだから、和真は言い聞かせながら薫を部屋へと連れ戻した。幸い、まだ室内は温かい。ほらほら脱いで、とダウンジャケットを脱がせると、どうやら着替える余力もなかったらしく半分ルームウェアのままだ。  それでよく買い物行けると思ったな。いや、ひとり暮らしだから行くしかなかったんだろうけど。和真は顔を顰めてから、薫の着替えを手伝い、そのまま布団の中に押し込んだ。 「買い物行ってきますから。解熱剤だけでいいんすか? なんなら夜間診療とかも探しますよ、病気かもしれないし……」 「ああ、いや、大丈夫……」  布団に丸まりながら、薫が力無く答える。なにが大丈夫だ。和真がますます顔を顰めていると、「いや」と薫が首を振った。 「よく、有るんだ」 「……熱、すか?」 「うん、昔から、身体が弱くて。いつも急にくるから、備えているんだけど……色々在庫が切れてるのを忘れてて……」  薫の説明を聞いても、和真は半信半疑だ。そんなことを言って、インフルエンザでしたなんてこともあり得る。とりあえず病院に連れて行くべきじゃないだろうか。思案していると、薫が重ねて言う。 「本当に、よく有ることなんだよ。しっかり眠れば、2日もあれば大丈夫だから……ただ、今日の熱を下げて、少しでも楽になりたかっただけで……」 「……ホント、なんすね?」 「うん、嘘なんてついてないよ」 「……んじゃあ、解熱剤買ってきます。でも、心配だから今日はここで看病してもいいすか?」 「うん、………………え?」 「よし、じゃダッシュで行って来ます! 鍵、借りて行くんで! 絶対、布団の中にいるんですよ!」 「和真君、」  困惑している薫を置いて、和真は大急ぎで部屋を出た。  解熱剤に、スポーツドリンク。おでこに貼る冷たいやつと、飲みやすそうなゼリー状の食事。  近場のドラッグストアで手早く買い物を終え、和真は戻った。  薫は言いつけ通り大人しく布団の中で丸くなっている。年末年始、散々通った部屋を和真はそれなりに知っていた。コップに水を用意して薫のそばへ解熱剤と共に持って行く。起きてはいたらしい彼は、もぞもぞと布団から顔を出すなり、「すまないねえ」と力無く詫びた。 「常備薬を切らしてなければ、迷惑をかけることも無かったんだけど……」 「いいんスよ! 気にしないで、薫さんが言ったんじゃないですか。困った時はお互い様ってね」  近くのテーブルに荷物を置いて、それから薫に近寄った。 「大丈夫すか、起き上がれますか」 「ん、だいじょうぶ……」  そういってのろのろ身体を起こしているけれど、どうにも辛そうで和真は思わず手を伸ばす。抱き起こすと、背中にクッションを置いてやって座りやすくしてみる。  薫にコップと解熱剤を渡すと、彼は慣れた様子で錠剤を口に入れ、こくこくと水を全て飲み干す。しばらく横にならないほうがいいから、と布団を首までかけて座っているのが、なんともしんどそうで、胸が苦しくなる。それが表情に出ていたのか、薫がこちらを見て微笑んだ。 「大丈夫、本当によくあることだから。ゆっくり休めばすぐによくなるよ」 「そうは言っても……」  心配なものは心配だ。とはいえ、これ以上なにか言っても、薫に気を遣わせてしまうだけだろう。ひとまず、信じるしかない。 「わかりました。俺にできることがあったら、なんでも言ってくださいね。今日はここにいますから」 「そのことなんだけど……本当にいてくれるのかい?」 「もちろん! このアパート、防音しっかりしてるでしょ。俺の部屋に戻ってから薫さんが助けを呼んだってわかんないし、もしそうだったらと思ったら落ち着いて寝られないし」  それに、幸い明日は土曜で休みだ。別にここで、なんなら徹夜で過ごしてもなんとかなる。  和真がそう考えていると、薫がふっと微笑む。 「和真君は本当に優しい、いい子だね。ありがとう……」  その言葉こそが優しい。和真はそんな風に感じた。  何も特別なことはしていない。むしろ、最初にたかが隣人の酔っ払いを部屋で介抱してくれたのは、薫のほうで。優しいというなら薫のほうだ。和真はそれに応えようとしているだけにすぎないのだから。 「……食べれそうなら食べます?」  和真は敢えて薫の言葉に反応しなかった。それでもよかったらしい。薫は、「もう少ししてからにするよ」と零して、のろのろとベッドへ横になった。眠りたいようだ。 「……あのね、和真君」 「は、はい」 「もし寝ちゃってたら伝えられないから、先に言っておくよ。ソファのね、下をひっぱると、ベッドになるから。クローゼットに掛け布団とか枕も有るから、本当にここで泊まるなら、好きに使っていいからね。起きてたら私が出すけど……」 「いやいやいや、俺がやります、だから薫さんは安心して寝てくださいって」  ね、大丈夫すから。そう言って、薫の被った掛け布団の上から、ぽんぽんと軽く手で叩いてみる。これは、安心していいよの合図だ。恐らく赤ちゃんの頃から、身体に教え込まれたそれは、不思議と子供を、人を落ち着かせる。  間も無く薫は静かに眠ったようだ。そっと顔色を見てみると、まだ薬は効いていないのか、随分悪いままだ。いつもは整えている長い髪も、寝ているせいで乱れているし、胸が痛む。早く元気になって欲しいと心から思った。  思ってから、どうしてただの隣人にそう感じるのだろうと考える。自分たちはまだ友人でもないし、セックスもしていない。薫のことは名前と、恐らく年上であろうこと、ヒツジのぬいぐるみを持っていることしかわからない。それと、身体が弱いということを今知ったばかりだ。 「……そんなん知っちゃったら、放っておけなくなるじゃんか……」  胸が締め付けられる。なんとかしてあげたい、助けてあげたい。そんな感情が湧き起こって、和真はしばらく薫のそばに座っていた。  人の気配を感じて目を覚ますと、いつの間にか薫がキッチンに立っている。それで和真は、慌てて布団を跳ね上げて起き上がった。 「か、薫さん! 大丈夫なんですか⁉」  昨夜は遅くまで薫の看病をして過ごしたものだ。解熱剤が聞いたのか、和真が寝る頃には薫の顔色も随分良くなっていたけれど。無理をしていないだろうか。 「おはよう、和真君。ありがとう、おかげで良くなったよ」  薫がそう微笑む。既に長い髪も三つ編みに整えて有ったし、昨日よりも元気そうだ。薫の言っていた通り、しばらく休めば良くなる体質なのかもしれない。  それでも、心配なものは心配だ。 「まだ病み上がりなんですから、あんまり無理は……」 「うん、わかってる。今日は一日、おとなしくしているよ。でも朝ご飯を食べないとね。和真君も食べる? シリアルしかないけど……」 「あ、い、頂きます……っていうか、俺が準備しますから~!」  キッチンに向かうと、朝食作りを手伝うことにした。本当にシリアルで大丈夫か、おかゆでも作ろうかと提案しても、大丈夫すっかり胃も元気だよ、と返される。嘘ではなさそうなほど、昨日とは違い元気な様子に、和真は胸を撫でおろした。 「でも本当に、和真君が来てくれて助かったよ。ひとりだと、ああいう時に大変だからね。誰かに助けてほしいと思ったって、そばに誰もいないから」 「そうっすね、ひとり暮らしはそれがちょっとキツイすよね」  和真だって風邪を引いたりすることはある。そういう日は、誰かが代わりに買い物にでも行ってくれないかとか、食事を作ってくれないかと願うものだ。その祈りは誰にも届かないものだけれど。  すると、薫が和真の顔を見て言った。 「だから、あの日。君を見つけて、助けたいと思ったんだ」 「へ」  きょとん、とした顔で、和真も薫を見る。近くで見る彼の瞳は、優しい亜麻色をしていた。 「いつか助けを必要としている人に出会ったら、私が助けてあげたい……そう思っていたんだ。つらい時にひとりなのは、とっても悲しいから。私が誰かの力になれるならそうしたいって、ずっと思っていたんだ。だから、君を放っておけなくてね……」 「…………」  和真はぽかんとした顔のまま、あの日を思い出す。  フラれて、鍵を無くしたと思い込んで。寒空の下、アパートの床で泣いていたあの冷たさ。あのままひとりだったら、自分はどうして、どうなっていただろう。そのまま寝ていたら、確実に体を壊して最低のクリスマスの続編が来たはずだ。年末年始も孤独を噛み締めていたに違いない。  実際に和真を待っていたのは、温かな部屋とこの優しい人で。その慈愛が、彼自身の辛さからきていたのだったのなら。 「……薫さん!」 「ひゃっ、は、はい」  和真は思わず薫の手を握って、言った。 「連絡先、交換しましょう!」 「えっ、」 「それで、困った時にはいつでも気軽に、俺を頼って下さい! 買い物でも付き添いでもなんでもするから!」 「ええ、でもそんな、和真君に迷惑……」 「迷惑なんかじゃないです! むしろ、隣の部屋で静かにしんどい思いしてるかもしれないって思ったら、気が気じゃないっていうか! お願いです、なんていうか、薫さんにひとりで辛い思い、して欲しくないです……」  昨日の様子を思い出して、胸が痛む。ひとりだったら、彼は薬を手に入れられたんだろうか。途中で倒れているか、もしくは諦めて部屋で臥せっていたのでは。知っていれば助けられるのに、知らないばかりに辛い思いをしている人が、しかもそれが仲の良い人だなんて耐えられない。  そこまで考えて、和真は疑問に思った。二人は、仲が良いのだろうか? そんな関係なのだろうか。 「……本当に、いいの?」  薫が少し、不安げに問いかけてくる。その表情は年上であることを忘れるくらいに、どこかあどけない。きっと彼のほうが背が低く、やや上目遣いになっていたからだろう。  近くで見ると優しい眼の睫は長く、唇は夢の中でキスをしたそれと同じ、柔らかそうで。  なんというか、かわいいと思ってしまった。 「――ッ」  和真は何故か顔が熱くなって、バッと薫の手を離す。それをどう思われたかわからないから、そのまま大急ぎでポケットに手をやった。スマホを探すために手を離したのだと思ってくれたら助かる。 「大丈夫、俺、学生時代には陸上やってて、体力には自信有りますから! 定時上がりで夜に遊びに行く余力も有るぐらいっすから、じゃんじゃん頼っちゃってくださいよ。ほら、連絡先、交換しましょ」  平静を装ってスマホを見せると、薫も微笑んで頷いてくれた。  こうしてまたひとつ、色々な意味で、ふたりの関係が変わっていった。  

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