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第十話 優しさの原点

 それは一昨年のクリスマス・イヴのこと。  恋人がいなくても、等しくその日は訪れて。なんとかその夜を共に過ごす相手を見つけていた和真は、仕事が終わると足早にバー「ジョー」へと向かっていた。  街並みはイルミネーションと明るい音楽で輝き、道行く人は楽しそうに笑い合っている。こんな幸せそうな空間に、ひとりでいるのは一秒だって耐えられない。一刻も早く、この祝祭の一員となるべく、和真は道を急いでいた。  そんな時だ。  和真の耳に、ずしゃ、と何かか地面に転がる音が聞こえた。するとすぐに、 「あっ、待ちなさいよ!」  という怒鳴り声が耳に届く、思わず視線を動かした和真は、一瞬でたくさんのものを目にした。  薄暗い道に、ひとりの……女性が倒れている。長い髪だし、口元までマフラーで隠れていたから、そう思った。彼女は手を伸ばしていて、そのそばにいた女性が彼女を気遣いつつ、何処かを見て怒鳴っていた。すぐ視線をそちらに回すと、黒い服の男がなにやら、似つかわしくない鞄を持って走り去ろうとしているではないか。  引ったくり――。  和真の脳裏にその単語が浮かぶより前に、彼は駆け出していた。  幸い、まだそれほど距離は無い。クリスマスの人並へ隠れて逃げられる前に、捕まえなければ。和真の頭はそれでいっぱいになった。  人に当たらないよう、それでも全力で駆けた。大学まで陸上をやっていたのだ。脚には自信が有った。捕まえた後のことなんてなにも考えず、障害物をすり抜け、車両止めを飛び越えて。和真は犯人に飛びかかって、取り押さえた。 「すいません! 誰か警察呼んでください! コイツ引ったくりです!」  和真は男へ馬乗りになったまま叫ぶ。そうこうするうちに、周りにいた何人かの男も手伝ってくれて、無事に鞄を引きはがすことに成功した。その男には不似合いな、可愛らしいヒツジのぬいぐるみが入った鞄である。他の中身が無事かはわからないけれど、持ち主に許可なく見るのも失礼だろう。  しかし、どうするか。和真は思案した。  引ったくりを捕まえ、無事に鞄を取り戻したはいいものの。警察を呼んだのだから、警察沙汰にはなるだろう。そうすれば何時間も拘束されるのは間違いない。  様々な意味でそんなのは御免だった。第一に、クリスマスから年末年始をセックス三昧で過ごす予定が台無しになる。第二に、万が一会社に伝わったら面倒だ。第三に、万が一に万が一を重ねて、これが実家に伝わったらもっと大変だと思った。  和真は色々考えた結果、取り押さえる男たちに犯人を任せて、鞄を女性へ返しに行った。  彼女はまだ地面に座り込んで動けない様子だった。そりゃ、怖いよな。向きからして、いきなり後ろから荷物を奪われたんだろう。非力な女性にはきっと恐ろしくてたまらない体験だったに違いない。何か、トラウマにならなきゃいいけど。  和真はそんな風に思いながら、鞄を手に彼女の前に座り込んだ。彼女の背中を擦っていた女性が、「あ、あなた、その鞄」と驚いた表情を浮かべる。  今にしてみれば、あれはもしかしたら――深雪さん、だったのかもしれない。そして、声も出せないぐらい青褪めていた、あの、三つ編みの彼女は。 「お姉さん、鞄、取り返したよ。大丈夫? 怖かったね」  できる限り優しい声で伝え、鞄を手渡す。彼女は震える手で鞄を受け取り、それをぎゅっと抱きしめた。言葉も出せない様子に、和真は頷いた。別に、お礼を言われたかったわけでもない。身体が勝手に動いただけなのだから。 「お姉さん、もう大丈夫だよ。犯人は捕まえたし、警察の人が来てくれるから、ね。ほら、ヒツジさんも元気だからさ。今夜はクリスマスなんだし、温かくして美味しいものでも食べてね」 「あ、ちょっとあなた、待って」  立ち上がり、走り去る。その背中に付き添いの女性が声をかけたけれど、和真は振り向きもせずに逃げた。  和真にとっては、ただそれだけの出来事である。 「あれが……あれが薫さんだったとするなら……」  和真は震え声で呟いた。 「じゃあ、俺を部屋に入れてくれたのは、薫さんがただ優しいだけじゃなくて、恩返しみたいなもんになっちゃうじゃん……!?」  和真の言葉に、リンは「そーだよっ!」と頷いた。 「だから薫は最初から和真が特別なの! どーしてわかんないの!」 「へえっ!? えっ、でもリンちゃん、薫さんのこと狙って、え?」 「狙ってるよ! 和真がアンポンタンのポンポコリンだったら普通に奪うけど! 和真だって薫のことが好きなんだったら、両想いじゃん! バカ、さっさと告白して恋人にでもなんでもなりなよ!」 「えええっ! えっ!? なん、え!? 両想い!?!?」  なんのことぉ!? 和真が大混乱しながら叫ぶと、リンは和真の顔を指差してまで言う。 「薫は! 和真が! 好き! ってこと!」 「ううう嘘だあ! だって薫さん、俺のこと、弟みたいだって!」 「和真のボケカボチャ! そんなの話そらしてるに決まってんじゃん! 薫の顔見てたらわかるもん。薫は優しいよ、皆に優しい、ボクにだってね。でも和真は別格だってはっきり顔に書いて有るもん! 気づかない和真のバーカバーカ!」 「リンちゃん~。罵るか説明するか、どっちかにしてあげようね~?」  マスターが苦笑しながら止めに入ってくれる。それでリンは「フーン」とわざとらしく言いながら腕組みしてそっぽを向いた。色々畳みかけられた和真は、ようやくリンに言われたことを理解する時間を得られる。  薫さんが、俺のことを、好き? まさか、いやまさかそんな。だって全然そんなそぶり無かったし……。  しかし。リンはそうだと言うし。確かに和真は薫を助けたかもしれないし、その後恩返しのし合いを通しながら、ただのお隣さんとは言い難い距離感で仲良くなっていったのも間違いない。  だとしたら。 「……ホントに、薫さんは俺のことが、好き……?」 「絶対そうだもん……」  リンが頬を膨らました。まあ、リンの置かれた状況を考えると、ふてくされるのもわかる気がする。問題は、だ。 「……なんでリンちゃんはそれを、俺に教えてくれんの……?」  和真は薫に好かれていると気付いていない。そしてリンは薫を狙っていた。なら、和真に何も伝えず奪い取った方が、彼にとっては都合がいいはずだ。それなのに、どうしてこんな方法を取ったのだろう。  尋ねると、リンはまた怒った。 「今、ボクのことはどうでもいーでしょ! 薫のことだけ考えてなよっ!」 「いや、でも……」 「そのうち落ち着いたら教えてやってもいいけど、今はヤダ! 和真のバカ! 薫のこと、泣かせたら承知しないんだからね! マスター、これお金!」 「リンちゃん、全然足りないよ~」  リンはマスターに千円札を押し付けると、大股に歩きながら店を出てしまった。後に残された和真は、ポカンとしてマスターを見る。マスターは千円札をポケットに入れながら、肩を竦めた。 「ま、そーいうことだから、頑張んなよ~和真君」 「いや、どーいうこと!?」 「リンちゃんが悟りの道に目覚めて、君と薫さん? の幸せを願ってんのよ~。この縁を大事にしなよ。和真君って、君が思ってるよりもずっと愛されてるんだからね」 「俺が? 愛されてる?」  和真はまたきょとんとする。自分は、ただのセックス狂いのクズである。誰かに愛されるなんてこと、考えてもいなかった。  ――いや、愛されている、のかもしれない。ただ、それでも。自分は。 「そうだよ~」  和真の思考を遮るように、マスターが優しく語り掛けた。 「君が自分をどう思っているかは知らないし、君自身はわからないかもしれないけどね~。君のその色んな意味で真っ直ぐなところ、放っておけない感じ有るからさ~」 「……???」 「ま、わかんなくていいよ。とにかく、頑張ってね。人との縁は、川をどんぶらこと流れる桃みたいなもんで。そのタイミングを逃したら、なかなか捕まえるのが大変なんだからね」  その例え話で、合っていたのだろうか。和真は少し疑問に感じながらも、小さく頷いた。  マスターやリンが、自分に伝えたかったことは、わからないでもない。  けれど、薫が自分のことを好きだというのだけは、どうも信じられなくて。  どうしていいかわからなくなっている和真のスマホが振動したのは、その時だ。  メッセージの相手は、薫。  そして文面には、こう書いてあった。 『ちょっと大事な話が有るんだ。いつか、時間を取れるかな?』

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