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 ピンポン、とチャイムが鳴ってから。返事が有るまでの時間が、永遠のように長くも感じられたし。一瞬のようにも感じられた。  薫の返事は簡単なもので、すぐに玄関の鍵が開く。和真は姿勢を正して、扉が開くのを見守った。 「どうぞ。中に入って」 「は、ハイ……ッ」  甲高い声で返事をしてしまって、和真は羞恥で顔を赤くする。薫はいつもと変わらない様子で、くすりと笑った。 「和真君、緊張でもしてるの?」 「そ、そういう薫さんはなんか、いつもと変わらないすね!」 「そうかな? 私も少し緊張しているかも」  薫はそう微笑んで、室内に和真を導く。いつも通りの、薫の部屋。ソファの上にはヒツジが二匹。片方は、和真が買った物。もうひとつは。 (薫さんの、ヒツジ……)  どうしてすっかり忘れていたんだろう。いや、理由はわかっている。当時の和真にとっては、大した出来事ではなかったのだ。  引ったくりを捕まえたという話も、しばらくは武勇伝になったけれど、数日も経てばそんな話もしなくなり。多くの男と出会い、寝ている間には人の顔も忘れていく。ましてそれが、興味の無い女、おまけに通りすがりともなれば。 「和真君、コーヒーと紅茶とお茶、どれがいい?」 「あっ、あ、コーヒーでお願いします!」 「甘いやつだね?」  いつもと変わらぬ様子で、薫はコーヒーを用意してくれた。ミルクと砂糖のたっぷり入った、甘い甘いカフェオレだ。その優しい香りは好きなのに、今ばかりは落ち着くことはできなかった。  緊張した様子でいると、向かいへ薫が座る。それでもすぐ本題が始まったりはしない。今日は温かいね、とか、明日は雨らしいよ、とか。そんなありきたりな世間話を、少しの間したように思う。  心ここに有らずで返事をしていると、会話が途切れる。しんとした部屋で、自分の血液の流れる音ばかりが響いているような気がした。 「……あっ、そ、その。薫さん……!」  その時間に耐えきれなくなり、和真のほうが先に口を開いた。 「あの、実は、こないだリンちゃんと仲直りできたっていうか……」 「ええっ、本当に? それは……良かったねえ……!」  薫が明るい声で頷く。正確に言えば仲直りできた後にもうひと悶着有ったのだけれど。リンの真意はわかるような、わからないような難しいところではある。しかし、以前ほど気まずい関係ではなくなったのも事実だ。 「ホント、薫さんのおかげで踏ん切りがついたっていうか。ありがとうございます…………」  そしてどう切り出すか、考え込む。  一年半前のあの日。助けたお姉さんは、薫だったのか。確認しなければいけない。もしそうなら、全ての前提がひっくり返ってしまうのだから。  ちらり、と和真は薫を見る。するとどうだろう。彼は、少し悲しげな表情で俯いていた。 「……薫さん?」  思わず名を呼ぶと、薫が「あ」と顔を上げ、それから苦笑した。 「ごめんね、ええと……。そうだなあ、何から話せばいいか……」  薫は少しの間何か考えている様子だったけれど、やがてひとつ頷いて、口を開く。 「あのね、和真君。私も、大事な話が有るんだ」 「は、はい……!」  大事な話。それを聞くために来たのだ。ついにその時が、と和真が姿勢を正す。薫は和真と視線を合わせないまま、静かに言った。 「その……あのね。私は……和真君が思っているよりも、ずっと嫌な人間なんだ」 「……え?」  思いもよらぬ発言に、和真は驚くより先にきょとんとしてしまった。  薫が嫌な人間? だとしたら自分はなんだ、本当にクズ以下の存在になってしまわないか。  そんな和真をどう思ったのだろう。薫は「嫌な人間なんだよ」と繰り返す。 「だから、……そんなに感謝したり、……私の為に色々してくれなくても、大丈夫だから……」 「……?」  どうして、薫はそんなことを言うのだろう。  和真の中にあったのは、純粋な疑問だった。大体、大事な話が有ると呼び出したのは薫のほうで、色々して欲しくないなら呼ばなければいいのだ。それに、先日言っていたじゃないか。また遊びに行きたいと。それは嘘だったのか。  ……いいや。薫は嘘をつかない。言うことと、言わないでおくことを選ぶだけだ。きっと遊びに行きたいと言っているのも、もう色々しなくていい、と言っているのも両方、薫の考えで。  ではどうして、真反対のことを言い出したのか。それがわからないことには、返事はできなさそうだった。 「あの、薫さん。……理由を聞かせてもらってもいいですか? 自分が嫌な人間だって思うわけを……」  和真の問いかけに、薫はまた俯いた。けれど、今度はすぐに顔を上げる。何かを決意したようなその表情に、どうやら最初からこの話をするつもりだったのだと、和真も感じ取る。  薫がついに、自分のことを語ってくれるのだ。 「……ちょっと長い話になるかもしれないけど、大丈夫?」 「もちろん。薫さんのこと、俺も知りたいです」  真っ直ぐ目を見つめて頷けば、困ったように目を逸らしたのは薫のほうだった。  

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