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「そういやあ、どうしてこのタイミングだったんですか?」  ポツポツと降り始めた雨。郊外の住宅街を行き来する住民たちは傘をさしたり、足早に駆けて行く。  そんな道を、和真と薫はふたり並んで、傘をさして歩いていた。 「何がだい?」 「いや、なんていうか。薫さんが色んな事打ち明けたりしようと思った、きっかけみたいなのが有ったのかなあって思って」 「ああ……あ、和真君後ろから車が来てるよ」  ゆっくりと車も行き来する道では、会話は途切れがちだ。それでもまたふたり並べば、話の続きを口にする。 「ずっと前から、もうそろそろ区切りを付けなきゃとは思っていたんだ。家族に全てを話す必要は無いにしても、縁を切りたいわけでもないし。ただ……そうだね。きっかけが無いまま、ずるずる3年も経っちゃったから」 「じゃあ、やっぱりきっかけが?」 「まあ、うん。主な理由は、和真君かな」 「俺?」  自分を指差して尋ねると、薫はにこりと笑って頷いた。 「君は覚えてるかわからないけど、一年半ほど前にね、」 「あ!」  薫が切り出そうとしていることを理解し、和真は先回りして口にする。 「クリスマス・イヴの夜でしょ? 引ったくり!」 「そうそう、あれ、なんだ覚えてたの?」 「いや、実はお恥ずかしい限り、最近まで忘れてて……っていうかあれが薫さんだって全然気付いてませんでした! お姉さんだと思ってたから……」 「ふふ、ごめんね。私もびっくりして声が出なくて。君の名前だけでも聞きたかったのに。お巡りさんといろんな手続きを終えて、君のことがなにもわからないって気付いた時には、ちょっと残念に思ったんだよ?」  薫は色んな事を思い出しているようで、傘の向こうの空を見るようにしながら語る。 「あの日取られた鞄にはね、ヒツジが入ってたんだ。ほら、私の部屋のぬいぐるみ。あれね、悠生からのクリスマスプレゼントだったんだ」 「え……」 「私は家を出る時、悠生に何も話さなかったけど……まあ、流石に何か変だって思うよね。連絡先も教えなかったから、深雪さん宛てに送られてきて。『ごめん、体に気を付けて』って、それだけメッセージが添えられてた。家を出て一年半、気持ちが癒えてきたタイミングだったから、ちょっと涙が出たりしてね……。深雪さんにも「大事にしなさい」って言われて、持って帰ろうと店を出たらすぐのことだったんだよ」 「……じゃあ、薫さんにとっては俺、ただ鞄を取り返しただけじゃなくて……大切な宝物を、守ったみたいになってた?」 「そうそう。見ず知らずの私の為に、あんなに早く走って。危険も顧みずヒツジを取り返してくれた君へ、本当に心から感謝したし……もし神様がいるなら、もう一度会ってお礼を言わせてほしいって思っていたんだよ」  だから、去年のクリスマス。なんとなく君のことを思い出して、外が眺めたくなって玄関を開けたら、君が落ちてた時にはびっくりしたよ。お礼なんて言うタイミング、失っちゃうぐらいにはね。  和真は薫の心境を想像した。一年も前に偶然巡り会った名前も知らない恩人。それがたまたま隣に住んでいて。おまけに廊下で冷えていたりしたら。そりゃあ、神様も信じたくなるし、そいつが部屋に入るなりゲーゲー吐き出したらお礼言うどころの騒ぎじゃないだろう。  和真はぽりぽりと頭を掻いた。どうして黙っていたのかと思っていたけれど、最初から和真がそのチャンスを奪っていたことになる。  薫のほうは、ずっと和真を覚えていたのだ。こちらはといえば、薫本人やヒツジを前にしても全く気付かず、リンに話を振られてようやく思い出すぐらいだったのに。  薫にとってその晩のことがどれだけ大事な記憶になったのか。想像するに難くなかった。 「タイミングが有れば伝えようと思っていたんだけど、それからはお互いお礼合戦みたいになっちゃったし。君は何も覚えていなさそうだったから、逆に私が覚えていたりしたら気持ち悪がられるかもしれない、とか色々考えてね。結局、何もかも言えずじまいだったんだけど……」 「全部を話そうと思ったんですか?」 「うん……。まあ、そうだね。最後の一押しは、シノさんがしてくれたんだけど」 「シノが?」  問いかけに答えることなく、薫が足を止めたので、和真も遅れて立ち止まる。薫が先を見つめていたので、視線を追った。  住宅街の一角。その洒落た外観の美容室は、唐突に現れた。  全面ガラス張りの店構え。2階建てのそこには何人もの美容師が働いているようだ。店は人気が有るらしく、椅子は客で埋まっているように見えた。  美しいアルファベットで書かれた店の看板は一瞬読めない程であったけれど、その内容を確認している場合でも無かった。薫の視線が、店だけでなく、ある人物だけを見ていたことがわかったからだ。  店構えに似合わず、実直そうな男だった。  他の美容師たちが煌びやかな、あるいは奇抜な髪色や姿をしている中で、言ってしまえば地味な姿をしている。髪は黒く、短い。穏やかで人の良さそうな笑顔は、どこか少年、あるいは懐いた犬のような無垢な愛らしさを持っているように思えた。  それが誰なのか。尋ねなくたって、わかる。薫を見れば、その瞳が僅かに潤んでいた。  彼が、直瀬悠生。薫さんの、好きな人。  和真はずきりと胸が痛むのを感じながら、再び悠生を見る。  いい人、と9割の人から言われそうな雰囲気が有った。だからこそ、彼がモテなかった理由も多少はわかる。「いい人」は必ずしも「恋愛したい人」ではないのだ。女と付き合ったこともないけれど、和真にもそれぐらいはなんとなくわかった。  それでも。薫は彼が好きだった。きっと愛していたのだろう。彼が新しい家族を得ると決めたとき、何も言わずに身を引いて消えようとしたほど。彼の幸せを一番に思ったのだろう。  今度は、和真がそうする番だと思った。  そう。  和真は、薫が「今でも」悠生を愛していると信じていたのだった。 「あ」  薫が声を上げる。見れば、店の中から柾が飛び出してくるではないか。どうやら気付かれたらしい。慌てて物陰に隠れようと、ふたりであわあわしたものの、全くの手遅れだった。 「アニキ! な、なんで、帰って来るなら言ってくれよ! ……あ、和真さん、ちわす!」 「ど、ども……」 「柾に伝えたら、どうせ母さんや父さんも総出で歓迎しちゃうだろう? 用事が終わったらそのまま帰るつもりだったんだよ」 「はあ!? ここまで来ておいてウチに寄らないで帰るつもりなんか? せめてオフクロにだけでも顔見せろよ、どんだけ心配してると思ってんだ」 「また近々機会を作るから、今日は勘弁してくれない?」 「ホントか? アニキ、約束できんのか!?」 「ま、まあまあ! 薫さんがこうしてここに来ただけでも、進展ってことで、ここはひとつ……!」  兄弟喧嘩でも始まりそうな雰囲気になってきた。和真が慌てて仲裁に入る。もめ事にでもなって、せっかく勇気を出した薫の気持ちを折りたくなかった。 「薫……!?」  しかし、何もかも杞憂に終わったようだ。初めて聞く声に和真がそちらを見ると、悠生が立っていた。  従業員である柾が仕事中に出て行ったら、誰でも不審に思うだろう。律義に追いかけて来たらしい悠生が、薫を見つめている。薫もまた息を呑み、「悠生」と名を呟き。 「薫~~!」  そして次の瞬間には、悠生は薫に飛びつく勢いで抱きしめていた。 「……っ、悠、生」  勢いに倒れかけた身体を、悠生が抱き留め、 「元気にしてたのか!?」  と大きな声で尋ねる。しかし、薫が頷くのも待たず、 「良かった、立ってる、死んでなかった、ううーー、どうして連絡くれなかったんだよ、ああでも会えて良かった! 薫、薫~~~~!」  と一方的にまくし立て、しまいには泣き始めてしまった。 「……ごめんね、心配かけて……」  そんな悠生を、薫は涙ぐみながら静かに抱き返し、呟く。 「もっと早く、こうしておけば良かったのにね……」  その言葉に秘められた意味合いが複雑であること。それを知っているのはこの場で和真だけだった。柾がきょとんとした顔で和真を見つめてくるから、ひとつ頷いてみせた。  薫はようやく、3年もの歳月抱えていたものを、少し解消できたのかもしれない。そう思った。    悠生は仕事を切り上げて薫と話をしてくれた。和真と柾も同席して、コーヒーや茶菓子をつつきながら、この3年間を振り返るような話を。  場を用意してくれたのは、悠生の妻になった女性だった。そして近々母になるのだと笑う彼女は、明るくて快活そうで。ケラケラ笑う彼女が、誰にでも好かれそうな人間だというのはすぐわかった。  幸せに暮らしているのだろう。悠生と彼女は仲睦まじくて、和真は思わず笑顔になりながらも、胸が痛む。この光景を見て、薫はどれほど複雑な心境で、苦しんでいるだろうかと。  しかし、時折見た薫の表情は柔らかくて、穏やかで。いつもと変わらない様子に、和真はひとり困惑することになった。  そうしている間に時間はあっという間に過ぎて、1時間半ほどした時、薫は席を立った。  今日は帰るけれど、近々里帰りをする。その時、また改めてゆっくり話そう。  薫はそう約束し、和真と共に帰路に着いた。  空は夕陽の橙色に染まっている。電車に乗って帰宅する頃には、もうすっかり夜も更けていることだろう。  郊外のこの辺りでは、駅に着いても電車を待つ時間が有る。きっと混み合うだろうと、和真と薫は乗車列の先頭に立って待つことになった。15分ほどしたら電車も来るはずだ。薫の分だけでも、席が空いていればいいのだけれど。 「……悠生さん、いい人でしたね」  待ち時間の間。和真はポツリと呟いた。  それは本音だった。悠生は、良くも悪くもいい人間なのだろう。実直で、優しくて、面倒見が良くて、だけど少し鈍感なのだ。隣に立っている「親友」がどんな目で自分を見ているかも気付かないほど。その上で、「親友」の幸せを願うような。  そして、そんな悠生だったからこそ。薫は、彼を愛した。皮肉な話だ。 「だろう?」  胸が苦しくなっている和真に対し、薫は穏やかな笑みで頷いた。 「すごく優しくて、一緒にいると毎日が楽しくて、落ち着いて……悠生はいい「親友」だったよ。だからこそ彼には、奥さんと子供を一番に愛して欲しいと思ったんだ」 「……辛く、なかったですか?」  あんまり落ち着いた様子なので、おずおず尋ねてみると、薫は「うーん」と顎に手を当てて考える。 「全く辛くなかった、と言えば嘘になるかもしれないけど……。もう、随分前に諦めはついていたから。今は、彼の幸せを願う気持ちのほうが強いかな。……何もかも、君のおかげだよ、和真君」 「ええ? 俺は別に、何も……」  ホームを快速が通過する、とアナウンスが鳴っている。軽快な音楽と共に駅は賑やかさを増し、人も増え始めるのが見えた。まだ目的の電車が到着するのには時間がかかりそうだ。 「君が私の相談に乗ってくれて、こんなところまで着いてきてくれたんだもの。そうでなければ、私は未だにウジウジして、……悠生とも会えないまま、前に進めなかったと思うから。おかげでけじめがつけられたよ」 「だとしても、こうすることを決めたのは薫さん自身ですし。俺は、そのお手伝いしかできませんから。だから薫さんが頑張ったんですよ」 「……ふふ。和真君は本当に優しいね」  再度、アナウンスが鳴る。白線の後ろに下がるようにとしつこく伝えているけれど、誰か聞いているのだろうか。みなお喋りに夢中か、イヤホンから流れる音楽に耳を傾けている様子だった。  明るい夕陽の差し込む駅。世界は非日常の色に染まり、まるで同じ場所とは思えない。その時間は人に魔法をかける。 「……和真君、あのね」 「はい、なんですか?」 「ずっと、君に黙っていたことが有るんだけれど……聞いてもらえるかな?」 「もちろん! 薫さんのお願いなら俺、なんでも聞きますよ!」 「……本当に?」 「? はい、……あ、いやなんでもっていうのは物のたとえですけど……」  薫の優しい視線が、真っ直ぐに和真を見つめている。何か、妙な胸騒ぎがして和真は視線を泳がせてしまった。  いけない、薫さんが何か言おうとしているのに。  慌てて視線を合わせたとき。薫が口を開いた。 「――――――」  きっと薫の言葉は、和真以外には聞こえなかった。快速電車が、ホームを突っ切ったからだ。吸い込まれるような風がホームを駆け巡り、人々を乗せた車両が視界を流れては消えて行く。その音にかき消され、薫の声は他の誰にも届かなかっただろう。 「……え?」  和真は思わず声を漏らし、それから長い時間俯いて沈黙した。  それから和真の耳には何も届かなくなった。人が増えて来たホームの喧騒や、あるいは乗る予定の電車が到着するというアナウンスさえも。  だらだらと汗が流れ出て、滴っているような気がする。身体が熱いような、凍えるように冷たいような。たまらなく幸せなような、あるいはどうしようもなく怖いような。  複雑な心境で思考はまとまらず、和真は叫んで逃げたくなる気持ちをようやっと耐えて。 「……すっ、少しだけ、考えさせてもらえませんか……」  小さな声で返事をできたのは、乗るべき電車が到着し、ドアが開く直前のことだった。  君のことが好きなんだ。もし君さえ良ければ、お付き合いをしてもらえないだろうか。  そう言われて以来。薫の顔は怖くて見ることができなかった。    

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