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「えーっと……『薫さん、もしよかったら、今夜ごはん、薫さんちで一緒に食べませんか? 多めに作っちゃったんで』っと……」
スマホのメッセージ欄にフリック入力を終えても、和真はしばらく送信できずにその画面を見ていた。
送ったが最後、色々な意味で事態が進展してしまう。和真は震えるスマホを見つめたまま深呼吸を繰り返し、やがて覚悟を決めて送信ボタンを押した。
「……はやっ」
シュポ、という音を立てて送信された次の瞬間には既読が付いた。向こうも手にスマホを持っていたか、ずっとメッセージの画面を開いていたぐらいの速さだった。それなら別に構わないけれど、画面を開いたまま倒れていたりしないかは少し心配になった。
既読がついてもしばらく返事は無く、そわそわと落ち着かない気持ちでスマホを眺めていると、
『もちろん、今からでもいいよ』
と時間がかかったわりに短い返事が有った。和真はひとつ気合いを入れて、『じゃあ、今から行きます!』と返事をすると、妙に豪華な夕飯の入ったタッパーを抱えて部屋を出た。
「ああ、美味しい! やっぱり和真君って料理が上手だねえ」
「そうすか? ありがとうございます……薫さんに気に入ってもらえるとホントに嬉しいです」
料理を頬張る薫の表情は確かに美味しそうで、和真も心が癒される。いつも通りの光景、いつも通りの時間。変わったのは、お互いの認識だけ。
和真はドキドキ鳴っている胸を押さえて、それから思い切って尋ねた。
「薫さん、聞いてもいいです?」
「ん? なにかな」
「薫さん、ずっと俺のこと、「弟みたいに思ってる」とか言ってたじゃないすか。どうして急に、その、……俺のこと……」
好き、という単語を出そうとして、言葉に詰まった。再認識すると、全身が冷えるような、熱くなるような不思議な心地がして、身体が縮こまる。すると、薫が「ああ……」と穏やかに頷いた。
「ビックリさせちゃったよね、ごめんね」
「いや全然! 謝ることではないんです!」
「ありがとう、ええとね、そうだね……正直に言うと、悠生のことはずっと以前に諦めもついていてね」
未練を断ち切ろうと家を出たのだ。2年もすれば随分と心の整理もついていたという。今でも胸が苦しくなる時は有るけれど、それでも。悠生には悠生の人生と幸せがあると、心から理解している。そして自分にも同じように、人生と幸せが存在するのだ、とも。
「私は私の人生を生きなきゃって。折角だし、クリスマスにひとりでピザパーティでもしてやろうと思ってたけど……そんなところに、恩人の君が現れるんだもの。多少は運命みたいなものを感じちゃうじゃないかい?」
「じゃあ、その時からもう……?」
「うーん、それは流石に無いかな? 君に会えて嬉しかったのは事実だけど……いつから好きだったかは、ちょっと覚えていないかな」
「覚えてないもんですか!?」
好きな相手を、いつから好きなのか覚えていないなんて、そんなことがあるのか。和真は驚いたけれど。
「和真君は、どう? 覚えてる?」
と返されて、ハッとしてしまった。
「……俺も覚えてないかも、いつのまにか薫さんのこと好きに――」
そこまで言って、和真は手で口を塞いだ。しかし何もかも手遅れで、薫がクスクス笑っている。
「そっか、やっぱり私のこと、好いてはいてくれたんだね」
「……っ、や、あの、いや、そうですけど、これは、その」
顔が真っ赤になって、汗がダラダラ溢れてくる。あわあわしていると、薫が優しく微笑んだ。
「私の自意識過剰だったらどうしようって、少し不安に思っていたから」
「……え、ええ? ……俺が薫さんのことどう思ってるか、気付いてた……?」
「そうだね。結構前から、気付いてないふりをしていたかな」
「そんなあ……」
それなら和真はひとりで無駄にヤキモキしていたわけであり、しかも全てバレていたのなら必死に下心を隠そうとしていたのが丸見えだったということだ。恥ずかしさはますますつのり、耳まで赤くしていると、薫はまた「ごめんね」と口にした。
「この間も話したけど、自分を嫌な人間だと思っていたから。こんな自分を好きになってもらっちゃ、和真君に悪いと考えていて。気付かないふりをしていたら、そのうち諦めてくれないかな、とね」
でも。薫は小さく首を振って、それからはにかむ。
「君は、私を普通だと言ってくれたから……。それに君はたくさんのことを私にしてくれた。だから、……私も、今度はちゃんと伝えたいと思ってね。それが成功しても、失敗しても」
「……薫さん……」
きっと、悠生に何も伝えられないまま、そして話し合うこともできないまま過ごしていたことを、考えてのことだろう。
薫は真っ直ぐに和真の瞳を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「和真君、ずっとずっと私に向き合って、認めてくれて、ありがとう。あの日、悠生のヒツジを取り戻してくれて、ありがとう。私は……私は、君が好きだよ。できることなら、君と……もっと深い関係になりたいと、思ってるんだ」
「ふ、ふかいかんけい」
「もちろん、和真君がそれを望まないなら、」
「いやいやいや!! 望んでます、望んでます!!!」
自分が返事を保留したばかりに、薫がとんでもない結論に行きつく可能性も出てきた。そんなこと、全く望んでいない。
「むしろ薫さんとお付き合いしたくてたまんなくて生きてたところ有るっていうか!?」
「でも……」
「わかります、わかりますよ! じゃあどうして考えさせてほしいって話かってことですよね!?」
「和真君、」
「そうなんです、実はいざお付き合いできるってことになったら急に、理由はわかんないけどすごく不安になっちゃって、でもそれが何でなのか全然わかんなくて! 不安なままお付き合いするのも薫さんに失礼かなって思うし、でもこの正体がわかるまで待たせたらそれもやっぱりダメだと思って……どうしたらいいかもわかんなくて……」
「和真君」
なにか責められているような気持ちになって、早口でまくしたてた後。薫が優しく名を呼ぶので、和真は恐る恐る再び視線を合わせた。その表情はあくまで柔らかい。
「そうなんだ、和真君は不安になってしまったんだね」
「そう、です。すいません、ホント」
「ううん。正直に言えばね、私も少し不安だから」
「薫さんも?」
驚いて問い返すと、薫は小さく頷いて答える。
「私の場合はね、たとえば君とお付き合いできたとして……やっぱり色々迷惑をかけるうちには嫌われないか、とか。私は君より年上なのに、こういうことが初めてだから何もリードしてあげられない、とか。色々考えちゃってね」
「そんな、でもそれは……」
和真は薫をフォローしかけて、はっと気づいた。
そんなことは、付き合ってみなければわからない。人と人とのことはお互い様で、そして失敗は誰にでもあるし、うまくいかずに終わる恋も、星の数ほど有るのだから。
それでも、全ては始めてみなければわからない――。
「……付き合って、みないと。わかんない、すよね……」
「うん、そうなんだよ。えいやっ、で美容師にもなれたし、結構つらいことも多いけど、ひとり暮らしもできてるし。……悠生とも仲直りできたし。やってみないと、わからないと思ってね」
「……」
「和真君の不安は私のものとは全然違うかもしれないけど……だからね、和真君も無理して選ぶことはないよ。私は君とどういう関係になろうと、良い隣人で有りたいと思っているしね」
「薫さん……」
ここまできても、薫は和真の意思を尊重しようとしているし、何を選んでも今まで通りでいると言っているのだ。和真は理由もわからないけれど、視界が滲むのを感じた。
もう少しだけでも。自分の幸せを願ってもいいのに。
他人の幸せを願う以上に、自分の幸せを。どうしてだか、そう考えると涙が溢れそうになった。
何度かしぱしぱと瞬きを繰り返し、それから和真は、おずおずと薫へ手を伸ばしてみる。逃げもせず、抵抗もせず、薫は手を握ることを許してくれた。
「薫さん、俺……」
「うん」
「不安でいっぱいだけど、でも、薫さんとお付き合いしたい。薫さんを幸せにしたい、一緒にいたいって思うんです」
「うん、うん」
薫は優しく、まるで母親のように頷いてくれている。和真はひとつ深呼吸をして、それから。
「俺と……お付き合い、してもらえますか?」
そう、尋ねた。
「……それを聞いたのは私なんだけど……」
「アッ!? そ、そうだった! ええっと……」
返事の仕方を間違えた。和真が大慌てで言い直そうとしていると、薫がクスクス笑っているのが目に入る。
「ありがとう、和真君。これまでも、これからも、よろしくね」
「……! は、はい……!」
本当に、恋人になれたのだ。
それを実感して、和真は今度こそ、涙を零した。
ついに、ふたりの関係は変わった――かのように、見えた。
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