39 / 44
第十三話 手探りの愛
「バ…………ッカじゃないの~!?」
バー『ジョー』に、リンの甲高い声が響いた。
店内にいた人々がみな振り返るほどには大きな声だった。目の前にいたマスターは耳を塞ぎ、隣にいた和真は叱られた犬のように肩を竦めていた。その隣に座っているシノは、マイペースにグラスを傾けている。
「付き合い始めたけどまだキスもしてないって……あれから何週間経ったと思ってんの、このインポ野郎~!」
「リンちゃん~、言葉遣いが最悪だよ~」
マスターがそう言うと、リンはむっすりとした表情でカクテルをあおる。それで和真はカメが甲羅から顔を出すように首を伸ばして、「まだ2週間……」と呟いた。
和真と薫が付き合い始めて、2週間だ。
今日までのふたりは、進展が有ったともいえるし、無かったとも言える。恋人らしいことをしよう、という話になると、ふたりして初めてなものだから、何からどう始めていいかわからない。結局、「夕飯は一緒に食べる」とか、「ハグをする」とか無難なことから始めてみたのだ。
ところが和真ときたら、いざ薫とハグをしようとなると顔は真っ赤に、頭は真っ白になる。ドキドキしてハグ以上のことをしたら死んでしまうような気もするし、結局薫とは清らかな仲を続けてしまっているのだった。
そんな中、リンは和真とシノをこのバーに呼び出した。飲み会、と称していたが、要するに経過報告を求められたわけた。そして現状をありのままに伝えたところ、リンに怒鳴られた次第である。
「それじゃあ付き合ってても付き合ってなくても変わんないじゃん! ねえ、シノ!」
「はい、そうですね」
「そうは言っても……だってさあ、好きな人とどう接したらいいかわかんないんだよぉ。ドキドキしちゃって、キスするのも考えただけで……変になっちゃいそうだしぃ……」
「中学生みたいなこと言ってないで、さっさとスることしちゃいなよ! 和真、いくらでもシてたんだからさ~」
リンの言葉に、和真は顔を赤くしてブンブンと首を振る。
「いや! それとこれとは全くの別物で!」
「何がどう違うってんのさ! ねえ、シノ!」
「はい、そうですね」
「だって! 薫さんには性欲とか無さそうじゃない!? そもそもエッチなことしたいかどうかわかんないし……」
「バッカ、ああいうおしとやかな男にだって雄になる瞬間はあんの! 和真、いっぺん誰かに尻掘られてきなよ!」
「やだあー! 俺はまだピュアなタチ専門の男の子なんだー!」
和真とリンは、それからもしばらく賑やかにやり取りを続けていた。
ふたりはすっかり仲直り、彼らの望んだ通り、「友人」になれたのかもしれない。ただ会話の内容が酷いので、ここ以外で会うのはまずいようにも思えた。
そんな時間が流れた後のことである。リンはそれまでと表情を変え、ウーンと悩むように天井を見上げた。
「でも、冗談抜きでホント、薫にだって性欲は有ると思うし、したいことも有ると思うよー?」
「そうかなあ、そうだと良いんだけど……」
「そんなに自信無いなら、本人に聞くなりそういうムードに持ち込むなりすればいいのに。和真のほうが、「そーゆーこと」に関しては先輩なんだからさ。ねえ、シノ」
「はい、そうですね」
そこでリンは、首を傾げた。
「シノ、今日それしか言ってないけど、大丈夫?」
和真もそれでシノを見る。彼はグラスを握ったまま、「はい、そうですね」と頷いた。リンと和真は顔を見合わせ、それからふたりして焦った。
「シ、シノさん!? なんか様子がおかしいけど!」
「シノ、なんかあったの? 全然いつもと違うよ?」
問いかけに、シノはしばらく無反応だった。しかし、やがてグラスを見つめていたシノが、じわりと涙を零したものだから、リンと和真は仰天して「どしたの!」と声をハモらせながらその背中を撫でた。
「なんか嫌なことでも有ったんか!?」
「シノ、ほらボクたちに言ってみなよ~、ここには人生の先輩もいるからさ~!」
「さりげなく僕のこと言ってる~?」
マスターの問いに誰も答えることはなく、シノはといえば3人の顔を順番に見つめた後で、わっと本格的に泣き始めたのであった。
「同棲してる彼氏と喧嘩、ねえ〜」
シノの辿々しい説明によれば、そのようである。
元々、彼の恋人(彼氏と呼ぶことにする)との仲は良好だけれど、相手には困ったところがいくつか有る。人間なのだから当然だろう。そのうちのひとつが、作業に没頭すると時間を忘れるということだ。
真っ暗な部屋で作業しているのならまだマシ。朝から晩まで食事を忘れ、休憩も取らないことさえある。たまには座ったまま寝落ちしていることまで。
そんな彼氏を、シノは心配して度々注意をしてきたらしいのだ。
ところがシノは先日あった小さな連休の間、寝食を忘れてとある小説を読み耽ったらしい。これについて彼氏が「そっちもやるじゃないか」と指摘した。
しかし頻度は明らかに彼氏のほうが高く、いくら注意しても「ついつい」と言い訳してばかりの相手にシノは機嫌を悪くした。思わず言い返したところ、そこからは不毛な痴話喧嘩へと発展してしまい、もう2日ろくに口をきいていないという。
しかし、シノが泣いているのは、彼氏に怒っているからでは全くなかった。
「彼に嫌われてしまったらどうしましょう、僕、僕はもう生きていける自信が無いです……!」
バーのおしぼりを借りてわんわん泣いているシノに、残った3人は顔を見合わせた。
よく有る痴話喧嘩に、重たすぎる愛情である。あの、野生のカウンセラーシノがこんなことで思いつめて泣くのだと思うと、和真は不思議な気持ちになった。自分のことはさっぱりわからない、ということなのだろうか。
しかし、恋愛などしたことのない和真とリンが、どう慰めていいやら。自然とふたりはマスターを見た。その視線を感じて、マスターが驚いたように自分を指さしたので、コクコク頷く。
マスターはポリポリと頬を掻いてから「ねえねえ」とシノに声をかけた。
「そもそも、君が彼氏に注意をしてたのって、なんでなの〜?」
「……っ、う、それは、あの人にはいつまでも健康に、生きていてほしい、から……」
「だよね〜。パートナーにはいつまでも健やかであってほしいもんだよ。だからね〜、彼氏も君にそう思ってるんじゃないかな?」
「……」
ぐすぐすと鼻を啜りながら、シノが顔を上げる。いつもの淡々とした雰囲気も何処へやら、真っ赤に泣き腫らした目が痛々しい。
「大切な人には、ずっと元気でいてほしい。そういう願いが、相手に伝わってないって感じると、ついつい言い過ぎちゃったりすると思うんだよね〜。ストレスも身体に良くないのに、イライラさせちゃったりさ〜。でも、それって相手を想ってるからこそ出るやつでしょ〜?」
「…………」
「だからきっと、彼氏も君のこと、大事に思ってる。だからこそ喧嘩になったんだよ〜。タブン」
タブン、は余計である。和真は眉を寄せ、慌ててフォローに入った。
「そうだよシノ! 恋人なんだから、たった1回の喧嘩で嫌いになったりしないって。知らんけど」
和真も余計な一言をつけてしまった。慌ててリンが和真の口を塞いで、シノに笑顔を見せた。
「そうそう! ちゃーんと謝って、ちゃーんと話し合ったらきっと大丈夫だって! 雨降って地固まるって言うでしょ? だから元気出して!」
「みなさん……」
だいぶひどい対応が続いているが、それなりに響いたらしい。シノが少し元気を取り戻したのを見て、和真もうんうん頷いた。
「それにさ、俺も思ったけど、やっぱ言葉にしてちゃんと話し合わなきゃわかんないこととか、有るしさ。彼氏さんと一度、じっくり話したらいいと思うよ。大丈夫、そんなシノのこと恋人にしてるんだもん、受け入れてくれるって」
「…………和真さん……」
シノがようやく落ち着いてきたのを感じて、3人は顔を見合わせて頷いた。後は、本人の中で整理がつくのを待つしかないだろう。
しかし。和真は思った。
恋をしている間でも、あんなに感情がグチャグチャになったのに。付き合った後もこんな些細なことで、「あの」シノが泣くほどかき乱されるのだと思うと。なんとも不安な気持ちになった。
と。
「ん」
尻ポケットが振動して、和真はすぐにスマホを取り出す。
画面は閉じていた。だから一瞬だけ、通知欄に短い文章が映る。
それは薫からのメッセージで。
「え」
一瞬読めた本文は、見間違えでなければ。
『誰でも簡単アナルセックスの基本♡教えます』という表題の、何かサイトのアドレスのようだったのだが。
和真は数秒固まって、通知の消えていったスマホを慌てて開いた。
メッセージの画面を確認すると、何故か『このメッセージは削除されました』と書いてある。
「?!」
和真がさらに困惑していると、薫からのメッセージが立て続けに送られてくる。
『ごめん』
『間違えた』
『間違えて送っちゃった、今のは違うから』
『和真君、何か見ちゃった? 今のはね、本当に違うから』
『和真君?』
この動揺の仕方。何も「違わない」ときの慌てふためき方である。
和真はそう確信して、すっくと立ち上がった。何も知らない他のメンツが、和真を見る。
そんな彼らに、和真は真剣な顔のまま言った。
「俺、やり遂げてみせる」
ともだちにシェアしよう!