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 近頃の和真は帰宅すると、荷物と服を着替える程度のことをして薫の部屋に行くのが日常になっていた。そのまま夕飯を作り、一緒に食べ、少しばかりイチャイチャして。そのまま薫の部屋で寝るか、和真が部屋に戻って寝るか。  そんな日々を送っていたのだから、当然その日だってそうした。  薫の勤務体系は不規則である。恋人になってから改めて、それを実感した。勤務時間としては和真のほうが短く、先に帰るはずなのだが。薫は週3日程度の休みを入れているし、予約の無い日は早めに帰ることも有るようだ。  今日はふたりとも仕事で、和真は帰りにバーへ行ったから、先に帰宅したのが薫になった。明日からは土日の連休に入る。だからふたりでのんびり過ごそうとは言っていた。  どうやら、過ごしかたは少し予定と変わりそうである。  和真が薫の部屋に入ると、彼は焦った様子で「お、おかえり」と声をかけてきた。 「今日は、みんなと楽しめたかい?」 「はい、まあ」 「そ、そうなんだ、よかった。お夕飯は食べたよね? そうだ、冷凍庫に和真君の好きなアイスを入れてあるから、お夜食にでもどうかな、あとは……そうだ、お風呂も洗っておいたから入れるよ、ゆっくり浸かってきたらいいかも。それに……」 「薫さん」  まくし立てる薫の言葉を遮って名を呼ぶと、彼はぎくりと体をこわばらせた。心なしか頬が赤く、目を泳がせている薫へ、和真は冷静に尋ねた。 「さっきのメッセージですけど」 「あ、あれは! ホントに、誤解で!」 「自分でお尻をいじったんですか」 「〜〜っ!」  薫がさらに頬を染め、それから長い三つ編みが尻尾のように揺れるほど、首を横に振った。 「俺がいじるより前に自分でいじったんですか!!」 「い、いじってない! いじってないったら!」 「ホントですか?! じゃあなんすか、あのサイト! 薫さんはどこまで「自己開発」しちゃったんですか?!」 「ホントに、ホントになにもしてないよ〜!」  切羽詰まった顔で問い詰める和真と、羞恥のあまり涙ぐみながら否定する薫。なんともシュールな光景ではあるが、和真は真剣そのものである。 「ホントですね?」 「うう、だって、和真君はたぶん、その……私と違って経験が有るだろう? 私が何も知らないんじゃ、面倒をかけると思って……少しでも色々、練習したほうがいいのかもって……」 「しちゃダメです!!」 「え、ええっ? ど、どうしてだい?!」  驚く薫の肩に手を置いて。困惑する彼へ、和真は静かに言った。 「薫さん、処女ってのは儚いモンなんです。一度でもエッチなことしたら無くなっちゃう、幻のようなモンです」 「え、ええ? うん……?」 「無知も同じです。知っちまえばもう元には戻れません」 「そ、それはそうだろうね……?」 「だから今! 薫さんは最高にいい状態です!! そのままでいてください! 俺が! 開発してあげますから!!!」 「う、うん?!」  あまりに力説する和真へ、薫もどう反応していいか困っている様子だった。それでも何か良からぬことを言われているのぐらいはわかるらしく、頬を染めておどおどしている。  それはそれでかわいい。今までわかっていることを考えれば、薫は32歳の童貞処女。色んな意味で魔法使いだ。そして和真は、それを変えようとしている。  初めては人生で一度きり。その間違いのない真理は、ことセックスだけにとどまらず、初めてのキスから始まり性行為にまつわる全てに存在する。その尊いものを、気を利かせたつもりで消費されてはたまったものではない。  そんなことを考えながら、和真は改めて自分のことを恥じた。和真にとっての初めてなど遠い記憶で、キスなんて中学2年の夏にはクラスメイトとしているし、セックスだって本格的なことは大学1年生の時には終えてしまった。  その思い出は有るには有るけれど、和真にとって甘いものでも大切なものでもなんでもない。ただ、寂しかった。その時間を埋めるように貪った。それだけだ。  けれど。 「薫さんと俺、これから色んな初めてを思い出にしていくんだと思ってて……」  それはセックスだけではない。初めての恋愛、半同棲、そんなことは無いほうがいいけれど痴話喧嘩もするかもしれない。その全てが薫と和真の、尊い時間であり共通の体験である。 「それを、大切にしたいから! 薫さんも、無理して先に進もうとしなくて! 大丈夫ですから!」 「で、……でも……」  でも、と言ったきり、薫は口をつぐんでしまった。  でも。その先にある言葉を、和真は推測するしかない。言いにくいこと、だろうか。薫が自己開発をしようと試みたこと、そして付き合い始めて2週間、自分達はピュアな関係を続けていたこと……。全てを重ねてみれば、簡単にわかった気がした。 「……! 薫さん! 先に進みたいんですね!?」 「……っ、か、和真君、わ、私は、その、」  薫の頬がみるみる赤くなっていく。慌てふためくその姿に、和真は衝撃を受け、そして顔をくしゃくしゃにして「ごめんなさい!」と謝った。 「俺がモジモジしてる間に、薫さんを待たせちゃって……!」 「いや、えっと、その、ええと……」 「エッチ、したいですか!?」 「~~!」  ダイレクトに尋ねると、薫はいよいよ耳まで赤くして、俯いてしまった。はたと和真も気付く。普通の人は、こんな明け透けな確認の仕方はしないのかもしれない。 「あっ、あー、えっと、」  今度は和真が困る番だ。誰彼構わずセックスをしない、まして経験が無い人を、どう誘えばいいのだろうか。  自分がウブだった頃のことなんて記憶にも無いし、かといって、この反応はきっと薫もそうしたいのだ。しかしどうやったら自然にその方向へ持っていけるのか。和真は悩みに悩んだ末、恐る恐る切り出した。 「薫さん、その……」 「う、うん」 「……き、キス、してみま、す……?」  無駄にかわいらしく首を傾けてみせ、薫の表情を覗き込む。  薫はといえば、目も合わせてくれないし、顔を真っ赤にしているままで返事もしてくれない。ただ、その感じに覚えが有った。  あれは、中学生の頃。初めて同士でキスをした、今は顔もおぼろげな同級生の表情。恥ずかしくて、不安で、胸が高鳴って。怖くて、それでも。  それでも、どうしてもしてみたい。そんな顔だ。 「……っ」  その感覚を思い出して、和真まで同じような表情になってしまった。ドッドッと高鳴る胸を感じながら、それでも薫の様子を窺っていると。  小さく頷くのが見えたから。和真は覚悟を決めた。  

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