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第4話

 週末のオフィス。今日中に片付けなければならない書類に目を通していたら、ノック音の後に見覚えのある姿。  ――潤の方から俺のオフィスにやって来るのは初めてか……。  俺を睨みつけている潤を見つめながら、ぼんやりとそんな事を考えてみる。潤は俺が綾野家に連れて来られた時からずっと……俺の存在を認めた事は無かったし、義母が自殺したあの日から潤が俺を許す事も無かった。そんな彼がわざわざ出向いてくるとは……。  「あんたが家を出て五年になるか?」  それが潤の第一声だった。  「もう、そんなに経ちましたか……」  「この五年であんたも随分と立派になったもんだな。親父にも呆れるわ。どこの馬の骨かも知らないあんたなんかに、この会社全ての権利を譲るなんてな!」  潤がは嫌味を言う為だけに此処へやって来たのだろうか?俺は彼の本心を探りながら会話をする。  「私の母は綾乃家には劣りますが問題の無い家柄ですよ。それに……会長のお心は私は存じ上げませ。」   「自分の親父を会長なんて……嫌味な言い方だなっ!」  「それは……貴方がお嫌だと思ってそう呼んだだけです」  俺の言葉に潤の顔色が変わった。  「直樹、お前……っ!」  次に罵声が続くかと思ったが潤はその言葉を飲み込んだ。そんな彼に俺は単刀直入に訊く。  「今日はどう言った用件ですか?貴方からわざわざ私の所に来るなんてめずらしいものですから……」  「俺だって、こんな所に来たくなかった!ただ……」  「ただ?」  「親父に言われたんだよ!」  「会長にですか……?」  潤は一つ咳払いをしてから話を始めた。  「俺が今度、新しく興す事業にあんたが参加しなければ資金提供は出来ないと」  「私が参加とは?」  「俺が興すのは俳優や歌手のマネージメントの会社だ。以前から友人に代表にならないか?と話を進められていて。色々とリサーチしたら……それなりの利益も見込めそうだからその話を了解した。けど……少し、資金が不足して不本意ながら親父に借りる事になったんだ。で、親父が出した条件が……あんたもその事業に参加することってさ!」  「私はその分野の事は素人同然ですが……」  「もちろん、俺もそう親父に言った!けど、親父の条件はあんただった。もしかしたら……之を機にあんたと俺が仲良くなれるとでも思ったのかもな」  そこまで話して潤は急に笑い出した。  「親父も本当に馬鹿だ。俺がこんな事くらいであんたを許すとでも思ってるのか?だとしたら……救いようのない馬鹿だな親父は!」  「……」  「ほらな……俺が何を言おうが黙ってる。あんた……マジで鬱陶しい! あんたが母さんを殺した……あんたのせいで母さんは自殺したんだ!」  「それは……」  潤の言葉が胸に刺さった。俺がいなければ……俺が生まれていなければ……潤も雅の母親も苦しまずに……そう考えると俺は何も言えなかった。  「ほら、否定できないだろ?あんたが母さんを殺したんだよ!俺は絶対にあんたを許さない!!だからあんたを……これからもずっと恨み続けてやる!」  「潤……」  「俺の名を気安く呼ぶな!あんたのその声で名を呼ばれると虫唾が走る!でも……そうだな……母さんや俺の人生を滅茶苦茶にしたあんたには償ってもらわなくっちゃな。だから……あんたには今日から俺の部下になって貰う」  今は……潤の言葉に従うしかないだろう。会長もそれを望んでいるのであれば……。  「分かりました」  「今夜、渋谷にあるN-A CLUBに21時に来い。そこで奴等と話す事になってっから」  「二十一時にですね……分かりました」  「親父との契約は三ヶ月。あんたは無事三ヶ月を終えて此処へ戻ってこれば、親父は会長の座を退くってさ」  「そうですか……」  「俺はあんたなんかに負けない!何時か親父に俺の実力を認めさせてやる。まあ、そん時はあんたの終わりの日になるだろうけど……じゃ、遅れずに来いよ!」  まるで突風が去っていった後の様に、潤が帰ったオフィスは静かな空間になった。三ヶ月……俺に残された日は残り少ない。それなのに俺を恨んでいる潤と過ごさなければいけないのか……。何故、父は俺を選んだのだろうか?  ふと、昨夜のキミの顔が脳裏を過ぎった。キミとなら……俺は何を考えているのだろう。  突然、胸ポケットの中のスマホが震え着信を知らせていた。表示されている名は父だった。  「もう、潤はそこへ行ったか?」  「はい。今、帰られました。」  「そうか……なら話は聞いたな?」  「はい」  「潤はお前に勝つことしか考えていない。悪いが、あいつに暫く付き合ってやってくれ。そうすれば潤もお前の力を認めて大人しく私の意見にも従うだろう。お前が不在中の事は岡田に任せてある」  「わかりました。ですが……」  「音楽ならお前も昔……やっていただろう?」  「……」  「あの時はすまなかった。傷はまだ痛むのか?」  「いえ、もう……」  「そうか……潤のことを頼んだぞ」  「はい」  用件だけ伝え父は電話を早々に切った。これ以上、話し辛かったのだろう。  あの時の傷……俺が始めて父の意見に逆らいついた傷。  俺は大学時代、留守がちな父の目を盗み仲間とバンドを組んでいた。初めて自由を手に入れた気分だった。誰にも縛られず、自由に……音楽の道で生きて行きたいと考えた俺は綾乃家を出ようとしたが、直ぐにそれを知った父と争いになり、割れたガラスの破片で左の掌に無数の傷を作ってしまった。その傷の名残で指が上手く動かなくなった俺は音楽を諦めるしかなく、また……籠の中の鳥に戻ったのだが……。父がこの傷を思い悩んでいるとは知らず、先程の言葉の中に父親としての温かさを感じられ、俺の心が少し和らぐ。  人間とはつくづくおかしな生き物だと思う。ほんの少しの言葉で胸に痞えていた物が楽になるのだから。  俺は手にしていた書類を片付けた後、父の指示通りオフィスに岡田を呼び引継ぎだけ済ませると渋谷に向かった。  潤と約束した場所は大通りから少し離れた路地にあり、入り口からは既に大きな音が外にまで洩れていた。店内に入るとステージには……キミの姿があった。  「これからスカウトすんのはアイツ等だ……」  潤が何か俺に話し掛けていたが……突然、もう一度目の前に現れたキミの姿に囚われてしまった俺の耳には潤は霞んでしまい、ステージの上で歌うキミの歌声しか入ってこなかった。  LIVEが終わっても俺は、暫く思考が上手く処理出来ずにいた。本当にこんな事があるのだろうか?誰かの悪戯なのではないだろうか?そう考える一方で、キミに再会できた事に運命的な物を感じてしまう。だが……そう思う一方で自嘲する俺もいて。運命……俺に残された時間にそんな物など必要なのか?と。  それから潤と俺は、三十分程店内でキミを待った。  「まだ来ねぇのか?」  なかなか俺達の前に姿を現さないキミに、腹を立てた潤の言葉もホールに響く激しい音楽に掻き消される。怒りを露わにした潤が席を立とうとすると、背後から声がした。  「話って……何?」  キミだった。潤が嫌味を含んだ言葉でキミを席に迎える。  「これだけ待たせといて、その台詞か?」  そんな潤にも動じる事なく、キミは差し出されたビールを一口飲み  「オレ達は、このままのスタイルでやって行くつもりだから」  そう言い放つと潤を睨んだ。だが、そんな事くらいで引き下がる潤ではない。  「は?お前、何にも話聞いてねぇの? 悪いけど……お前んとこのリーダーと契約はもう済んでんの。こっちが欲しいのはお前だけ。その代わりと言っちゃなんだが、お前んとこのバンドにそれなりの金は支払い済みで……」  「そんな話、聞いてない!」  潤の言葉を遮ったキミをメンバーの一人だろうか?宥めに入って来た。  「悪い、悠……俺達もさ、そろそろ夢追いかけんの疲れちまって。お前はさ、声もいい。ルックスだっていい。才能だってある。こんなとこで埋もれて終わっちまうのは勿体ねぇよ」  「勝手に決めんなっ!オレは……オレの気持ちは?」  「お前の言いてぇことも、考えてることもわかってる。わかってて、俺達は身を引くんだ。いい加減、大人になろうや。お前が売れてくれりゃそれでいいんだよ、俺達は」  そう言って去って行く男の背中をキミは悔しそうに見つめていたが、そんなキミにお構いなしに話を進める潤。   「話は済んだか?じゃ、改めて……一条 悠くん、これからよろしく。もし、契約不履行にするってんなら違約金の話になるけど……まぁ、到底支払える額じゃねぇと思うけど。如何する?」  威圧的な態度にこれでは流石に拙いと判断した俺は口を開く。  「すみません。代表の秘書を務めます、綾乃 直樹と申します。まだ、弊社に入社して間もない為、名刺をお渡し出来ず失礼致します。代表の綾野は一条さんに秘められた才能を高く評価しております。是非、弊社に前田さんのお力をお貸しして頂けないでしょうか?綾乃を初めとする弊社社員一同、共に歩んで頂ける事を強く希望しております。一条さん……如何でしょうか?」  俺の言葉に潤は舌打ちするが、少しキミに対する態度を改め    「今日は一条くんを担当する者を紹介しに来た」  そう言うと俺に視線を移し言う。  「デビューまで、秘書のコイツにキミを担当してもらうので、今後の事はコイツから話を聞いて」  こんな話……聞いていない。俺は潤の補佐を務めるだけじゃないのか?あまりに突然の事に俺が少し狼狽えているのを見て、潤は唇の右端を少し上げて笑う。その潤を睨んでいたキミの視線がゆっくりと俺に移る。そしてキミの唇から発せられた言葉は「初めまして……」だった。  潤の前だからキミはそう挨拶したのか? 俺にはキミの真意がわからなかい。だが、此処は暫くキミに合わせてみようと思い  「初めまして。改めて紹介させて頂きます。綾乃 直樹と申します」  そう挨拶を交わした。  「彼は一条 悠くん。LIVEを見た通りヴォーカル担当」  「初めまして」と挨拶だけして、後は何も話そうとしないキミに代わって、潤が簡単な紹介をし  「さっき、話を聞いてわかってると思うが……他のメンバーとは話がもうついている。彼だけがこのままLIVEを続けるって駄々を捏ねてるってわけ。はい、これが彼のメンバーと交わした契約書のコピー。後はあんたに任せるから三か月間で何とかしろ!じゃ、一条くん……次はオフィスで」  一方的に話を終えた潤は俺の前に書類を放り投げ  「後は頼んだぞ。あ、そうそう……デビュー前の一条くんに変な噂が立つのは避けてぇから、今日からあんた家に居候させて面倒みてやって」  口元には含み笑いを覗かせたまま、俺に小声で告げると店を出て行ってしまった。潤は……俺を困らせたいのだろう。俺が困惑する姿を見て、楽しんでいる。もし、それで少しでも彼の気持ちが晴れるなら……。残された僅かな時間を彼の憂さ晴らしに使ってもいいのでは?俺以上に潤も傷ついていたのだ。そう思えば……俺の気持ちは固まった。去って行く潤の背を睨んでいたキミから  「アイツ等が決めちまったんなら仕方ねぇか。大人になれ……か。何だよ、アイツ等……ホント、バカじゃねぇの!それよか、あんなのの秘書やってるあんたは……もっと大変か」  少し悲し気に笑う声に混じり俺を労う言葉に  「そうですね……」  ……と、俺はキミに微笑んでみせた。  「オレさ、デビューとか……そう言うの全く興味ねぇんだけど……」  俺は無造作に投げ置かれた書類を手に取り目を通しながら、次のキミの言葉を待たず話を続けた。  「契約破棄するおつもりですか?」  「ああ。そのつもりだけど」  「では、違約金はかなりの額になると思います。先ほど、代表の綾野が話した通りあなたにではなく、他のメンバーの方に」  「はぁ?なんでそうなんだよっ!」  「この契約書には楽曲提供に対しても支払い済となっています。その契約が一条さんに対しての契約と重複する形をとってありますので、契約破棄となりますと……」 「クソッ!だからオレは止めとけって言ったのに!」  口調を荒げて残っていたビールを一気に飲み干すキミに  「一条さんも大変ですね。ですが……メンバーの方は一条さんを想って契約されたのでは?」  キミからもらった言葉を今度は俺が返す。  「そうなんだよな……それがわかるからさ……ってそれ、オレがあんたに言った言葉じゃねぇ?」  さっきまで泣きそうな顔で怒っていたキミが、今度は無邪気な子供の様に笑って答えて。  「では、お互いにと言うことで」  「そうだな……」  そう言ってキミはもう一度、俺に微笑んで見せてくれて。キミの笑顔に俺の心がざわつく。この感情は何なのだろう?一体、俺の中で何が起こっているのだ?そしてキミのあの言葉……。「初めまして……」その言葉に含まれたキミの真意を俺は知りたい。  「一条さん……」  「あ……悠でいいから」  俺の中の疑問を解く為にキミの名を呼ぶと、直ぐに堅苦しい呼び方を禁じられてしまい、改めて親しみを込めキミの名を呼んだ。  「では、悠くん……」  「悠でいいって!」  「いや、流石にそれは……」  「ああ、もうわかったって。それでいいよ……全く、調子狂っちまうんだよな」  「すみません」  「で、何?仕事の話?」  「いえ、仕事の話ではありませんが……」  「じゃ、何?」  「悠くん……先程、あなたは私に『初めまして……』と言いましたが……」  「え?それが何か?もしかして……それじゃ、挨拶するのにマズかった?夜なんだから『こんばんは』じゃないと駄目とか言っちゃう人?それとも業界用語の『おはようございます』とか?」  そう戯けたフリをしながら話すキミに違和感は感じられなかったが、俺の中の疑問は燻ったままだった。潤がいなくなっても知らないフリを続けるつもりなのか?それとも……そうしなければならない何かがキミにはあるのか?キミの心が読めない俺は曖昧な返事を返すことにした。  「いえ……ただ、何処かでお会いしたような気がしたものですから」  そう答えた俺の顔を覗き込むように見た後  「そう?オレはないけど」  キッパリと答えるキミ。俺は今夜はこれ以上、この事について質問する事を止めた。もし、キミに理由があるのなら……今はまだ、何も話したくないのだろうと判断したからだ。  だが、何かが俺の中で引っかかていた。それが何なのかを知るには、もう少し時間が必要だった。キミが嘘を吐いてるようには思えなかったが……まだ、何かを隠しているのでは?と感じた。けれど、それが何であろうと俺はキミの過去に踏み込む事は許されない。俺は三ヶ月後にはキミの前から消える人間なのだから。  まだ眠そうにベッドに横たわるキミに俺が今後の事について説明を始めると、キミからは否定的な言葉しか発せられなかった。

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