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3,少年の蕾と棘1
チャリティー祭当日。
斎藤響はどぎまぎした気分で登校した。殿坂に来るなと言われたけれど、あれ以降は音沙汰がなく、どうすべきか判断ができなかった。
クラスでの役割も決まってしまっていて、今さら休むのは迷惑になるし・・・・・・。
ちらちらと何度も廊下を確認したり、スマホを覗いたりして落ち着きなくしていたが、一時間も経てば肝が据わる。
———見に来ないってことは、チャリティー祭に参加しても別に構わないんだよね。
あの身勝手な王様がこちらの都合を気にするとは思えない。ということは、可愛げのない自分は飽きられたのだろう。
それならそれで良い。
面倒ごとから解放されたら、残りの学生生活は目立たずにやり過ごせる。ホームルームのチャイムが鳴り、響は気持ちを切り替えてスマホを閉じた。
教室の戸が開けられると反射的に首がそちらに向いて、「げ」と思った瞬間、「うわ」と声に出していた。呟き程度の声量で良かった。幸い、クラスメイトの視線は入ってきた教師——東城に集まっている。
「皆んな、おはよう」
東城が挨拶をすると、近くで女子たちが嬉しそうな声をあげる。
「あれぇ、東城先生のクラスは~?」
「うちはほとんど参加しないから、他クラスと合同なんだよ。今朝は特別クラスの担任の仙川先生がステージ設営で来られないので臨時で来ました」
———それならあんたがステージをやれよ・・・・・・。
心の中で響は悪態をついた。朝から嫌なやつの顔を見るなんて最悪だ。気持ち悪いストーカーのくせにと思っていると目が合い、東城が気まずそうに視線を逸らした。
「じゃあ出席をとるから、ええと、いつもの席がないから適当に座れ~」
特別教室内は、メイド喫茶仕様に飾りつけと座席移動がされている。生徒たちはパラパラと思い思いの場所に座った。
響は一番後ろの片隅に移動しイヤホンをした。音は入れてないけれど、これをしていると周囲の雑音が少しだけかき消されて気持ちが落ち着く。
東城は生徒のあいだを縫いながら、一人一人の名前と顔を確認していた。時間のかかるやり方に、眉を顰めて目を閉じる。名簿順に名前が呼ばれていき、あと二人で響の順番が回ってくる。
「成瀬・・・・・・瑞浪・・・・・・」
名前が呼ばれるたびに、東城の靴音が大きくなる。近くなる気配と共に、甘ったるいような匂いが鼻をつき、響の順番。
「斎藤」
「———は」
一瞬の沈黙。その後、慌てて「・・・・・・はい」と返事をする。
今一瞬、何が起きた?
そっけなく聞き流そうと思っていたのに、名前を呼ばれた瞬間に、弾けたように顔を上げてしまっていたのだ。
「斎藤、どうした?」
東城が腰を屈めて、響を覗き込む。
「———ッ」
あ、また。きゅううと身体の奥が引き絞られて、喉が詰まる。しかも今度は一度目よりも強く感じる。
響はあわてて突っ伏して、組んだ腕の中に顔を埋めた。
何だったんだろう、今のは。
引き絞られたところが少しずつ、どくんどくんと鼓動をしだすような感覚がする。熱をもったそれは腹の奥にあり、しだいにジクジクと疼きはじめた。
———なんだよッ・・・・・・、こんなの知らない。コワイ。
「斎藤? 具合が悪いなら、保健室に」
身体が震えてきてしまい、響は声を張り上げた。
「来るな! 俺に触るな!」
ハッとして口を閉じる。東城は顔をこわばらせ、こちらに伸ばしていた手を悲しげに下ろした。
どうした、なんでと一部始終を見聞きしていたクラスメイトたちは首を捻り、口々に憶測を放つが、東城は「なんでもないよ」と彼らに笑いかけ、点呼を再開させる。
点呼を終えると、当日の簡単な説明があり、ホームルームが終了する。時間にしてみればものの数分の出来事だが、響にとっては長すぎる時間だった。あっという間に腹の熱は身体全体に広がって、頬が火照り、頭が重い。
こちらを心配する東城の視線を感じていたけれど、終始で響は下を向き、一人でブルブルと震えていた。
教室を出る前に近づいてくるのがわかり、頼むからやめてくれと丸めた背中を固くした。気まずさもあったが、東城がそばによると腹の疼きが増す予感がしたのだ。理解できないその現象が怖くて、響は黙りを貫き通した。
東城が諦めて教室を出て行くと、比例して得体の知れない熱と脈動は静かに引いていった。
「響くん、今いいかな?」
クラスメイトの一人に話しかけられ、響はやっと身体を起こす。
「はい、これ今日の衣装」
衣装係の女子生徒がメイド服を手渡してくれる。
「あ、うん。ありがと・・・・・・」
「じゃ、じゃあ、みんな響くんのメイド服姿を楽しみにしてるからね」
笑いかけてくれても、彼女と同じように笑えない。響がうつむいてしまったために、その女子生徒は口を閉ざして戻っていった。
自分以外の男子は女子たちに「ちょっとサイテ~」と言われながら賑やかに着替えをし始め、響は溜息をついて席を立つ。
男子トイレで着替えようと教室を出て左右を確認し、声の聞こえない方向を選んで廊下を進んだ。
———誰とも深く関わらずに、当たり障りなく生きていたい。
注目されないように普通に。
ここでも以前の学校でも、響はずっと一人でいる。
いじめや不登校もある意味で目立つから、周囲の決定には逆らわないで、できるだけ周りに溶け込むように努力して、空気みたいに、親しい友達も作らず、恋人も作らず。・・・・・・そっか、それなら学校生活だけじゃなくて、一人なのはいつもだ。
それなのにこの学園に来たせいで、そんな些細な願いも叶わなくなった。少々手続きが面倒でも、別の学校へ行くべきだったと後悔する。
「ん? あれ?」
考えごとをしていたために、うっかりトイレを通り過ぎていた。
響は踵を返して方向を変える。急いで戻らなくてはいけない。あまりこちら側に来すぎると学園の本生徒たちに目をつけられてしまう。
しかし戻ろうとしたとき、前方の曲がり角の陰から男子生徒どうしの言い争う声が響いてきた。耳をすまさなくても聞こえる怒号。驚いたことに、聞こえてきた怒鳴り声は殿坂のものだった。
「テメェら、次にそれを言ったら学園を追い出すからな」
腹の底からドスの効いた、穏やかではない声だ。
よくよく聞いて分かった。言い争っているというよりは、殿坂が相手を一方的に脅かしている。
やっぱり、最低だなと呆れた。
キングなんて呼ばれて、殿坂はすべてが自分の望むようになると思っているんだろう。たとえ頂点に立っていようとも、世界はアルファを中心に回っているわけじゃない。
けれど気分を害して立ち去ろうとした寸前、響は足を止めた。
「二度と特別クラスに近づこうなんて考えるな、あいつはお前らが好き勝手していい人間じゃない」
「け、けどよ、オメガは皆んなのもんだろ?」
「ちっ・・・・・・、あいつの名前はオメガじゃねぇんだよ。今すぐに、その汚ねぇ口を聞けなくしてやろうか?」
他の生徒に対する牽制にも聞こえる。・・・・・・けれど殿坂の言いぶんを聞くと、もしかして自分のために怒ってくれているのか、とも思えてくる。
オメガと言われたら、響以外に該当する生徒はいない。
その時点で、自分の話題であるのは確かだった。
ちょっと待って。はたと気がついた。
クイーンであるオメガの役割はアルファ生徒全般の性処理道具だ。全般と言いつつ、クラウンの主要メンバーに抱かれるのがほとんど。彼らが手を出してこなければ、特にここ最近は声がかからず、クイーンとして求められることもなかった。
そういうもんなんだと思っていたけれど、ちがうのだろうか。でもなんで今さら自分のことを庇ってくれる気になったのか理解できない。
「———う、なんだよ・・・・・・調子くるうな」
着替えの入った紙袋を抱きかかえ、響はカッと身体が熱くなった。
殿坂の体温を知っているから・・・・・・なおさら、先ほどジクジクと潤んだ甘い疼きが、ふたたび下半身に広がっていくのを感じる。
ジュワと尻から何かが溢れる感覚がして、響は「うわぁ!」としゃがみ込んだ。
大きな声を出してしまったと気がついたのは、すぐあと。口を押さえて立ち上がり、逃げるようにその場を離れる。
———ああー、やばい。聞こえてしまったかもしれない。男子トイレの個室に駆け込み、勢いよくドアを閉めた。
響はドアに背中を押し付け、「ハァハァ」と息を乱した。
ホームルームで感じた疼きと重なって、腹の奥が、感じちゃいけない場所がジンジンと熱を持って身体が劣情に蝕まれてゆく。
「は、は、はあ、ああ、・・・・・・や、やだよ」
下半身を見下ろせば、ドロドロに溢れた愛液と先走りが下着と制服に滲みていた。
頭では嫌だと思っているのに、意思とは関係なく手が動いて、ベルトを外し下着をずらす。布地がぬちゃと糸を引き、青臭さと甘く湿った匂いが入り混じって立ち昇り、個室内に充満していく。
響は下着ごとズボンを足首まで下げると、硬く勃起したペニスを擦り上げた。しかしそれだけでは物足りず、片手は後ろに這わせ、とぷとぷと溢れてくる愛液をすくい、くるくると窄まりをいじった。
前の性器をしごく男性的なオナニーはそれなりにするけれど、ここまでするのは初めてだ。
ぎゅっと窄まりを指先で押してみては、離して、指が滑り込んでしまいそうなところで衝動に抗う。
クラウンで抱かれていたときには感じなかったのに、どうしよう、今はこうやって入り口を軽く捏ねているだけで気持ちがいい・・・・・・。
「・・・・・・は、ああ、ンうう・・・・・・うーーー!」
にゅぐにゅぐとペニスをしごく手が速まり、頭がスパークした瞬間、腰が浮いてビクビクと痙攣した。
響は制服のシャツを噛み、懸命に声を殺す。湧くように飛び出した大量の精液が手にかかり、足首に引っかかったズボンにまで飛び散っていた。
———学校でやってしまった。
いつもならそこで嫌悪感に陥るのだが、まだ、まったく疼きが治まっていない。
まずい。これは自分じゃどうしようもできないやつかもしれない。
腹の奥が爛れたみたいに熱くて苦しい。
コワイ・・・・・・タスケテ。
瞼に涙を溜めて、響は胸を喘がせた。
そのとき・・・・・・
「———ッ、すごい匂いだ」
ぞくんっと背中に戦慄が走る。最悪のタイミングで人が来た。
響はなけなしの理性を振り絞った。はやく後処理をして、はやく出て行かなければと身体を動かす。しかしもう、意識がとろんとして・・・・・・難しいことが考えられない。
身体がだるくて、下半身は愛液と精液でぐっしょりと濡れていた。もう誰でもいい、辛すぎる腹の奥の疼きから自分を解き放って欲しかった。
とたん、不意に鼻をついた匂い。
脳天を貫くような、刺激的で甘い香り。
———・・・・・・ニオイ、これがアルファのニオイ?
身体が勝手に興奮を覚え、後ろがじわっと濡れてくる。響はドアを開けると、クンクンと匂いに吸い寄せられて、その人に歩み寄った。
すりりと通りすがりのアルファの首筋に鼻を擦りつけ、胸いっぱいに芳しい匂いを嗅いだ。
鼻腔を通り抜け、脳を侵していくアルファのフェロモン。ふわふわして、クラクラして、この匂いを嗅ぐこと以外はどうでも良くなってゆく。
———俺はたぶんこのアルファのことがすき。ずっと前から知っていたような不思議な心地だ。
生まれたときから身体にインプットされていた愛欲が呼び覚まされる、そんな感覚・・・・・・。
「斎藤・・・・・・?!」
覚えのある声に視線をあげると、マスクをした東城が立ちすくんでいた。
「せんせ。先生だったんだ。とっても、いいニオイだね。せんせ、せんせいが・・・・・・欲しいよぉ」
「・・・・・・ッ、駄目だよ、斎藤。しっかりしろ。とにかくトイレから出たほうがいい」
「やら、行かないで・・・・・・せんせ、東城せんせい」
「大丈夫だよ。おいで」
東城はマスクの上から鼻を腕で押さえ、反対側の手を響にむかって伸ばした。
東城の手をとった瞬間に、グイッと身体が宙に浮き上がり、響は横抱きにされる。力強い腕に抱かれて、響はこれまでの嫌悪感を捨て去り、先生に触れたいと思った。
今、先生はどんな顔をしているの?
・・・・・・見上げた顔は、ぼやけてよく見えない。
響は狂おしいほどの高熱に、意識を手放していた。
その後に目を覚ますと、響は一人で保健室のベッドに寝かされていた。鼻腔を焼くように脳内を侵し、自分の身体を狂わせたアルファ、東城の匂いはもうしない。
・・・・・・はじめてアルファに発情してしまった。自分があんなふうになってしまうなんて思ってもいなくて、恥ずかしくて消えたくなる。
チャリティー祭はどうなっただろう。クラスの出し物は上手くできたのだろうか。着替えをしに行って帰ってこなかった自分を、クラスメイトたちは怒っているに違いない。
様々なことが頭を巡り、心が落ち込む。膝を抱えると、助けてくれた東城の顔が頭に浮かんだ。
———そういえば先生はどこに? お礼と、謝罪をしないといけない・・・・・・。先生のこと、誤解していた。生徒をストーカーする最低の変態教師だと思ってたのに、それは偏った認識だった。
ぼんやりとした記憶だけれど、あのときの血走った先生の目だけは覚えている。発情フェロモンのせいで興奮して、先生自身だって辛かっただろうに、だけど先生はオメガである自分を無理やり手篭めにしたりしなかった。
保健室から席を外しているのも、自分が目覚めたときに気を悪くさせないため? 自分が「近づくな」と言ったから。もしかしたら気を使って、外に出て待っていてくれているのかもしれない。
熱っぽさは完全に消えていないが、響はベッドから起き上がり、ふらふらと出入り口の戸を開けた。
だが廊下で待っていたのは東城ではなかった。保健室の外では殿坂が腕を組んで仁王立ちし、周囲に睨みをきかせていた。
「殿坂・・・・・・?」
声をかけると、殿坂がこちらを向く。
「おう、起きたか。もう大丈夫なのか?」
響は身体を気遣われて咄嗟の返事に詰まった。廊下で盗み聞きした内容が思い浮かび、さらに自分の身に起こった反応を思い出し、恥ずかしくなって返答に迷ってしまう。
「大丈夫・・・・・・ありがとう」
視線を合わせずにそう答えると、思うところがあったのか、殿坂も響とは反対方向に視線を逸らした。
「お前、廊下で俺の話を聞いてただろ」
ぼそっと罪を言い当てられ、響は「ひぐ」と喉を鳴らす。目を何回も瞬きさせ、明らかに挙動不審な行動を見せてしまった。
「やっぱりな」
「ごめん。聞くつもりはなかった」
冷や汗をかきながらチラッと目を向ける。殿坂は瞼を伏せ、何かを考え込んでいた。響は決まりの悪さから話題を変えた。
「・・・・・・そ、それよりさ、なんで殿坂が保健室の前にいたの? まさか追っかけて」
そこまで言うと、いつもの偉そうな口調で「は? ちげぇわ」と馬鹿にされ、むかつくけれど少しだけホッとする。
「あのなぁ、チャリティー祭の日ってめちゃくちゃ忙しいんだよ。本来はお前に構ってる暇なんかないのに。ったくよぉ、俺がここにいんのは頼まれたからだよ」
「頼まれたって・・・・・・東城先生に?」
「ちっ、そうだよ」
なぜか不機嫌そうに言われる。そしてアッと思った瞬間に保健室の中へ連れ戻された。
「わ!」
「暴れんな。お前のフェロモンが香ってないか、しっかり確認しとけとも言われた」
間髪入れずにうなじに顔が寄せられ、ピタッと背中に密着されたまま、数秒間、うなじに鼻先が押し付けられる。
「ううッ・・・・・・」
殿坂がすうっと息を吸い込む感覚に首筋がゾクゾクして、くすぐったくて、胸がどきどきと高鳴った。
頬が熱くなっていくのが、恥ずかしい。気を抜くと変な声が出そうで、奥歯をきつく噛み締めた。
スンと香る、殿坂の匂い。
同じアルファでも、東城から与えられた麻薬みたいに危険な匂いとは違い、もっと穏やかで胸を優しく焦がすような・・・・・・、傍若無人な殿坂の人柄とは余りにもかけ離れた、飴玉みたいな甘く切ない刺激にキュンとする。
「ん? なんだよ、まだ発情してんのか?」
一瞬、ぽかんとした。だが、もぎゅっと股間を握り込まれて驚愕し、響は殿坂を突き飛ばした。
「何すんだよ!? あんたのこと見直して損した!」
「なんだと? もっぺん言ってみろよ」
腹立たしいくらいに上から目線だが、本気ではない言い方だ。ケラケラと笑われて、ふざけて肩を掴まれる。こちらもと応戦し、揉み合っているうちに二人はドサッとベッドに倒れ込んだ。
響が下になり、殿坂に組み敷かれる体勢。
ほんのりと変化した空気に
「・・・・・・するの?」
と尋ねてみる。しかし拍子抜けなほどにあっさりと、殿坂は上から退けた。
「響がしたくないなら、しねぇよ」
思いもよらぬ返答が返ってきて、響は「なにそれ」と呆けてしまった。
ほんとうにこの男から出てきた言葉だろうか。信じられない。
「ンだよ。んな顔してると今すぐぶち犯すぞ」
「げぇ、サイテー」
———もぉ・・・・・・、感心していると、余計なことを言ってくるなぁ。
響はため息をつき、何を考えているか分からない横顔を見つめる。視線に気づくと、殿坂はスッと立ち上がった。
「うそだって、怒んなよ。ほら立て。フェロモンは落ち着いたみたいだし、うちの車で送ってってやる」
そう言い、ガシガシと頭を撫でられる。
うわ、強めの手つきで、けっこう痛い。
でも気持ちよくもなんともないのに、「やめろ」と手を払うのも忘れ、響は殿坂の温もりに身を預けてしまった。
「へぇ、そんな顔もするんだな」
不意に、殿坂がニヤリと笑う。
「なっ、そんな顔ってどんな顔だよ」
ついつい憎まれ口を叩いたけれど、なんだか歯痒い気持ちがする。もう少し甘えていたい。そう思っている自分がいる・・・・・・。
きっとその気持ちが顔に出ていたんだろう、殿坂は急に真剣な表情になり、耳朶と首筋をかすめるように響の後頭部に手のひらを回した。
強引に引き寄せられるかと思ったが、そうしただけ。まるで響からのお許しを待っているみたいだった。
———キス。
響は応えてあげようか迷う。だけどこのときは気まずさが勝ち、響はつっけんどんに「やめてよ」と顔を逸らしてしまった。
機嫌を損ねた殿坂は、舌打ちをする。
けれど怒鳴り散らすことはなくて、クシャクシャと響の髪の毛を掻き回すと、「玄関口で待ってる」と保健室を一足先に出て行った。
「ここで良い、ありがとう」
後部座席から降ろしてもらい、響は殿坂に礼を言った。
「ここ、お前んち?」
「そうだけど? 豪邸じゃなくて悪かったな」
「そんなこと言ってねぇだろ。これって単身用のアパートじゃないの?」
奇妙そうな顔に、殿坂の言いたいことが伝わった。
「家族はいるよ。・・・・・・一緒に暮らしてはいないけど」
続けて何か言ってこようとする口を遮り、響は「また明日」と歩き出した。「おい」と呼びかけられたが聞かず、「送ってくれてありがとう」と背中越しに声を張る。
アパートの鍵を開け、足早に部屋に入ると、しばらく経ってから車の発進音がようやく耳をかすめた。遠くなってゆく音をBGMに、響はベッドに倒れ込んだ
———いっぺんにいろんな変化が起こりすぎて、頭の整理が追いつかない。
心も身体もクタクタで死にそうだ。
ごろりと向きを変え、寝転びながらスマートフォンの画面を点ける。
いつもの調子で眺めていると、殿坂からのメッセージがピコンと表示され、胸の高鳴りがドッと再発した。
響は画面を下向きに置き、胸を抑えた。
自分の知らない感情に、今にも心が押しつぶされそうだった。
◇ ◇ ◇
力関係が明確であるがゆえに、オメガがアルファを恐れて嫌うなんてのはよくある話だろう。
だが、案外ベータ社会では深く知られていなかったりする。アルファとオメガは全人口のごく一部で希少、さらに——栞ノ葉学園が良い例であるが、彼らの生活圏は一つの場所に寄り集まっていることが多く、リアルな日常生活に彼らが紛れている比率は数字で見るよりもずっと少なかった。
その他の平凡な者は彼らとすれ違うことさえ、じつは稀なことなのだ。
響の家はごく一般的なサラリーマンの家庭だった。父が働きに出て、母も夕方までの薬局での事務を。弟と妹が一人ずつおり、響は長男。それなりに良い兄であったと思う。
両親は響が小学生のころに、都心から電車で一時間ほどの郊外に一軒家を建て、上を見ればキリがないけれど、とくに不自由のない幸せな暮らしをさせてもらえていた。
日常の幸せが崩れはじめたのは、響が中学二年——バース性の診断を受けてからだ。
響の家族は父母ともにベータ。祖父祖母、さらにはそれ以前の先祖を遡っても、ベータしかいない家系だった。
ベータの家族の中に唐突に生まれてしまった『オメガ』。
医者によれば、ごく少ない確率で起こり得ることなんだそうだ。
しかしオメガであろうと、家族も友人も響を差別などしなかった。それまでと同じく、「性別なんて関係ない、響は響だよ」とドン底に落ち込む響を支えて、気遣ってくれた。
けれど・・・・・・平凡な中に出現したオメガは、トラブルを引き起こす異質な芽でしかない。自分が『オメガ』であるせいで、周囲の人間に少なからず負担を与えてしまう。
響の通っていた中学では、生徒のバース性は教師のあいだでのみ周知され、イジメを防ぐ目的もあってか、生徒どうしで教え合うことを禁止していた。
大半の生徒がベータであると思い込んでおり、表面上はベータしかいないクラス。必然か偶然か、その狭い世界のなかに、アルファとオメガが揃ってしまった。
ベータに囲まれて生きる響は、二つの性がいかに強く惹かれあってしまうのかをまだ知らず油断していた。
ヒートの経験もなく、オメガである自覚が足りなかったとも言える。
だがアルファの彼は違った。どのように個人情報を手に入れたのか、オメガである響に執着し、レイプ未遂事件が起きた。
ことが起きたのは教室。野次馬で溢れ、アルファの加害生徒はすぐに取り押さえられたが、同時に『オメガ』である響も大多数の前に晒されることとなった。そして騒ぎのあとはどうしてか、呼び出された響の親が学校とアルファ生徒の親に頭を下げていた。
何もかもそうだ。身に起こってみないとわからない。経験してみないとわからない。・・・・・・だから、家族や友人の自分への態度が少しずつ悪辣化していっても仕方がないことだった。
学校側の響への対応も変わり、例えばプールの授業を休まされたり、体育時の着替えを別々にされたり、体調の確認をこまめにさせられたり、騒動後に取り入れられた些細な変化に周囲は戸惑ったのだと思う。
ひと月後あたりには男友達から距離を置かれており、家族からは腫れ物に触るように扱われていた。襲われた原因が響ではないとわかっていても、悪質な言いがかりをつけてくる人もいた。
母だけは変わらずに味方をしてくれたけれど、顔を合わせるたびに、他とは「違う」身体に生んでしまってごめんなさいと涙を流し、これから判別を受ける弟と妹のバース性に頭を悩ませ心を痛めていた。
自分と関わったせいで変わってしまった人たちの姿を見るのがつらくて、高校に進学するのを機に、響は家を出て一人暮らしをはじめた。
ここで静かに暮らし、せめて母だけは悲しませないように生きていこうと思っていた。
そんな折、響は定期検診でオメガの交流会を紹介される。そこで聞いた話はどれも壮絶だった。だいたいが二代、三代に渡ってオメガである場合。もしくはアルファの家族に囲まれて虐げられてきた場合かであった。
アルファとオメガ。ベータとオメガ。社会とオメガ。オメガは誰から見ても、いつだって下の位置にいる。交流会ではどの人も耳を疑ってしまうような不幸を経験していて、オメガ同士で励まし合い、傷を舐め合い、手を取り合って生きていきましょうと、簡単に言えばそんな集まりだった。
響はどうしても居た堪れなかった。
どの話を聞いても、無性に自分とのズレを感じ、『気持ち悪い』としか思えなかったのだ。
オメガに与えられた歪で極端な関係性。自らに当てはまるべきそれらを突きつけられても、どこか遠い異国の話でもされているかのような気分で、オメガのコミュニティの中に自分の居場所は見出せなかった。
結局オメガにもなり切れず、ベータからも外れてしまった響は、独りを選ぶしかなかった。逆に捉えれば気楽。バース性に縛られないで自由に生きていける。響は前向きに考えて、穏やかに過ごそうと決めた。
そしてようやく落ち着いた毎日を取り戻したと思った矢先、中学のときに響を強姦未遂したクラスメイトがわざわざアパートを探し当てて訪ねてきた。謝りにきたんだという彼は、今思えば明らかにおかしかった。
けれど当時はなにも思わずに部屋にあげ、気づけば押し倒されていた。
嫌で、嫌で、たまらなくて。
必死に抵抗したけれど、アルファのそれがあてがわれたときに自分の尻が濡れていると悟ってしまった。
ショックだった。
これかと思った。オメガの気持ちがやっと理解できる。男としての尊厳を奪われ、自分のナカを引き裂いて挿ってくるモノが出入りするたび、ぐちゃぐちゃと粘着音が絡みつき、心が踏み躙られる音がする。
だがそうであると共に、響の中で響を支えていた何かが音を立てて崩れて、また新しい何かができあがった気がした。
オメガはアルファに狂って、彼らとの性行為に悦びを感じてしまうと聞いていた。しかし響が感じていたのは痛みだけで、他には何もない。こうしてアルファとの性交を経験した前と後で自分は何も変わっていない。
それが分かると、自分にまたがってへこへこと腰を振るアルファを、ひどく冷静に見ている自分がいたのだ・・・・・・。
———オメガの心と身体は別々のもの。
クラウンのメンバーに身体を弄ばれるのも、慣れてしまえば大したことじゃない。響にとってはそれよりも、問題を起こさずに、何事もなく高校生活を終えることのほうが大切だった。
逆らえば生意気と言われ、従順でいれば淫乱と呼ばれる。自分は何もしていなくても、アルファを引き寄せ、問題が起きればオメガのせいにされる。
どうあっても負のレッテルを貼られるならば、悩むだけ無意味じゃないか。それなら自分の好きにさせてもらう。
悪いが生粋のオメガじゃない自分は、オメガらしさとは無縁なんだ。抱きたければ勝手にすれば良い。どうとでも好きなように貶せばいい。自分は真に受けないし、傷つかない。言いなりになんて絶対になるはずがない。
なるわけがない。
なのに。
腹の奥底にまだ違和感がある。昼間の熱が下がりきっておらず、寝返りを打つのもしんどかった。
東城からもたらされた煮え滾るような疼きと、殿坂から感じた切ない体温。ケモノじみた顔をして、それでも響の気持ちを一番に考えてくれた二人の優しさが頭から離れない。
ズクンと痛みを覚えた下半身の膨らみに手を伸ばし、一人きりで慰める。
前をしごけばしごくだけ、後ろで熱いものが溢れた。とろりと滑りけを感じて指を這わせてみると、じっとりと濡れたそこは、間違いなく二人のアルファへの想いに反応し、求めるように切なくひくついていた。
やがて熱を吐き出し、しかし治らない疼きに腹をギュッとかき抱く。
———独りぽっちのベッドの上が、いつもよりも寒々しくて寂しく感じるのはなぜ?
響は孤独を紛らわせるために身体を丸め、重たい瞼を閉じて眠りについた。
◇ ◇ ◇
翌日になると熱は下がっており、腹の疼きも治まっていた。
普段どおりに登校をし、そろそろと教室を覗いて様子を伺う。ただでさえ人数が少ないのに、自分が抜けたせいで多大な迷惑をかけてしまったから、まずは謝って、何を言われても低姿勢でいこうと決めた。
クラスメイトは響がオメガだと知っていて、オメガが体調を崩すとなれば理由は一択しかない。オメガのそれに良い印象はもたれない。自己管理の甘さとか、特別扱いされてていいよねとか、心無い言葉をぶつけられるのが普通。
響は緊張しながら教室の敷居をくぐり、口を開いた。
「お、おはよう・・・・・・昨日はすみませんでした」
すでに登校していたクラスメイトの目が一斉に向けられ、俯きがちにもう一度、出来るだけ気持ちを込めて謝罪をする。
「すみませんでした・・・・・・!」
頭を下げたとたん、「響くん」と名前を呼ばれ、昨日メイドの衣装を渡してくれた女子生徒がタタッと駆け寄ってきた。
「響くん! あのあと倒れたんだってね大丈夫だった? 具合が悪かったのに気が付かなくてごめんね」
「え?」
呆然とする。
彼女につられるように、ほかのクラスメイトたちも集まってきて、「無理しなくていいんだよ」と背中をさすってくれた。
「・・・・・・あ、ありがとう。もう平気。昨日の穴埋めしなきゃだし、今日は二人ぶん働くよ」
「そんなの気にしなくていいよ。昨日はね、東城先生が伝えに来てくれて、裏方のお仕事を手伝ってくれたんだよ」
「先生が?」
驚いた声をあげると、壁に貼られたスナップ写真を「これこれ!」指差し、女生徒は友人らと楽しそうに笑う。
「そうそう。先生がいると、女の子のお客さんがめちゃくちゃ増えて、売り上げがすっごく良かったんだよね!」
響は壁に近寄って、スナップ写真を目つめた。
このスナップ写真は気に入った男の子メイドと帰りがけに写真が撮れるという、メイド喫茶でのサービス。
二枚撮ったうちの一枚をお客さんに渡し、もう一枚は記念に壁に貼って飾っているのだ。
その半分くらいを埋め尽くしているのが東城と撮られたスナップ写真だった。両脇から女の子に囲まれて固まっている東城の写真に、思わず「くすっ」と笑みがこぼれる。
自分の抜けた穴までフォローしてくれるなんて、また一つ貸しができてしまった。
響が作ってしまったマイナスを、先生は自身の働きでプラスに変えてくれたのだ。クラスメイトたちの優しさは本物だけど、置かれた状況が悪いなかで人を気遣うのはとても難しい。だから、先生が居なければ、こうはならなかったかもしれない。
・・・・・・アルファのくせしてと、胸が熱くなった。
顔はいいけど実はストーカーだし、———かっこわるい。
かっこわるいけど、今はそこに絆されている。
自分の心境の変化が、東城から香るフェロモンのせいなのかは分からない。それでも、これまでみたいに先生を避けようとは思わなかった。
むしろ今日は、東城と殿坂に会えることを期待して登校した。
———はやく先生に会って謝りたい。それから助けてくれたお礼も言わなきゃいけない。
そう思いながら、響は衣装のはいった紙袋に目を落とした。
「今日は俺もここで着替えていい?」
おずおずと訊ねると、クラスメイトたちは「もちろん」と頷く。
「響くんが嫌じゃなければどうぞ。ほかの男子の着替えを見るより全然いいよ~」
「ちょ、それひどくない?」
女子の指摘に男子の一人が抗議して、クラス中が湧く。響にとっては、なんだか新鮮だった。嫌な意味合いじゃなく、自分が話題の中心にいる。
これに気がつけたのも東城先生のおかげなのかなと嬉しく感じる。
小さな写真の中でぎこちなく笑う東城に見守られ、響はクラスの男子生徒に混ざり、二日目のチャリティー祭の準備をはじめた。
チャリティー祭の日程は三日間。生徒が主役のメインは二日間で、最終日は学園に協賛するお偉い方や企業が催しものを出してくれる。夜には盛大な花火が打ち上がり、華々しい最後を飾る。
運動場を兼ねた大ホールでは、ビショップの加賀美が個展形式で作品を展示しており、初日から人の入りは好調のようだ。
各階に約二~三ずつ各クラスが合同で出店を構え、縁日を模した教室があったり、カジノ風の教室があったり、目にも楽しく賑やかだった。それなりに学園祭らしい雰囲気であるが、お金持ちの学校なだけあり、どれもクオリティが高い。
そして一番の目玉はグラウンドに設置されたステージで行われるダンスやバンドグループによるライブ演奏だ。
学生に入り混じってプロのアーティストが登場し、来園客を熱狂させている。今年はキングである殿坂の家が全面的にバックアップしているため、呼ばれているアーティストの格が昨年とは桁違い。彼らと並んでクラウンがマイクを握れば、ステージ上の熱はさらにあがった。
そのほかにもミスコンやファッションショー、豪華賞品つきのクイズ大会など、テレビ番組顔負けの項目が日程に組まれ、人気アイドルのコンサート並に盛り上がっている。
それらを取り仕切る殿坂の声と、外の歓声がメイド喫茶にまで聞こえてきて、響はウズウズして窓の外を見た。
いいなあ。見に行ってみたい。いつもなら人が集まる場なんて好きじゃないのに、ステージから聞こえてくる殿坂の声に惹かれる。
するとタイミングよく、響に声がかかった。
「斎藤くん、そろそろ客寄せ変われる~?」
客寄せはメイド喫茶の看板をもって、学園校舎内を回る役目。時間は昼を少し過ぎたあたり、ちょうど響が当番の時間になっていた。申し訳ない顔をされながら、響は看板を渡される。
「この時間帯に当番いれちゃってごめんね」
「どうして?」
「午後イチなんて一番人が来る時間だろ? だから斎藤にお願いしたんだけどさ」
首を捻り、「それにしても似合うね」と言われ、そうかと腑に落ちた。来園客の多い時間帯に学園内を練り歩かせて、客を集める作戦だ。
メイド喫茶とはいえ、本気の女装ではない素人レベルのお遊び適度。
あえてウケを狙ってのもので、カツラも被ってないし化粧もしていない。
それで似合うと言われても、少々眉を顰めたいところだが、学園内を見て歩ける絶好の機会に胸を膨らませ、「別にいいよ」と聞き流した。
「時間が終わったら、できるだけ早く戻ってきてくれよぉ」
と送り出され、響は足取り軽く廊下に出る。
———まずは門のところでって言われてるけれど、少しだけなら寄り道してもいいかな?
響は行き先を変え、真っ直ぐにグラウンドに向かった。メイド服の美少年がいきなり現れたので、当然、他生徒と来客の注目を集める。集まった視線に顔を下げ、人混みを歩き、ヒラヒラの膝上スカートとそこから覗いた生足に目が止まった。
体毛が薄く脱毛済みの女性並みにつるつるで、響自身はコンプレックスに感じている己れの足。教室ではクラスメイトの男子が同じ服装をしていたから感覚が麻痺していた。
ステージの輪郭が見えるところまでは来たのに、響はメイド服が恥ずかしくなり立ち止まってしまった。
殿坂はすぐそこのステージ上で頑張っている。彼の立ってるステージが見たかったけれど、メイド服で外を歩くのは予想以上に堪えた。
それに比べ、たくさんの人に注目されて輝いている殿坂はすごい。心の中で彼を褒め称える一方で、響はしゅんと項垂れた。客寄せの仕事にも抵抗が出てきてしまった。
一度、人のいない場所で落ち着こう。響はそう思い、グラウンドに背を向ける。そのとき、響が会いたかったもう一人が視線の端っこをよぎった。
———東城先生・・・・・・っ!
見つけたと同時に、響は駆け寄っていた。教員を示す腕章を腕につけており、学内を巡回しているところだったのだろう、東城は泣きそうな顔で走ってくる響の姿に瞠目した。
「・・・・・・はぁっ、せんせ」
「急に走ってきて、どうしたんだ? まさか、来園客に何かイタズラをされたか?」
「ちがう、なんでもないよ。会えてよかった」
響は喘ぐ胸を押さえながら、東城を見つめた。
「東城先生に昨日のお礼を伝えたかったんです。あと、ごめんなさいってことも。俺は先生にひどいことを言いました。お礼とお詫びをさせてください」
「・・・・・・昨日のことは記憶にあるんだな?」
「あります。だから、お礼とお詫びを!」
響の返答に東城は複雑な表情を浮かべた。
「別に何もいらない。その気持ちだけで嬉しいよ」
「けど、そういうわけには」
響は食い下がる。助けてもらったぶん、何かを返さないとすっきりできない。
すると
「う・・・・・・ん、そうか。 じゃあそうだな・・・・・・斎藤のクラスのメイド喫茶を見に行ってもいいかな?」
と、響の反応を見ながら慎重に口にする。
「そんなんでいいの? いいよ、いつでも来て・・・・・・って、ああっ! 」
大きな声に、東城が肩をビクリとさせた。
「今度はどうした?」
「・・・・・・メイド喫茶の呼び込みしなきゃいけないの、すっかり忘れていました」
「呼び込み? その格好で?」
「そうですよ、当番の時間なんです」
そろそろ覚悟をしなくてはいけない。一人で学園内を回らなくてはいけないと思うと、かなりブルーな気持ちになる。たったの数分で根を上げてしまいそうだったが、クラスの期待に応えたかった。
「一時間で終わるので、それまで待っていてもらえますか?」
そう伝えると、東城は響以上に難しい顔で黙り込んだ。
「・・・・・・斎藤、その呼び込みには先生が一緒に行ってもいいかな?」
その後にきっぱりと「安全のために」と付け足す。
「いいの? ありがとう、先生!」
響は笑顔で返事をする。願ってもない提案だった。東城が一緒にいてくれるなら、周囲からの視線に一人で耐えなくても良くなる。東城はほんのりと耳を染めて、ものすごく嬉しそうにハニカミ、そっと隠すように口元を手で覆った・・・・・・。
それから一時間。時間いっぱい客寄せを行い、無事に当番をやり終え、東城を連れてクラスに戻った。
東城以外の客もかなりの数がくっついてきたせいで、響は戻って早々に休む間なく接客にはいり、注文やらスナップ写真のサービスやらで駆り出され、てんてこまいだった。
東城は一杯だけコーヒーを飲むと、知らないうちに姿を消していた。せっかく来てもらったのに相手ができず残念に思う。
しかし二日目が終了した放課後。
残った後片付けをすべて引き受けて、響は教室に残って作業をしていた。クラスの皆んなから温かい言葉を貰ったおかげで、クラスのために張り切りたくなったのだ。その時間に東城が様子を見に来てくれた。
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