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5,クイーンの甘言1
チャリティー祭の最終日。生徒主催の二日間を終えて、この日の生徒は楽しむ側。登校した際にチラッと覗いただけでも、大人たちの手によって大掛かりな準備がされているのを見ることができた。
だが響は浮き立った雰囲気とは正反対に、座ったまま頬杖をついて、ぼうと船を漕いでいた。
ぽわぽわとしてしまうのは寝不足のせいかもしれない。
昨日は家に帰って気がついたのだが、熱が再発していた。下校途中からなんとなく怠いなとは感じており、けれど放課後のアレの名残りで身体が火照っているのかと思っていた。
響は溜息をつく。
こうも連続して熱が上がると、さすがに身体にこたえる。ふだんの風邪とは違い、熱が上がっているあいだは横になっても息苦しくて、耐えがたい性衝動に悩まされた。何もしなくても下半身が濡れ、勃起し、尻がひくつく。何度も抜いて処理し、なんとか寝つけたものの、朝に目を覚ましたときには疲れ果ててぐったりしていた。
今朝は熱が引いたので、念のために処方されている抑制剤を飲み登校をした。寝不足に加えて、たぶん身体の変化が伴い、とても眠い。眠すぎる。
———これは自分も遂に・・・・・・かなと、響は頭によぎった。
この学園に来てから体調が変化したということは、東城のフェロモンに誘引されているのだ。クラウンで頻繁に抱かれていたことも要因の一つなのだろうか。
次回の定期検診の日取りはいつだったかとスマホを開き、今日からの日数を指折りで数えた。本格的にはじまるヒートに備えて、予約日を早めてもらうように病院に連絡をして、薬を変えてもらわなければいけない。
思っていたよりもスラスラと段取りが頭に浮かぶことに苦笑してしまった。
立ちくらむほどに、目まぐるしい変化だ。
響は唇に触れて、自分で恥ずかしくなる。
運命の力とは、すごい。響の頭は東城でいっぱいだった。
運命の番どうしは説明のつかない引力で互いを引き寄せあっている。東城への好意が明らかに自分の心にも現れ出ていて、響のすべてが彼という存在を欲していると、疑う余地もなかった。
———東城を想ったら、フェロモンが溢れてしまいそう。
じゅわりと孕んだ熱をかき抱き、響はぼんやりと考えた。自分は、どうするべきか。おそらく卒業してからも、番となることを無理強いはされない。
きっとずっと待っていて、しかし自分がそうなりたいと言えば、先生は喜んで番として迎え入れてくれるんだろう。そうなれば、近い将来に先生の子どもを生むの・・・・・・?
正直それでもいいと思う。恐ろしいことで、簡単に思えてしまう。
信じられないことだった。自分は一人で生きていくと決めていたから、オメガとして生きていく人生なんて、予想もできなかったことだ。
だけれど、その未来が幸せかどうかわからないから、決められない。まだ。今の響に確実に思えることは、もっと先生に触れたい。先生を知りたい・・・・・・ということ。
重たい頭で考えごとをしていると、教室の外が騒がしくなった。聞こえてくるのは、色めき立った黄色い歓声だ。
「ひーびーきチャン、迎えにきーたよ!」
ご機嫌な声で呼ばれて廊下を見やる。
「・・・・・・あー、どうしよ」
廊下ではクラウンの豪華面々が勢揃いし、響に向かって手を振っている。殿坂だけは他三名と異なり、ブスッとした顔で腕を組んでいるのは何故だろう。首を捻って見ていると、殿坂は眠そうな響の顔を鋭い目で捉え、片眉をぎゅいんと急角度に吊り上げた。
———うわわっ・・・・・・、響は冷や汗をかく。
不機嫌なキング様は鬼の形相で教室内を歩いてくると、響の机の前で立ち止まった。
「どうした、顔色が悪そうだな」
「ん、うん。ちょっと・・・・・・」
無意味だと分かっているが、発情フェロモンの匂いが気になり、さりげなくうなじを押さえた。殿坂はその仕草に目ざとく気づき、眉を顰めた。
「匂いがいつもより少し濃いな」
殿坂に言い当てられ、血の気がひいた。今朝の自分に言い聞かせてやりたい。熱が下がったからと登校してきたけれど、よく考えればかなり危険な行為だった。昨日も今朝も、誰にも襲われなかったのが幸運だったのだ。
「・・・・・・そうゆうことだよ。だから今日はもう早退する」
楽しみにしていただけに、響は暗い顔で俯いた。
すると殿坂は響に顔を寄せ、耳元で声を落とした。
「これくらいの匂いなら、まだヒートではないよな?」
びっくりしつつも、響は問いかけに答える。
「うん。違うと思う。予兆があるだけ」
「予兆?」
「すごく眠いのと、熱が出る」
「今は、熱は?」
響は「ない」と首を振り、ニッと口角を引き上げた殿坂の顔に目を見開いた。
「じゃあ、行くぞ」
と、おもむろに手を引かれて、きょとんと首を傾げる。
「行くってどこに?」
「最終日の催しをキング様が直々に案内してやるって言ってんだよ。最高に楽しいうちのチャリティー祭を見届けないで卒業するつもりか?」
「・・・・・・そりゃ見に行きたいけど」
無謀すぎる。いつ本格的に発情期が訪れるか分からないのに。冴えない表情をする響に、殿坂はケロッとした顔で笑いかけた。
「何を心配してんだよ。俺と一緒に行動するんだから、大丈夫に決まってんだろ。他のアルファなんて一歩も近づけさせない。あいつらも含めてな」
そう言って、廊下で待っている三人を親指で示す。
「いいの?」
「当たり前だ。てゆーか、もともとそうするつもりだったのに・・・・・・あいつらが勝手にッ」
イライラと舌打ちをする殿坂を呆気に取られて見つめる。ポカンとする響の顔を見て、殿坂がふっと息を吐き、おもむろに響に手を伸ばした。
「・・・・・・ま、もう、あいつらのことはどうでもいいや。で、どーする。俺と一緒に行くか? 帰るか?」
おとがいを撫でられながら訊ねられて、固唾をのんでいた生徒たちからどよめきが湧いた。きゃあと喜ぶ女子。歓声がうるさく鼓膜を打つなか、響は「行く」と返事をしていた。
こうして教室から拉致され、何度忠告しても着いてこようとするクラウンメンバーを振り切り、やっと二人きりになれたあと、殿坂は一番最初に響の身体を心配してくれた。
「少しでも具合が悪くなったら、すぐ言えよ?」
これがおかしくて、響は笑う
「・・・・・・うん、ふっ、わかった」
「なに笑ってんだよ」
「だって」
こちらを見つめてくる王様はたいそう不服そうだが、「これまでの自分の言動を思い返してみろ」と言うと、押しだまった。
「ちっ、何度も謝ってんだろうが。・・・・・・それによ、だから、ほら・・・・・・今日はそのお詫びをしてやる」
偉そうな口ぶりにしてはなんとも歯切れが悪くて、響は揶揄うように言う。
「言い慣れてない言葉すぎて口が絡まってるよ?」
「・・・・・・うっせ」
「あ、待って、ごめん」
機嫌を損ねて、スタスタと歩いて行ってしまった殿坂を追いかける。そして二人でグラウンドに出ると、最終日の設営はとっくに済んであった。
「すご、すごすぎ」
そこにあったのは『移動遊園地』に『移動動物園』。思わず語彙力が消し飛んでしまうほど、ものの見事に学園がテーマパークへと様変わりしている。
右を見れば観覧車とメリーゴーランドなどのアトラクションがあり、左を見ればアルパカやポニー、鳥、小動物の囲いが見える。二つの中間には食べ物を売るワゴンとキッチンカーが集められ、飲食のできるスペースと風船を持った着ぐるみマスコットまで揃えられていた。
「ど、どうしよ。どこから行こう」
響は年甲斐もなく胸が躍った。けれどちょうど真後ろの学園校舎から歩いて出てきたのが、自分たち二人だけであったのを不審に思った。開始予定時刻まで、まだ時間があっただろうか?
「なぁ、そういえば他の生徒は?」
「心配すんな、今の時間は貸し切りにした」
「っ、どうやって?!」
自信満々に言い切られ、ギョッとする。
「あ? べつに貸し切りにするって学園長に言っただけ。響が満足するまで・・・・・・」
余りの感覚の違いに響は焦り、「いい、やめて」と彼の言葉を止めた。殿坂はそのような自己中心的なやり方が、一般論では横暴と言うんだとまったく気が付いていない。
「すごく嬉しい。嬉しいけど、そこまでしなくていいよ。これはチャリティー祭のために設置されたものでしょ? 駄目だよ、独り占めしたら。皆んなが楽しみに待ってるんだからさ。せっかくお祭りなんだし、皆んなが楽しんでる雰囲気の中で俺も楽しみたい」
案の定、殿坂は雷に打たれたように目を丸くし、頭を掻いた。
「あ——・・・・・・。そうか、ごめん、間違えたわ」
あれ? 悔しまぎれに言い返してくるかと思ったが、いつになく素直だ。傲慢の二文字を捨てたキングのしょぼんとする顔が可愛くて、響は珍しく優しい口調になる。
「まずは学園長に伝えに行こう?」
深い意味はなかった。迷子を誘導するみたいな気持ちで手を差し伸べると、殿坂は仕方ねぇなと言いながら手を取り、やんわりと顔を赤らめて握り込んできた。
———なんだ、その反応。
喜びという感情を具現化させ、自分にむかって尻尾を振る王様が頭に思い浮かぶ。それはそれで、めちゃくちゃ悪くない。響は悦に浸り、良い気分のままグラウンドをUターンして校舎内に戻った。
そんな流れで手を繋ぐことになり、学園長室へ行き、部屋を出たあとも、殿坂は自然に響の手を握り離さなかった。学園長にことを伝えてすぐ、生徒たちへ最終日解禁の放送がなされたために、さっきまでとはわけが違う。待ちに待ったお楽しみに廊下はごった返し、たくさんの生徒が行き交う中で、手を繋いで歩かなければならないのだ。
キングの殿坂とオメガでクイーンの響が恋人のようにして歩いていれば、誰だって視線を向けて注目する。
「・・・・・・ちょっと、もうよくないかなコレ」
響は繋がれた手を持ち上げて、小声で伝えた。
「なんで?」
「えぇ、なんでって」
離してくれる気のない返事が返ってきて、困り果てる。最初は見たことのない顔を見せられて意地らしいなんて思ってしまったけれど、今になって後悔が込み上げた。ほんのちょっぴり思いやりや可愛げがあったって、基本はキングのアルファ様。それを忘れてはいけなかった。
この男は、気に入ったオモチャに噛み付いたら飽きるまで離さない大型犬で、自分はそのオモチャ。文句を言う口もなく、噛まれて振り回されるしかないモノ。
げんなりした顔をすると、さっそく、ヒューヒューとどこぞの外国人だよと思うおちょくりが入った。はやし立てているのは、学園内で上位層についている生徒たちなのだろう。たぶんアルファで、殿坂は手を上げて、彼らの口笛に応える。
「ねぇ、やっぱり恥ずかしいから・・・・・・」
「いいんだよ。これが一番お前を守れる」
ここまで言っても聞き入れてくれないのか。響は目を伏せ、それからパッと顔を上げた。
「今、なんて言ったの?」
さらりと耳に入ってきたが、激しく胸を打つ言葉だった。
「あ? 俺のもんだってアピールしとけば、響に近寄ろうとするアホも居なくなるだろ?」
面倒くさそうな声は照れ隠しだろうか、・・・・・・聞いた瞬間、そう感じとった自分に頭も胸も打ち抜かれた。衝撃に眩暈を覚え、頭が混乱してくる。
照れるって、———どうして照れる必要があるのか。
「わかったら、もうちょっと楽しそうな顔をしろ」
ぼけっとしていると、耳元で囁かれる。
「わっ、・・・・・・ちょ、だめ」
響の耳朶が、じわっと真っ赤に染まった。百パーセント東城で埋まっていた心に、割り込んでくる新たな熱。響は耳を空いた手でギュッと押さえ、心臓が加速し息が上がっていくのを密かに感じた。
その後、鉄壁のガードに守られ・・・・・・楽しい一日となるはずが、響は荒ぶる鼓動と戦っていた。今はウサギを膝に乗せ、癒されなきゃいけない場面なのに。
さすがに両手を使うときには手を解いてくれたけれど、やたらと距離感が近い。殿坂は片時も離れずに寄り添い、響にむかって笑いかけた飼育員の女性にまで無言の圧をかけていた。
たまらず「殿坂ってこんな性格だったっけ・・・・・・?」と首を捻りたくなる。響はドクドクする胸を落ち着けたくて、深く溜息をついた。
「んだよ。うさぎは微妙だったか?」
「そうじゃないけど」
それだけではないのだ。
あれやこれやとキングの顔を振り翳し、アトラクションに乗りたいと言えば、行列の一番前に平然と割り込み、腹が減ったと言えば、手当たり次第の出店で食べきれない量のメニューを最優先に作らせようとしたり。
お詫びだからと断りきれずに付き合っているが、ウサギのいる囲いのなかでも隠すように最も奥に座らされて、殿坂の吟味した毛艶のよい子を強制的に抱かされてしまった。ウサギに罪はないし可愛いんだけど、一般客の子どもと張り合って横取りしてくるのはいただけないな・・・・・・。飼育員の顔はにこにこしているのに、目が笑っていない。
それに殿坂の連れであるからと共に王様待遇をしてもらっても、慣れないサービスはもはや身体に毒。さすがに気疲れしてきた。
響はウサギを抱いて立ち上がると、別のウサギと戯れている子どものもとに歩み寄った。殿坂はSPよろしく背後を着いてくる。
「響!」
殿坂の声を無視して、響はかがみ込みウサギをその子の前に下ろした。
「ねえキミ。ごめんね」
ウサギを見ると、子どもは「あっ」と声を上げて、首を傾げた。
「後ろのお兄ちゃんが怖い顔しない?」
泣きそうな顔で背後を見るので、その子の前で殿坂にひと睨みきかせてやり、にっこりと笑う。
「大丈夫。いま俺が怒ったから、もうしないよ」
「うん! ありがとう」
子どもは目を輝かせ、自らの身体の三分の一ほどはある大型のウサギを重そうに持ち上げて、大切に抱きかかえた。もふもふと子どもがセットでいると癒される。嬉しそうに母親に見せに行く姿を手を振って見送り、響は殿坂の腕を引いた。
「もう充分楽しめたから、教室に戻りたい」
オブラートに包んで言ったせいか、殿坂にはまるで伝わらなかった。
「でもまだ回りきれてないぞ」
憮然とした態度をされ、今度はハッキリと言ってやろうと口を開く。
「いいかげんに疲れたから休みたいって言ってんのっ」
勢いよく言ってしまうと、身体がそれに合わせて動いた。響はウサギのいる囲いを出て、スタスタと足早に校舎に向かった。
このままダッシュで教室まで逃げ帰ろう。それから担任に事情を話して、今日は早退をさせてもらう。
「待て、響!」
「あー、うるさいなぁ」
追いかけてくる声に耳を塞ぎ、急いだ。だが学園校舎の昇降口に入ったところで、響はいったん立ち止まる。
靴を履き替えるためというのもあるが、ひどく呼吸が乱れていたからだ。早鐘のように鳴る心臓が早歩きをしているせいなのか、殿坂に対して感じているのか、分からなくなってきた。
「・・・・・・響っ!」
殿坂がそこに追いつき、姿を見せた途端くっと眉を顰める。響のフェロモンが強く匂っていると、一目瞭然の表情だ。
もしかしたら性的な理由じゃなくとも運動をして体温が上昇したり、身体が興奮状態になると、汗をかくのと一緒で匂いが濃くなってしまう、とか・・・・・・都合よくそう解釈をしたいが違うのだろう。殿坂はジリジリと響に近づき、今朝同様『嬉しい』の尻尾を振るみたいに、熱に浮かされた瞳で響を見下ろす。
「響、お前、俺にも反応してる?」
「・・・・・・は、はあ? そんなわけないじゃん」
響は強がって、否定した。これだけ気持ちがかき乱されていれば、可能性はゼロじゃない。
また頭が混乱してきた。今日、半日。殿坂が曲がりなりにも自分を喜ばせるために行動しているのは、見ていれば伝わった。一生懸命で、彼のその気持ち自体は心地が良かった。
自分は殿坂の示してくれる変化を、好ましく思っているのだろうか。
キングにそうさせているという優越感ではなく、恋愛感情としての意味で・・・・・・。だから身体が反応するの?
彼の『嬉しい』や『優しさ』を感じるたびに腹の奥が熱を帯び、キュンと疼き出してしまうのをそろそろ無視できなくなってきた。でも殿坂相手に自分が発情しかけてるなんて気づかれたくない。
「嘘つくなよ、どんどん濃くなってる。俺といるあいだに濃くなった」
確信的な言い方をして、殿坂は距離を詰めてくる。
「あ・・・・・・まって、近づかないで、だめ」
東城には運命の番の匂いに反応して身体がおかしくなってしまうけれど、殿坂に対しては感情が最初の引き金になった覚えがある。すでに心臓は爆発寸前で、息も熱も上がってるのに、ここでさらにアルファの匂いを嗅いだら、きっと東城とのときみたいに止められなくなる。
響は一瞬、職員ルームに逃げ込もうかと考え、そちらに視線を向けた。昇降口から特別教室に向かうより、そっちの方が近い。誰かしらが待機しているはずだし、得てすれば東城が保護してくれるだろう。
「・・・・・・響」
懇願するみたいに殿坂の声が搾り出され、ハッとして彼を見た。
「俺にチャンスはない?」
「どうゆう意味・・・・・・」
言われた言葉が呑み込めない。
「響は東城と運命の番なんだろ」
響は目を瞠る。何で知っているのかという顔をすると、殿坂は「わかるよ」と悔しそうにこぼした。
「俺には感じない匂いを感じていて、俺には起こさなかったヒートを起こした。それで確定だろ。でも響が俺にも発情してくれるなら・・・・・」
「ま、まってよ。どうして、そんなことを言うの?」
「そんなの決まってるだろっ。俺だって響が好きなんだよ」
そう言い、切ない顔をする。
「・・・・・・なんで」
響はよろよろとお腹を抑えて、座り込んだ。殿坂を見上げると、きつく歯を食いしばり、限界の限界まで「待て」をさせられたケモノのような顔で響を見ている。
殿坂からの告白が、ゆらゆらと脳内を泳ぐ。
頭を精一杯働かせても駄目だった。座り込んでしまったことで、抑え込んでいた身体のだるさが一気に押し寄せる。身体中が、ぐつぐつと疼いて止まない。尻の下ではべっとりと下着が粘ついていて、響が身じろぎするとクチュと小さく音が鳴った。
東城といい、殿坂といい、そこまで抱きたいと思うなら、さっさと連れていけばいいのに。
しなくてもいい我慢をアルファがするから、オメガの自分が焦ったくてたまらなくなっちゃうんじゃないか。
「あー、も、ばか・・・・・・、今はそんなの考えられないよぉ。お腹が・・・・・・ジンジンして・・・・・・熱いッ・・・・・・先にこれを何とかしてよぉ」
響がすがった瞬間、殿坂の瞳孔が大きく開く。
「それは、・・・・・・ちっ、あとで後悔するなよ?」
「しないからっ、もう何でもいいから連れて行って———」
グラウンドの弾んだ声に陽が高い時間の青空。昼下がりの屋上に吹き抜けていく風が汗ばんだ肌を気持ちよく煽る。
座り込んだ姿勢でグラウンドを見やれば、転落防止柵のブロック部分に、一番高い小型観覧車のてっぺんがぎりぎり隠されている。あと頭一つぶん腰を浮かせば、その全容が見渡せる場所。階段を上がってすぐの壁に殿坂が胡座をかいて背をもたれ、響は足の上に跨るようにして膝をつき、深く口付けられていた。
何度もついばみ、角度を変えて唇を重ねる。下唇を舐められて、ゾクゾクしながら口を開けば、殿坂の舌で口の中がいっぱいになった。舌先が喉奥まで入ってくると、上顎を舐め上げて、くすぐってくる。
「ン、あ、・・・・・・は、あ」
甘がゆい感覚に舌が浮いた。彷徨った響の舌を拾い、殿坂は唾液を絡ませて軽く歯を立てる。ジュッと音を立てて吸われて、響は自分の吐いた息まで食べられているみたいな錯覚を覚えた。
「——ん、ふ、あ・・・・・・はあ。なんで、ここに連れて来たの?」
息つぎのあいまに、響は訊ねる。熱で惚けた脳に、グラウンドからの声がエコーがかったように聞こえ、少しだけ気が削がれる。
「ん? だれも来ないから」
以前の響ならここで抱くと言われたら、嫌味な顔の一つでもしていただろう。
自分を見つめる視線。わずかな理性をかき消して、身体の芯が沸騰してくる。そうなると、雑音の存在は頭からなくなっていた。
「生徒会室がよかった?」
そっと訊ね返しながら、殿坂は響の胸のささやかな尖りを制服の上から親指で擦った。
「アッ・・・・・・ん、それは、いや・・・・・・」
普段でも感じそうなくらいの摩擦なのに、ぴりぴりと淡い痺れが幾度となく乳首に流れて、上手く答えられない。
「響?」
殿坂は頬や首に降らせていたキスを中断して、唇を胸元に寄せる。シャツは脱がさないまま、息を吹きかけられて、響は「ひゃん」と腰を跳ねさせた。
「ははっ、ひゃんって・・・・・・」
「うっ、うるさ」
乳首に殿坂の唇がかすっただけで、これでもかと声が出る。ビクビクとアホみたいに跳ねる自分を面白おかしく見ているんだろうなと響は思っていたが、殿坂は興奮気味に乳首へきつく吸いついた。
「やんッ、ア、ああっ!」
「お前って、そんなに感度よかったっけ」
「知らな・・・・・・」
シャツに張り付き立ち上がった乳首をしならせた舌先で優しく弾かれ、反対側には下から手が入り込む。直接摘んで転がされて、響は身をよじった。
「・・・・・・ああっ・・・・・・う、う」
殿坂は腰に片手を回し、響が身体を引かないように押さえている。動けない体勢で敏感になった胸を甘くいじめられて、響は濡れた自身の下半身を殿坂のそこに擦り付けてしまっていた。
びちゃびちゃに湿った後孔とペニスの先走りが殿坂の制服まで滲みをつくり、腰をゆすると、オメガの発情フェロモンが匂い立つのが自分でもわかる。
「おねが・・・・・・こっち」
殿坂の首に抱きつき、喘ぎながら響は切願した。東城には抱いてもらえなかったから、ひくひくと後ろが疼く。アルファの性に貫かれることを望み、自身のナカで耐えがたい熱が溜まる一方だった。
男の首に腕を絡め、ねだっている自分に惨めさも感じるが、どうしようもない。オメガ性に目覚めてから、響の蜜孔はきちんと愛されていなかった。
「・・・・・・俺もやばいから煽るな」
殿坂はフーフーと唸りながら、唇を噛んだ。
耳にかかる殿坂の息も熱い。制服のズボンを下げられ、尻の方から手が差し込まれた。双璧の狭間を殿坂の指が伝い、触られたかった場所にようやく刺激が与えられる。
「はう・・・・・・」
自分で触れるのとは違い、殿坂は窄まりのひだをくるくると撫で、躊躇なくツプンと指を滑り込ませた。ぐずぐずに溶けた孔はキュッと殿坂の指を締め付け、殿坂は狭まった入り口を拓くようにして、ねっとりと愛液を指にからませる。
「すげぇ、どろどろ」
恥ずかしい言葉を吐かれても、内側を触られる感覚に絶えず背中が粟立ち、吐息がこぼれた。
「ふう、う、ふ・・・・・・は、あ」
指は二本に増えて、さらに奥へと進む。身体をつなげるのも、指で慣らされるのもはじめてじゃない。だが、知ったはずのところが今日は別の生き物に変わったみたいに思えてならなかった。
———気持ちいい。気持ちが良すぎて意識がトびそう。
内壁を擦る指がナカで動き回り、グリグリと目いっぱい拡げられる。指を根元まで咥えたとき、指が一点を探りあて、ナカで折り曲げられた。腹側に押し込まれたとたん、前の性器から先走りがどろりと溢れた。
「んッ、あっ、ああっ!」
響が感じたのを見て取ると、殿坂は重点的に指を押し当てて震わせる。
「やあっ、ああああっ!」
火花が散り、頭が真っ白になっていく。後から後から溢れ出てくる快感に瞼が震えた。それだけでイキそうなのに、殿坂は響のペニスを握り、後ろの刺激に合わせて擦り上げてくる。
「え・・・・・・やアッ、あ、一緒・・・・・・むり、はなしてぇっ!」
ぬちぬちと扱かれ、追い立てられるように射精感が込み上げる。ナカからも性器の裏側あたりを刺激され続け、腹の奥底から激しい快感が湧き上がった。
「アッ、い、いく・・・・・・ッう、ううっ!」
足をガクガクと痙攣させ、響は精液を吹き上げて果てた。手を後ろにつき、腰を前方に突き出す格好ですべてを晒し、びゅるびゅると白濁を飛ばしてしまった。
指が抜かれると、震えたままの蜜孔に、雄の切っ先があてがわれる。大きく張ったエラで窄まりを撫でられ、
「いいな?」
と、殿坂は眉根を寄せて問いかける。
「———ん、はやく・・・・・・」
期待に蜜がまた溢れた。挿れてほしい。早く。空いてしまったナカがもどかしくて、響はこくりと頷いた。
ぎりっと食い締められた殿坂の歯がきしむ。
「・・・・・・く、盛ってるアルファにそんなこと言ったらダメだろ」
噛みつかれそうな顔で言ったかと思えば、ズクンと張り詰めた先端がナカに押し込まれた。乱暴で性急な動き。でも今はそれさえも気持ちがいい。
「・・・・・・は、ああ、んああ———」
突き上げられながら、奥へ奥へと押し込まれると、粘膜と逞しい雄が密着して擦れているのがわかる。苦しいほどの快感が伝わって、力が入りつま先が丸まってしまう。
「響、力ぬけ」
「・・・・・・あ、あ、ん、できない・・・・・・ッ」
力を抜いたら、全部が弾けてしまいそうで怖かった。
殿坂は「ちっ」と舌打ちをして律動をはじめ、強引にナカを割り開きながら、太い肉杭で何度も内壁を捏ね回す。じゅぶ、じゅぷと愛液が絡みついて入り口で泡立ち、ひりつくような熱が引き寄せられては押し戻される感覚に響はわけもわからず喘いだ。
角度を変えられ、腹側のいいところを擦られると、自分でも聞いたことのない蕩けた声しかでなくなる。
———いい・・・・・・すごくいい。
殿坂は響の身体を抱きしめ、ナカを深くを抉った。腹の奥で感じると、スイッチが入ったように涙があふれる。フラついた腰を掴んで穿たれ、響は背中を弓形に反らせた。
「はあ、う・・・・・・は、あ、あ、———ッッ!」
本来なら男の身体にはない、子を成すための特別なところ。殿坂のモノはそのぎりぎりまで届いて、ぐに、ぐに、と閉じた口を押し上げてくる。
前回クラウンで抱かれたのはいつだっただろう。そのときは内臓を殴打されるイメージしかなかったけれど、そこを押し上げられると、きゅうんと切ない疼きが爆ぜたように全体に波状していった。
耐えられないくらいの快感が腰に広がり、力が抜ける。
薄く濁った精液をこぼし、響はくたっと殿坂の胸に体重を預けた。
「響、もうちょっと、頑張って」
興奮した低い声で囁かれ、ぐるんと向きを変えられる。そのまま床にうつ伏せに寝かされ、殿坂は最奥までガツガツと穿ってくる。
「ひ、ん、アッ、ああ———!」
背中に覆いかぶさってくると腕が前に伸び、殿坂が乳首をつまむ。クニクニと乳首を転がされて突き上げられ、手繰り寄せられた熱が膨れ上がり、響は泣きながら喘いだ。
「だめ、だめっ・・・・・・」
押しつぶされるくらいに激しい腰づかいに、響の蜜孔は甘く達し続けていた。下半身が痺れて、抉ってくる熱い塊の動きだけがダイレクトに腹に届く。
最奥の壁を貫く勢いで叩かれた瞬間、響は悲鳴を上げた。響の絶頂にあわせて隘路が収縮し、ナカで暴れていた殿坂の逞しい性器が動きを止める。
「・・・・・・っ、俺を、選べよ・・・・・・響」
殿坂が囁くと、どくんと、腹の中に温かいものが広がった・・・・・・。
「あ・・・・・・、ン、あ———」
自身のナカで熱く脈動するものを、響は腹の上から押さえた。殿坂が腰をゆるゆると動かし、吐き出された精液が満遍なくナカを充たす。悩ましかった腹の疼きが薄まって、酷使した下半身の怠さだけが余韻として響の身体に残る。
殿坂は後ろから響を抱きしめて、しばらく退こうとしなかった。うなじに顔を埋めて、殿坂が息を吐く。重なり合った肌は火照り、汗の匂いに混ざって互いのフェロモンが香る。
「殿坂、退いてよ。重たい」
そう言ったが、殿坂は何も答えず動いてくれなかった。
「・・・・・・もう」
響は腰を捻り、殿坂の頭を抱く。
うやむやになってしまった殿坂からの告白と、「俺を選べ」という呟きが、はっきりと頭で反芻される。殿坂の声も態度も、本気だった。自分はどうだろう? と響は思う。彼への想いはホンモノかな・・・・・・。バース性に流されているだけじゃないのか。でもそれを言うなら、東城だって同じ。
けれども身体はどちらにも惹かれて反応してしまう。
掻き乱される、心もだ。この心の反応は偽りじゃない。
東城との運命も、殿坂の想いも、どちらも拒めない。だけど番は一人しかなれないから、・・・・・・選ばなきゃいけない。
響は黙って額を寄せてくる殿坂の姿に、ジンと胸が痛んだ。
———日が落ちて、いつもならすっかり下校時間を過ぎている。校舎内で時間をつぶしていた生徒たちや教師がグラウンドに集合し、チャリティー祭の最後を飾る花火が打ち上げられるのを待っていた。
二人はこっそりと生徒の集団の中に戻ったが、目立つ殿坂はさっそく目をつけられた。
「いたいたー!」
クラウンの三人に見つかり、風間がおーいと元気よく手を振る。取り巻きのポーンたちに囲まれて、スタイルが良くオーラのある三人の周りだけが華やかだ。
「・・・・・・うわ、うざ」
殿坂はあからさまに目を逸らした。
「響は絶対に俺の後ろにいろよ」
低いトーンで言われ、響きは頷く。殿坂との行為で発情は治っているが、念のためにフェロモンを警戒しているのだろう。庇ってくれる殿坂の背中に隠れ、三人が近づいてくるのを見つめた。
「どこに行ってたの? グラウンドでも見かけなかったから帰っちゃったのかと思った」
風間は響をチラ見し、殿坂を小突いた。
「べつに、人混みに疲れたから教室で休んでただけ」
ぶっきらぼうに答え、殿坂が響の肩を抱く。
「俺らはあっちで見るから、着いてくんなよ?」
「あ、ずるい! 柊生ばっかり響ちゃんを独り占めしてっ」
口を尖らせた風間に「知らね」と一瞥をくれ、「行くぞ」と響に声がかかった。肩を抱かれて方向転換をすると、「待って、待って」と引き留められて、殿坂が眉根を寄せた。
「んだよ! しつけ———・・・・・・」
別の何かに気を取られ、殿坂の声は途中で消える。
「チッ」
続けて激しく舌打ちを鳴らした。
「響、来い。はやく!」
「なに?!」
殿坂は焦り、抱いた響の肩を促した。しかし、一歩遅かった。
「やぁ、斎藤 響くんだね。会いたかったよ」
別の声で名前を呼ばれたことに響は振り返る。クラウンの輪の中から車椅子を押した男性が歩いてくるのが見え、首を傾げた。
「だれ・・・・・・?」
「俺の兄貴」
殿坂が男を睨みつける。
「兄?」
響は目を丸くした。
殿坂の兄だというだけあり、似通った面影は感じられる。
・・・・・・雰囲気は正反対だ。派手な金髪で制服を着崩し、荒っぽい見た目の弟と違い、兄の方は髪もスーツも整えられ、高級志向が強そうな上層階級の大人の男性という印象が強い。
殿坂の兄は「はじめまして、黎一です」と穏やかに名乗り、響に手を差し出した。マネキンが笑っているみたいな笑顔はクセがなくて、よく言えば嫌味がない。悪く言えば感情がこもっていない。響は握手に応じたが、手を握られた際に上から下まで目を細めて見られ、不快感を覚えた。
「いつまで握ってんだよ。手を離せよ」
殿坂が吠えると、黎一は肩をすくめる。
「いいじゃないか少しくらい。柊生のものってわけじゃないのに・・・・・・うん? もしかして、そうなのかい?」
やるじゃないかと、弟が怒りそうなことをあえて選んで言っているのが読み取れる。響はぴりぴりした空気に挟まれ、助けを求めてきょろきょろとしているうちに、車椅子にのっている人物に視線が留まった。
———男の人・・・・・・だよね。
響が迷うのも無理がなかった。立ち上がれば身長や体格が明確になって、もう少し違ったのかもしれないけれど、素肌を隠した服装のせいで、線の細い首筋と痩せた顎ラインばかりに目がいく。
無機質でありながら影があり、他にはない独特の色気を醸し出している、中世的な美しさをもつ彼に響は見惚れた。
いくら見ていても、彼は目を伏せて人形のように座り、世の中の出来事に興味を示さない。
立っているだけでじっとりと汗ばむ気候のなかで、この人は別の時間を生きているんだろうかと、響は思った。柔らかそうな栗色の髪は鎖骨あたりまで伸ばされていて、不健康で青白いくらいの肌は、太陽の出ている時間であれば光に溶けてなくなってしまいそうに見えた。
「純さんも来たんだ。こんばんは」
殿坂が彼の前にしゃがみ込む。彼の名前は純と言うようだ。そしてびっくりするほど優しい声で声をかけた。
「花火を見にきてくれたの?」
兄とは敬遠の仲なのに、兄の連れてきた車椅子の純に対しては、にっこりと微笑む。
純はかすかに首を動かしたが、夢うつつな瞳は焦点が定まっておらず、殿坂の目線を捉えることなく逸らされた。
無視をされても殿坂は意に介さない様子だ。むしろ反応が返ってこないのを知っていたのか、声をかけたのみで立ち上がった。
「連れ出してきて、大丈夫なのかよ」
殿坂は黎一の隣で声を潜める。
「ああ。今日は顔色が良さそうだったから。たまには病院の外に出してやらないとな」
「そうじゃなくて、ここに来るのは・・・・・・辛いんじゃないのかってことだよ」
黎一は「大丈夫だろう」と言い、平然と笑った。
「きっとどこにいるのかも、分かっていない」
兄弟の会話を響は不思議に思い、安易に聞いていい雰囲気ではないと察した。
「純、もうすぐ花火が始まる時間だぞ」
まるで言葉が理解できない赤ん坊に言い聞かせるように、黎一は純の頭を撫でた。純は黎一の声だけには少しだけ微笑んで見える。不穏な会話だったわりには、黎一と純の間柄は悪くなく映った。
「どうした響」
「・・・・・・ん、ううん」
響は眉を潜めた殿坂に首を横に振る。
黎一の時計は正確で、ちょうど花火開始のアナウンスが入った。
演出の一環であるのか、すべての照明が落とされ、周囲は一時的に真っ暗になった。舞台やなんかと同じで、明かりが消える瞬間には無意識に胸が沸き立ってしてしまうもの。
普段は不躾に騒がない学園の生徒たちも例外じゃない。
ヒソヒソとお喋りし合う声は嬉々としていて朗らかだった。
「響、今日はちゃんと楽しかったか?」
訊ねられて見ると、殿坂は夜空を見つめていた。
響も夜空に視線を戻して、ぽつりと答える。
「うん。楽しかった」
「そうか。良かった」
殿坂は笑い、同時に花火が夜空に上がった。
ドン、ドン、ヒュルルー。
お馴染みの音が鼓膜を揺らし、鮮やかな大輪の花が真っ黒なキャンバスに咲き誇った。
フィナーレの花火は曲のイメージにあわせて次々と打ち上げられ、丸く模した古典的なカタチ、すだれ状の花火のカーテン、変わり種のハートや星など、種類が豊富。目に飽きないで見ていられる。
花火の途中、響は明るく照らされた周囲を密やかに見回した。東城の顔を生徒の群れの中に見つけ出し、花火よりもそちらに気を取られる。東城は別の教師と会話をしていたけれど、響の視線に気がつくと、眉尻を下げてはにかんだ。
その瞬間、響はきゅっと口を結び、たしかに高鳴った胸を押さえた。
じわっと赤く染まった頬を隣の殿坂から隠したくて、響は俯いた。でも、たぶん・・・・・・と思いがよぎる。漏れでたフェロモンを逞しい嗅覚で嗅ぎ取り、殿坂は必ずこっちを向く。
それから響はこうも思った。
———東城はまだ自分を見ているだろうか。自分を見つめる殿坂を、見ているだろうか。・・・・・・殿坂はそれに気がつくだろうか。
じわっと、今度は腹の奥が濡れる。響は「はあっ」と息を吐き、頭を振ってしたたかな妄想を振り切った。
———今は花火を純粋に楽しもう。
そうして顔を上げる直前、響はまったく違う視線を感じた。熱じゃなく、冷たい。ひんやりした、けれど敵意ではない・・・・・・冷めた視線。
視線の主を探して、息を呑む。車椅子から、純が響を見つめていた。目が合うか合わないかで純は視線を逸らし、車椅子の上で糸の切れた人形に戻る。
先ほどまでの抜け殻の姿に、響は首を捻った。
どう考えても、見間違いとしか思えない。その後に響は幾度も覗いてみたが、車椅子の彼は呆けた顔で虚を眺めているだけだった。
チャリティー祭を終え、夏が過ぎ、秋を迎えていた。
世間では大学受験を間近に控えた季節である。だが学園内は静かで平和。神経を尖らせているはずの三年生でさえ、涼しい顔で生活を送っている。
こと受験においても栞ノ葉学園は特殊。進学を希望する生徒はエスカレーター式の大学へ進むか、学園が大幅に持っている他大学への推薦枠を使うため、全生徒が受験ムードとは無縁だった。
そんなゆったりとした時間の中で、響が花火の夜にかすかに感じた違和感はいつのまにか忘れ去られていた。何事もない穏やかな日々を過ごし、殿坂と東城への想いには結論を出せずにいるけれど、変わったことはいくつかあった。
まずひとつ、響がクラウンメンバーに抱かれることは完全になくなった。殿坂が直々に目を光らせており、響に手を出す生徒は今やいない。
それからふたつ目は東城との距離———。
「・・・・・・斎藤が希望している大学はまだ推薦枠が空いていたぞ。あとは、こっちも希望に近い。斎藤の成績なら、形式的な面接だけで通る。出願は今月末まで、まだ間に合うけどどうする?」
放課後の教室に二人きり。響は東城と机を挟んで座っていた。
机の上には大学の資料と、響自身の成績表。転入してきてからのぶんだけだが、科目ごとに詳しくグラフ表記されたもの。どちらにも赤ペンで細かく文字が入れてあり、それらを入れているのは真面目に進路面談を行なっている東城だった。
「先生が面談の担当なのって偶然?」
響は机の下で東城の足をコツンと蹴った。
希望があれば、特別転入組の生徒も推薦枠を使うことができる。しかしながら、生徒といっしょに籍を移した元公立校の教師では対応し切れないので、学園側の教師が臨時で生徒と面談を行っているのだ。
「・・・・・・偶然だよ」
口が開いてから答えが出るまでに、一拍、間があった。
「ふぅーん」
「斎藤、真剣に考えなさい。自分の将来のことだぞ?」
「じゃあ、先生が勧めてくれたところでいい」
つまらない。響が適当に返事をすると、東城は話をやめてペンを置いた。
「仕方ないな。おいで斎藤。抱っこしてやるから、あとでちゃんと考えような?」
その声に響は生き返った。
「うん」
誰にでも平等な教師から自分だけの先生に変わった瞬間。これが好き。
響は立ち上がって机の向こう側にまわり、東城の膝に乗った。胸に身体を寄せると、東城はやりたいようにやらせてくれる。響が強請れば何でも与えてくれそうで、『抱く』ことだけはしてくれない。
「先生、キスしたい。して?」
響のおねだりに東城は応える。胸に押し付けた耳の下で重たい心臓の音がして、甘さのなかに苦さを残した熱したカラメルみたいな先生を感じる。
「少しだけだぞ」
静かに返事を返されると、大きな手に頬を包まれて、唇を重ねられた。チュッと優しく吸われる音が鳴り、柔らかく揉むように唇を食まれて、舌が入ってくる。口腔内をぬるりと掻き回し、ひととおりキスを堪能したあと、唇は響の首筋に下がっていった。
「・・・・・・もうすぐ二度目のヒートじゃないか?」
「匂い、する?」
東城は「する」と答え、響のうなじ付近でまたチュッと音を鳴らす。
「いつも、してるが」
すうと匂いを嗅がれ、響は「ンン」と鼻にかかった息を吐いた。興奮じみた声にゾクリとして身をよじると、東城が響の首を覆うそれの金具を甘噛みした。
「なら・・・・・・、先生といるからかも」
「いや、いつもより濃いよ」
東城はうっとりと呟く。
———いちばん最後の大きな変化は、響自身の変化だった。
チャリティー祭が終わった数日後に、響は一度目の発情期を経験した。本格的な発情期の到来を経て、抑制剤に加えてオメガ用の避妊ピルを服用するようになり、あとはプロテクター、噛みつかれ事故防止の『首輪』をつけ始めた。オメガである自覚が強くなったのと、「東城と殿坂以外には絶対にうなじを噛まれたくない」という意思表示でもある。
「発情期中は殿坂に?」
腕に抱かれたまま訊ねられ、響は頷いた。
「うん、そうするつもり」
一度目の発情期は一人では耐えられなくて、殿坂に助けを求め、相手をしてもらったのだ。そのことを東城も知っていて、東城は響が殿坂に抱かれるのを良しとして認めている。
「それなら安心だな。ヒートが終わるまで登下校中はあまり寄り道せずに、露出も控えて、体調の変化を少しでも感じたら無理しないで休むこと。いいね?」
「わかってるよ。ヒートがきたらしばらく休まなきゃいけなくなるから、先生にも会えなくなっちゃうね」
「・・・・・・殿坂がそばに着いていてくれるだろう?」
だがいつも言葉ではそう言うが、時より、どす黒い陰が瞳の中に見え隠れする。
今も響の髪を撫でながら、奥歯を噛み締めているのかもしれない。
響と放課後の逢瀬をするときには、東城は必ず響の身体のどこか見える場所にわざとキスマークをつける。完全に殿坂へ向けたアピールだ。
そんなに嫉妬するくらいなら、意地を張らなければいいのに。響が発情期を起こすようになってからはマスクだけじゃなく、アルファの発情を抑えるラット抑制剤まで持ち歩く徹底ぶり。
でも、そちらが抑えられたからっていいわけじゃない。
響のフェロモンが増えたということは、匂いにあてられた東城のフェロモンだって濃くなっているはず。
オメガの身体は正直で、腰のあたりがむず痒くなり、頭がぼんやりとしてきた。思考回路がふらふらと一方向へとむかい、ゆるく膨らみ出した性器を東城のモノに擦り付けたくなる衝動に駆られる・・・・・・。
「俺がヒートのあいだは寂しいと思うけど、我慢してね。せんせ」
寂しいのは響の方だったが、それを言ってしまうのは悔しい。響は東城の胸を突き放し、膝から降りて席に座り直した。
大学資料の一枚を手に取って、視線を落とし、口を開く。
「先生、面談の続きをお願いします」
声色を変えた響に、東城はホッとしたように赤ペンを手に取った。———ほんと、ずるいよなこの人は。
「斎藤?」
「聞いてます」
響は姿勢を正して東城と向き合った。先生が良い教師であろうとするから、なし崩し的に関係を迫れない。
社会的な立場が自分とは違うから、簡単な話じゃないのはわかるけれど。誘惑するだけ誘惑して、手のひらを返したように一線を引く、陰湿で真面目くさい教師が腹立たしかった。
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