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8,オメガの人生2
その病院は栞ノ葉学園の隣駅にあった。響は見舞い用の花とカゴに入った果物を持ち、待合のソファに座っている。
「響、お待たせ」
響はパッと顔を上げ、気難しい顔で戻ってきた殿坂に声をかける。
「あ、殿坂、どうだった?」
「少しだけなら面会できるって」
「そう、・・・・・・あのね、殿坂、この前も言ったけど純さんを傷つけてほしくはない」
念を押すように口を開くと、殿坂が黙り込む。
「殿坂・・・・・・?」
「ちっ、ああ、一応努力する。ほら行くぞ」
おざなりな返事に溜息を吐きつつ、響は殿坂の背中を追いかけた。
第二図書室で響が襲われたのは昨日のこと。翌日の放課後、響は殿坂に付き添い、純が入院していると偽っている病院に見舞いに来た。
響と純の話を聞いた殿坂は何か思うところがあったのか、眉間に皺を寄せたまま、ずっと考え込んだ顔をしている。
純は学園の人間全体を陥れようと目論んでいたのだから、怒るのも無理もない。響に話を持ちかけたことも怒りの要因だろう。怒ってくれるのは悪い気はしないが、純の気持ちも理解できるわけで、響は複雑な心境だった。
病室までの廊下の途中で響のスマホがブルルと震える。
「どうした?」
「東城先生だ」
殿坂の眉がピクリとかすかに反応を示す。
響がすべてを白状した場に東城もいたので、彼も全ての事情を把握するしだいとなった。
純に対して殿坂が暴走をしないかと、響と同じように心配してくれている。ラットの際には殿坂に一本取られてしまったけれど、実生活では東城の方が年嵩もあり頼れる大人だ。困ったことがあれば頼ってほしいと、事前に連絡先を教えられていた。
「なんて?」
殿坂は微妙に不貞腐れている。
「自分が着いて行かなくて良かったのかって」
「・・・・・・ふんっ、あの過保護教師め」
「ぷっ、殿坂には言われたくないと思うけど」
響が吹き出して笑うと、殿坂の顔はみるみる赤くなった。
「うるせーよ」
「ごめん、待って」
追いかけていくと、殿坂はピタリと立ち止まった。個室部屋のドアの前だった。他の病室とは違った重厚なブラウンのドアを殿坂がノックし、「どうぞ」と聞こえてきた純の声。
響の胸に緊張が広がる。
外で待っているかと聞かれたが拒否し、殿坂と一緒に病室に入った。ベッドでいっぱいになる一般の個室とは大きく異なり、ホテルのスイート並みの豪華さ。ベッドの上には純がいる。
パジャマの上にガウンを羽織って、いかにも病人らしい出立ちで迎えられたが、表情豊かに笑う純に殿坂が息を呑んでいた。
「怒鳴り込まれて掴みかかられるかと思ってたのに意外」
正直、響も意外だと思った。自分が頼んだことだけれど言いつけを守るとは思ってなかった。
「どうしようかと考えてた。一発くらいはぶん殴ってやってもいいんじゃないかとも思った。でもできなかった」
「そうなんだ。痛いことは苦手だから助かったよ」
純の笑みはひょうひょうとしている。
「響くん、大変な目にあったんだってね。アルファの最低さがわかった?」
「純さん・・・・・・!」
響が反論しようとすると、殿坂が純に近寄った。
「殿坂・・・・・・っ」
止めたが遅かった。
「やっぱり一発、ぶん殴る」
と殿坂は低く唸り、純の胸ぐらを掴む。
「殿坂、やめてっ」
響は殿坂を羽交い締めにして引き剥がそうとしたが、身長差も体格差もあるため無意味だった。後ろから抱き着いただけになり、舌打ちをされる。
「響、お前がもっと怒んなきゃダメだろうが! 純さんは響に危険が及ぶのを予想して、わざと樫木田らに近づけたんだぞ」
「え・・・・・・そうなんですか・・・・・・?」
ショックだった。純は否定せず、両目を冷ややかに細めた。殿坂を・・・・・・そしてその後ろの響も含めて睨んでいるように見える。
「ワケを言え」
殿坂は胸ぐらを掴んだまま問い詰める。
「理由なんてない。復讐に必要だからそうしたんだよ」
「ハッ、嘘つくな。嫉妬だろ?」
嘲笑った瞬間、純は「うるさいっ」と声を張り上げ、殿坂の胸を突き飛ばした。非力なオメガとは思えない渾身の力だった。殿坂に抱き着いていた響は巻き添えをくって尻餅をつく。
「ったあ・・・・・・」
「悪い、支えきれなかった。立てるか?」
「うん」
響は涙目になりながら殿坂に抱き起こされる。純は親の仇を見るような顔で響を睨み、プルプルと肩を震わせていた。
「俺、純さんに何かしたのかな」
「してねぇよ。完全な逆恨みだ」
殿坂がベッドの近くに歩み寄ると、純は身をすくめた。
「純さんが復讐すべき相手は栞ノ葉学園でもないし、響でもないでしょ。栞ノ葉学園をどうこうしたって、兄貴は痛くも痒くも思わない」
「・・・・・・黙ってよ」
「響から話を聞いておかしいと思ったんだ。栞ノ葉学園に復讐したい気持ちは理解できた。じゃあ純さんが病気だと偽る理由はなんだ?」
「うるさい」
純は苛々と言い返すが、殿坂は口を止めない。
「あんたは何がしたい?」
「うるさい! うるさいっ!!」
発狂するに近い声。悲鳴。耳を塞ぎたくなり、殿坂を見る。
「ねぇ、殿坂・・・・・・」
殿坂は黙ってろという目線を響に送り、純の答えを待っていた。
肩を大きく上下させながら純はうつむき、鼻をすする。見たところ泣いていないけれど、興奮して声を上げたせいで涙が滲んでいるのかもしれない。
「だって」
純が口を開いた。
「病気のままでいないと・・・・・・黎一はそばにいてくれない」
「やっぱりか。兄貴を見舞いに来させるために、わざわざ入院してるのか? 兄貴は憎い相手じゃないのかよ」
「憎いよ。でも、僕は愛してるの」
問いかけに純は即答した。
「馬鹿みたいって思うでしょ」
大学で会話をしたときのように、純は平気な顔をして笑い、・・・・・・溜息をついた。
「・・・・・・だけど仕方ないじゃん。あの人は僕のたった一人のアルファ。憎んでも憎んでも、嫌いになれない」
響は黙って聞いていたが、純の言い方が引っかかった。
「まさか」
思わず、そう口に出すとすかさず純が反応する。
「そうだよ。あの人は僕の運命の番」
・・・・・・数秒間、病室内の時間が止まった。
「いや、おかしいだろ、運命の番なのに兄貴は他のアルファに純さんを強姦させて回させたのか?」
響も首を捻った。運命の番どうしの吸引力は凄まじい。ころっと心変わりをしてしまった響自身の経験から言ってあり得ない。例外的に東城のようであったとしても、東城は互いの立場を考慮して殿坂に響の相手を任せているだけだ。
純は目を白黒させる二人の様子に冷笑する。
「柊生は黎一に『嗅覚障害』があることを知らないんだね」
「———は?」
響も「え?」と声を上げた。
「まあ、そうか、誰にも言わないよね。黎一は嗅覚障害を引け目に感じていたから。黎一は匂い全般を感じられない体質なの。当然、オメガのフェロモンの匂いもわからない。学園時代に僕を恋人として連れ歩いていたのはそれを誤魔化すため。いいことを教えてあげる。黎一が僕を後援者たちに売った真の理由はね、目の前で大勢のアルファに犯される僕を見て心が動くかどうか試したんだって」
———ひどいと、思ったことが響の顔に出ていたのだろう。純がはじめて明確に苦しそうな顔をした。
「ほんと最低だよね。あんなやつ死ねばいいと思うよ。僕だって、嫌いになれたら嫌いになりたかった・・・・・・」
相手がめちゃくちゃにクソ野郎でも、運命ならば惹かれてしまうという気持ちがよくわかる。でも響はここでも無力だ。
悲しい運命のアルファとオメガ。
惹かれ合うはずのフェロモンが感知できなければ、どんなに奇跡的な星のもとに生まれた二人でも永遠に結ばれることはない。
一方的に狂おしい感情を抱えたまま、———この人は一生こうやって生きるつもりなのだろうか。そんなのは・・・・・・。
「そんな生き方は悲しいです、運命の番じゃなくても純さんを愛してくれるアルファがきっと・・・・・・」
「響!」
殿坂に強い口調で止められ、「どうして?」と反論する。すると殿坂は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「いいから、もう言うな」
「殿坂・・・・・・」
響は口をつぐむ。
帰り際、純が気弱な声で聞いた。
「僕のことを黎一に喋る?」
響は答えられない。隣に視線を送ると、殿坂は難しい顔で純を振り返った。
「いいや、何も聞かなかったことにする。その代わり、あなたの計画も中止してください」
「それって脅迫?」
「・・・・・・好きにとってもらっていいっすけど、腹いせに学園を潰したってあなたの心が晴れないことを、あなたが一番よくわかってるんじゃないの?」
最後の問いに純は何も言わなかった。
病院を出ると、珍しく徒歩で帰ろうと響は誘われた。了承して歩き出したのだが、殿坂は仏頂面でスマホに目を落としてばかりいて、二人の間には無言の時間が流れている。
響は仕方なく通りを眺めて歩いた。
特に変哲もない、ありふれた街並み。帰宅ラッシュに差し掛かった時間帯で、病院に向かう前よりも通行人が多い。
ひと塊に見える彼らもそれぞれ抱えているものがあって、第一次性と第二次性、異なる性の組み合わせを持って生きているのだ。
「どうして俺たちはこうもバース性に振り回されなきゃいけないんだろうね」
駅までの道のりで響はふっと尋ねてみた。
スマホをいじっていた殿坂が響を見る。
「響にとって俺は邪魔な存在?」
棒で殴られたような返しに喉が詰まった。
「・・・・・・そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「そう聞こえたけど」
「ごめん、違うっ」
寂しそうな殿坂の声にあたふたしながら言い訳をし、彼の顔をみるとニヤニヤしている。揶揄われたのだと気がつく・・・・・・。
「バカっ!」
本気で涙目になった。今度は殿坂があたふたする。
「冗談、冗談、ジュース買ってやるから機嫌直せ、な?」
「はあ? 子ども相手みたいなあやし方されたら逆に怒るよ!」
響はフンと鼻を鳴らして歩調を早める。
殿坂に背中を向けると密かに笑みをこぼし、湧いてくる正反対の気持ちにちょっとだけ切なくなった。肉体関係を持ったあとも変わらない、ふざけたやり取りが楽しいと思う。殿坂との時間が自分は好きだ。自分がオメガで、殿坂がアルファだからとか・・・・・・そんなことは関係ない。
けれどバース性に囚われた純を目の当たりにしてしまったせいで、現実はそうじゃないのかもしれないと迷いが出てくる。
単純な感情だけで、この世界の人間の身体は作られていないから。
純は彼が欲しくて欲しくてたまらないものを、すでに両手に手にしている響を妬んだ。羨ましい、ああなりたい。きっとそう思われてしまった。でも人のアルファは奪えないし、彼にとってのアルファは黎一だけ。
あの冷ややかな瞳は響たちの姿を通して「いつかは」と期待してしまう彼自身への失望だったのかも、そして響を同等のところまで引き摺り下ろしたいというささやかな願望が生まれた。
敵意を感じなかったのは、仲間意識のようなものだったからだ。君もオメガなんだから同じはずだろうっていう、負の共通意識。
純には与えられなかったアルファからの愛情。そうして狂わされてしまった彼の人生。アルファはオメガに執着し、オメガはアルファに執着する。いくら離れたいと願っても、響の人生からも両者は出て行ってはくれない。
「響、前見ろ」
「まえ?」
———前?
唐突に言われて前を向く。すっかり暗くなった高架下で、ぼんやりした人影がこちらに合図を送っていた。近づいていくと、人影の輪郭がはっきりとする。
「東城先生? なんでここに? ってあれ、殿坂どこ行くの?」
「帰るんだよ、東城は俺が呼んだ。あとは運命の番の二人で仲良くやれ」
「え、まっ、まって」
殿坂は一人で歩き出し、響から離れていく。
「昨日と今日とで俺もやっと決心できたわ。やっぱりどう考えたって、アルファとオメガは運命どうしで一緒になるのが一番平和なんだよ」
・・・・・・———だから、あるべき姿になるために答えを出さなきゃいけないの?
「昨日の東城の本気のラットを見ただろ? そんならもう東城の気持ちを不安に思う必要ねぇじゃん。良かったな。東城は響のことをちゃんと求めてるよ」
「待ってよ!」
響は殿坂の手を掴んだ。
「東城先生も聞いて?」
響は目を逸らした東城の名前を呼び、二人に告げる。
「俺、どちらとも番にならない」
響が出した答えに二人の表情が張り詰めた。
「なりたくないんじゃないよ。なりたい・・・・・・どっちとも。できるなら二人に噛んで欲しい。でもそれは無理だから、一人しかなれない番は作らない」
「・・・・・・何言ってんだよ響。俺に気を使ってんならやめてくれ。愛してくれる運命の番がいるなら俺は用済みだろ。今度からは俺じゃなくて東城に抱いてもらえよ」
殿坂が目を伏せる。片手で掴んでいた手を振り解かれそうになり、響は両手で強く握り直した。
「自分を代替品みたいに言わないで」
そう言ったあとに、「ごめん違うね」と謝る。
「・・・・・・そんなふうに言わせたのは俺だ。無茶なお願いをしているんだってわかってる。でも俺は二人とも欲しい・・・・・・」
最初から自分の意志は決まっていたんだ。二人と過ごせば過ごすだけ、響は両方を手放せなくなっていた。
強欲な自分に後ろめたさを感じる。だがいつまでも二人が待っていてくれるなんて自分の思い上がりだった。
昨日自分が襲われたとき、二人共が駆けつけてくれて心からホッとした。それは自らが望んでいたカタチが成ったことへの、無意識の安堵からくるものだったんだと思う。
ようやく気づけた。好きという感情はちゃんと遺伝子の外側にある。バース性と感情が結ばれてはじめて、オメガの身体は真に芳しい疼きを感じられる。
運命の番であるとか、アルファであるとか、そういったものはきっかけに過ぎなかった。それを教えてくれたのは殿坂だった。
今、殿坂に手を離されそうになって、離したくないと感じた気持ちが正直な想い。相手が東城でも自分は引き留めるだろう。
番のていを成すための答えなら要らないと思う。そうじゃなきゃ答えとして認められないのなら、出せないのが『答え』。
それじゃ、駄目ですか・・・・・・?
「俺は二人ともが好き。ごめん、ワガママで、でも」
どちらかが居なければ欠けていると感じてしまう・・・・・・。
「二人とも欲しい、か」
響の告白を聞き、殿坂は東城に視線を向けた。
「あんたはどう思う、先生。 はっきり言って俺はバチバチに嫉妬するし、三人の関係を了承したわけじゃねぇ。もし三人の関係になっても、俺は響と番になることを諦めないと思う」
殿坂の気持ちは、対抗心を剥き出しにした鋭い目つきに表れ出ている。しかし響の手前で手加減しているのか、昨日に見せた威圧的なオーラはない。威嚇というよりは、むすっとした顔で睨まれ、東城が目を細めた。
「それは同感だな。アルファである俺たちにとって、目の前に愛するオメガのうなじがあるのに自制し続けることなんて簡単じゃないからね。だからこそ殿坂は身を引いたんだろ?」
「ああ」
ぶっきらぼうに殿坂は頷く。
「殿坂は斎藤のこととなると本当に優しいな」
「・・・・・・ああ?」
「斎藤が抱かれるのを、俺は誰彼構わず我慢していたわけじゃない。お前が斎藤のそばにいない方を選ぶと言うのなら、俺は喜んで斎藤のうなじを噛むけど、本当にいいのか?」
どう聞いても東城の言い方は煽っている。立場が普段とは逆だ。響は東城をまじまじと見つめた。
「先生、そう言うってことは・・・・・・先生はいいの?」
「斎藤が俺を好きだと言ってくれるなら」
東城が低い声で言う。目には獰猛な光が宿っている。
いつもひっそりと陰から送られていた熱い視線。それを真っ直ぐにぶつけられると、焼け付く太陽を間近に見ているようにじりじりと頬が熱を帯びた。
「それならいいも何も、俺たちは斎藤の願いに逆らえない。斎藤のアルファでいるために、俺はどんな試練にも耐えてみせるよ」
「おいおい聞き捨てならないな、変態マゾ教師。俺を勝手に含めるな」
「そうか。じゃあ好きにしろ。勘違いされていそうだから言っておくが、俺の斎藤への執着心はお前よりもはるかに大きいからな。お前が引いても俺は絶対に引かないぞ」
白熱する二人のやり取りを、響は唖然として眺めた。
卒業してからが楽しみだ———と東城に腰を引き寄せられ、殿坂が眉を吊り上げた。
はらはらとドキドキ。
心臓の鼓動が、腹の奥を疼かせる。好きな気持ちが劣情に直結するオメガの身体。すでに欲を抱いているそこが、東城に触れられてキュンとする。
響がたまらず腹をさすったとき、負けじと殿坂の腕が絡んできた。
「せんせ、人に見られちゃうんじゃないの? いーのか?」
「学園生徒で駅前を歩くやつなんて誰もいない。それに、これはじゃれてるだけだ」
「じゃれてるだけだと? はっ、よく言うな」
響を取り合って殿坂側に腰が引かれると、東城が余計に身体を密着させてくる。
「ちょ、二人とも」
腰の上で重なった二人のアルファから伝わる体温。期待で下着が濡れる感触・・・・・・、腰がガクガクと震える。
甘い疼き、早まる呼吸。熱い身体。
・・・・・・卒業するまで、あと少しだ。
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