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恵と正臣
――――…
『はじめまして、田井中恵と申します』
『……ああ』
百年以上前のことだ。私が初めて正臣の下を訪れた日、深々と頭を下げたにも関わらず、正臣はそっけなく返事をしただけだった。
まともに人の顔を見ようともせず、主人専用の書斎で彼は終始私に背を向けたまま挨拶を済ませた。何か指示でもあるのかと思いきや、それだけで終わった。
私を正臣の下へ案内してくれた世話係の老婆が、その後は彼に代わって屋敷の中を案内してくれた。屋敷は二階建ての和風建造物で敷地からして広く、使用人の出入りも多かった。
屋敷の奥に個室を用意されたが、発情期はそれでは防げない。だからその時だけ、正臣に内緒で外にある蔵を貸してもらうことにした。
初日だけお客様扱いを受けた私は、翌日から老婆の後について仕事を教わった。私は普段は女中が行う掃除や洗濯、炊事に配膳などをするようになった。身体を動かすそれは私にとって初めての経験で、大変だったが新鮮さがあり、何より毎日に充実感があった。
その中で正臣と唯一言葉を交わすのが、食事の配膳の時だった。
『旦那様、お食事をお持ちしました』
『……そこに、置いておいてくれ』
『かしこまりました』
向こうは相変わらず寡黙で、交わす言葉も一言、二言程度。また、仕事で屋敷を空けることも多かった。それでも抑制剤だけは忘れず、老婆を通して私に与えてくれていた。
また週に一度、小遣いを貰った。私はなるべく使わずに取っておき、貯まったら家族への仕送りに回していた。
屋敷では様々な人間と関わった。あからさまに私を蔑視する人間もいたが、性で差別をすることなく他同様に接する人間も少なからず存在した。これが私にとっていい刺激となっていた。
ただ、女中に混ざり込んで仕事をしていた為か、βの男性からの誘惑が絶えなかった。当時は髪が長く女性のように結っており、着物も女中と同じものを着ていた。Ωであっても男だからと性の対象にしないβも少なからず存在する為、私を女性と誤認する者も合わさり、いちいちあしらうことが大変だった。
ある日、外で洗濯物を干していた時のことだ。使用人の一人が私に絡んできた。
『お前、Ωなんだろ? 今夜、俺の部屋に来いよ。たっぷり可愛がってよがらせてやる』
品のない口説き文句に誰が靡くというのか。私は男の股間に視線を落としながら、鼻で笑ってやった。
『そんな粗チンで私をよがらせる? はん! 笑える』
発情していなければ、Ωといえど誰彼構わず抱かれるわけではないというのに。元々、引きこもりとはいえ気が弱くない方だった私は口が悪かった。
時代が時代だった。一人で街を出歩こうものなら、たとえ犯されても助けてもらえないという弱い立場だ。そんな苦境にも負けないようにと、兄弟達から悪い言葉、そして態度を叩き込まれていたのが、こんな時役に立っていた。
もちろん、それだけで収まる場合もあれば収まらない場合もあるわけで。
『てめぇ、男かよ! ちくしょうっ! 紛らわしい格好をしてるんじゃねえ!!』
頭に血が上りやすい若い者相手にそれは逆効果。この時は着物の合わせ部分を掴まれ殴られそうになった。だが、そこへ現れたのが……
『おい、何をしている?』
『だ、旦那様っ!?』
正臣だった。たまたま近くを通りかかったからなのか、使用人の声が大きかったからなのか、実にいいタイミングで彼は現れた。
雇われている身の使用人にしてみれば、仕事を放棄していることも発覚してしまった為、私を離して慌てて取り繕おうとした。しかし正臣は厳格な人だった。
『そんなに暇なようなら仕事を与えてやる。隣町へ使いに行って来い』
『そんなっ……!』
当時、隣町へ使いに行くことは、屋敷から出ていくことと同義だった。その意味を知った男は、全てを私のせいにした。
『こ、このΩが俺を誘ったんです! 仕事中だっていうのに発情なんてするからっ……!』
当然、私は発情などしていない。むしろ冷静で、使用人を蔑んだ目で見ていた。そしてその言い訳は正臣に通用しなかった。
『子供じみた言い訳をするな。見苦しい。いいから、行け』
本当は男手が欲しかっただろうに。正臣は力のあるβの男ではなく、手を煩わせることしかできないΩの私を置くことを選んだ。
頭がいい癖に変わった決断をするαだなと、私は思わずその場で笑ってしまった。それを見た正臣がどう思ったのかしれない。それでも、屋敷に置いてもらえたことに私は礼を言った。
『ふふっ。ありがとう、旦那様。ちょっとスッキリした』
『……君も一人になるな』
冷たい物言いだったが、少しだけ嬉しかった。
そしてその日の夜、私は屋敷に来てから初めての発情期を迎えた。
抑制剤を投与していない他のΩよりマシだと言われれば、そうだったかもしれない。でも当人達からすれば、この苦しみを比べることはできなかった。
私はひっそりと蔵に入ると、山積みにされたリネンの上で必死に自身を慰めた。
裸になって胸を触り、後孔に指を埋めて抜き挿しを繰り返す。治まれ、治まれと、一人泣きながら虚しい自慰を繰り返した。
嗚咽を漏らしながら喘いでいると、外から人の声がした。ドンドンと蔵の鉄扉を叩かれ、中へと声がかけられた。
僅かに残る理性で耳を澄ませば、それは聞いたこともない必死な様子の正臣の声だった。
『恵っ!? そこにいるのか、恵っ!』
誰にも来て欲しくなかった。だからわざわざ寒い蔵を選んだというのに。
『ち、ちか……づかな、で……』
外へと届くように張り上げたつもりの声も虚しく、鉄扉を叩く音によってそれは掻き消された。結局、正臣は中に入ってしまったのだ。
『恵……!』
まともに名前を呼んでくれたのはこれが初めてだった。しかしそんなことよりも、早く出ていけと私は履いていた下駄を彼に向かって投げつけた。
『はや、く……離れて……ここに、いさせて……扉、閉めて……はやくっ……』
自分がどれほどのフェロモンを巻き散らかしていたのかなど、知る由もない。しかし普段は冷静な彼が眉を顰めながら私へと近づくのを目にして、さらに涙が零れた。
αの主人がΩに誑かされたとあっては体裁も悪くなる。私は彼から逃げるようにリネンの上を這いつくばった。
しかし彼は、私をあっさりと捕まえた。頭を振って嫌だと抵抗する私に覆い被さると、驚くほど優しい声音であやすように言った。
『大丈夫。もう、大丈夫だから。頑張ったね』
『う……ううっ……ひっく……う、うぅ~っ……!』
こんなに優しい言葉をかけられたのは初めてだった。
私は子供のようにわんわんと泣いた。成人を過ぎていたとはいえ、私は正臣の胸の中で声をあげて泣いた。
あんなに家族に良くしてもらっていたというのに、私はずっと孤独を抱えていたのだ。
辛かった。苦しかった。悲しかった。大好きな家族の負担にしかなれなかった。家族に会いたいのに会うのを我慢していたのは、今後誰にも頼らず一人で生きていけるようになりたかったからだ。
泣きじゃくりながらも発情して止まない私に、正臣は『すまない』と一言謝ってから、私を抱いた。
初めて気持ちがいいと感じるセックスだった。ただフェロモンに当てられ、欲望のままに己を満たす輩と違い、正臣は私が感じるよう一つ一つの愛撫を丁寧に行った。私を物ではなく一人の人間として扱ってくれたのだ。
思えばこの時から、私は彼に惹かれていたのかもしれない。
発情が治まりリネンの上で寝そべる私は気まずさから、脱いだ着物で顔を隠しつつも彼に下駄を投げつけたことを謝った。
どう見ても謝罪する人間の態度ではなかった。助けてくれた礼も短く「ありがとう」と言っただけ。咎められても仕方のない不躾な態度にも関わらず正臣は……。
『身体は大丈夫か? その、無理をさせてしまったと思う……立てそうか? それよりも水か何か飲んだ方がいいだろうな。温かいもの、冷たいもの、どちらがいい? 今すぐ持ってこよう……いや、身体を温める方が優先か……!』
おろおろと落ち着かない様子で私を心配してくれていた。寡黙で冷静な彼はいったい何処へいったのか。そもそもこの人はこんな性格だっただろうかと、まだまだ精神年齢が子供だった私は、そんな正臣へ聞かずにいられなかった。
『旦那様、どうしてそんなに優しくしてくれるの?』
すると正臣は、「え?」と意外そうな反応を見せた。切れ長の目がきょとんと丸くなったのを、可愛いと思ってしまった。
『だって、旦那様。私のことを嫌っていたでしょう?』
そう言うと、正臣は声を荒げて否定した。
『誰が君を嫌うものか!! 私はただ……』
『ただ?』
『ただ……話に聞いていたより、君が……美しくて……』
君が、の後がこの時は聞き取れなかったが、正臣はそのまま、私から目を逸らしてしまった。
顔は隠されてしまったが、黒く短い髪から覗く耳は見事朱に染まっていた。暗い蔵の中でも、それははっきりと見えた。
ああ、可愛いな。
本人の前では絶対に言えないそんな感想を胸に抱きながら、私は正臣の手をそっと握った。
逞しくて、無骨で、大きなその手は……あたたかかった。
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