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外伝「ある破戒僧の愛」中編(2)
僕は、イタリアで将校一家の末弟として生まれた。
父は……というか父「も」女好きで、方々に愛人がいたから兄弟の数は正確には分からない。ちなみに、僕は父の四番目の妻の子だった。
末弟だと理解していたのは、僕が産まれて間もなく、父がオーストリアとの戦争にて死んだからだ。
母が(彼女にとっては)一人息子の僕をとても可愛がっていたことも、僕を疎んでいる兄や姉がいたことも、逆にめちゃくちゃ世話を焼きたがる兄や姉がいたことも、兄弟姉妹が多くて遺産相続がややこしいということも、ほぼほぼ気にせず成長し、ある日、人間相手に恋愛感情を抱かないばかりか性的な魅力も感じないことに気がついた。
……それくらい、情熱というものが僕にはなかった。空や壁を見つめてぼーっとするだけで一日を過ごすようなことも多々あったせいか、母はひたすら僕を心配し、何度も医者に診せたらしい。
その時も、兄や姉は色々言っていたのだとか。
「良いじゃないか義母 上。父上のように方々で子を作るよりはずっとマシだろう」
そう言っていたのはえーと……何番目の兄だったかな。名前はルッジェーロかそこら辺で、陸軍に仕官していたはずだ。
「そうそう、テオドーロはそのままで良いの。顔もすっごく綺麗だし、それだけで充分! あ、今度ドレスを着せてもいい?」
そう言っていたのは……えーと、ロザリア姉様かサマンタ姉様か……まあいいや。ちなみにドレスは着せられた。当然、僕は美しいからよく似合った。
で、僕は特に頭も悪くないから勉強もそれなりにできて、ただ、運動神経だけは格段に悪かった。母が飼っていた犬の散歩中に引きずられていく様を見られ、兄のうちの誰かに軍人は向いていないと断言されたことも覚えているし、僕自身向いてないと思う。あと、僕が軍人になるって聞いたら母は泣くんじゃないだろうか。
将来について(主に母が)あれこれ悩んでいたある日、「そうだ、聖職者になろう」と直感で思い立った。
「テオドーロ。ローマに行っても、母のことを忘れないでちょうだいね。手紙の返事もよろしくね。どうか、元気で……」
「はい、お母様。手紙の返事、忘れてたらごめんなさい!」
「風邪を引かないようにね。あなたは兄達と比べて頑丈でないから、本当に心配……」
「きっと、何とかなります! 軍人よりは生き残りやすいかと!」
「うう、うう……可愛いテオドーロ……戦争になんか行かないで、幸せに過ごしてね……」
「あ、あの、大丈夫ですか、奥様……?」
「ううう……この子……本当に、一人で生きていける……?」
……まあ母には大層心配をかけたらしいんだけど、それはそれ。そんなわけで僕は単身ローマに行き、聖職者になった。
僕は美しいから、聖句や聖書の中身を完全に覚えていなくても笑顔で切り抜ければどうにかなると思ってたけど、ならなかった。
神様は慈悲深いからこれくらい許してくれるよ、たぶん! と舐めていたけど、怒られることは思ったより多かった。想像以上に大変な仕事で、びっくりしたことを覚えている。
「テオドーロ君、話を聞いていたのかね」
「あっ、すみません。司教様がなんで禿げていらっしゃるのか、気になってました!」
こんな感じの言動で、ゲンコツをくらったことは数え切れない。正直でいることは、必ずしも良いことじゃないらしい。
でも、僕は美しいから教徒たちにはそれなりに人気があった。放っておけなくて可愛いということで、女性人気も高かった。当時も人間には本当に関心がなかったんだけど、おかげでそれなりの評価を貰えたから、彼女たちにはとても感謝している。
あとは、実家が昔から教会に大金を寄付していたらしい。まあ……資本主義ってやつだね。
……でも、司祭になってから、壁にぶち当たった。
やることと覚えることが、あまりに多すぎる。
儀式の複雑な手順だとか、教区の運営だとか、人付き合いだとかが、とにかく面倒くさくって仕方がなかった。なんせ、意味を感じない。
すっかり疲れ果てた僕は、野花を愛で浜辺でぼんやり雲を眺めて過ごしたいと思う日が増えた。そんな折に、ふらりと貧民街に迷い込み……「彼女」に出会った。
「やぁ、どうしたんだい。迷子かな」
赤い長髪の、凛とした少女……いや、最初に見た時は、少年に見えたかな。両目を髪で覆い隠していたし、声もハスキーで中性的だったから、余計に勘違いしたのかもしれない。
「仕事に疲れてしまって……」
「それは大変だ。ぼくで良ければ話を聞こう」
にこりと笑い、彼女は僕に手を差し出した。
それまで経験したことがないくらい、胸が高鳴ったことを覚えている。
「ぼくは……そうだね。アンジェラと呼ばれている。きみは?」
そこで初めて、僕は、彼女が女性だと気付いたんだ。
「あ、テオドーロです。街の方で、司祭をやってます。えーと、出身はヴェネツィアの方で……」
「そうかい。よろしく、テオドーロ」
微笑むアンジェラから目が離せなかった。
髪の隙間から覗いた眼が「瞳も結膜も含めて全て真っ黒だった」ことが、さらに僕の気を惹いた。
「ぼくはいつもここにいるから、話したいことがあったらいつでも来てよ。それで、色んな話を聞かせておくれ」
「はい、よろしくお願いします。アンジェラさん!」
それから、僕は仕事に疲れると貧民街の方に向かい、アンジェラと会うようになった。他人にさほど興味を持たなかった僕だけど、不思議なことに、彼女のことは気になって仕方がなかった。
「やぁ、テオドーロ、また来たのかい? まあ、ゆっくりして行ってよ。特に何もお構いできないけれど」
「退屈な話だけはやめておくれ。ぼくはね、面白いことが好きなんだ」
「刺激的な話がいいね。あわよくば喧嘩とか、恋愛とか、そういう話でよろしく。腹を抱えて笑えるやつを頼むよ」
……と、彼女はいつもこう言った感じに、僕に対して「面白い話」をねだった。
好奇心は旺盛だけど、見かけに反して僕よりもずっと大人びていて、落ち着いた雰囲気をしていた。とはいえ、僕の方も歳に比べて子どもっぽいと散々言われていたんだけどね。
「アンジェラ、気になってたんですが……その眼は、一体?」
ある日、アンジェラの眼について聞いたことがある。
「きみ……そんなにサラッと聞くかい? 普通は聞きにくくするものじゃ?」
「えっ、そうですか?」
不快にさせたり怒らせたりしたいわけじゃないんだけど、僕は人の感情というものを推し量るのが苦手だった。
気を付けたいとも思っていたのだけど、ついつい率直な物言いをしてしまう。……それはまあ、今もそんなところがあるのだけど。
「……まあいいよ。隠すものじゃない。ちょっと特殊な能力を持つ一族に生まれて、その能力の発現に失敗したのさ。おかげで、今や人ならざる身だ」
「人ならざる……?」
「おや、信じられないかい?」
悪戯っぽく笑い、アンジェラは髪をかき上げた。白目まで含めて真っ黒な両眼が、陽の光に晒される。
「この通りだよ。本当は片眼で良いはずなのに、両眼を試してなおのことダメだった。……で、副作用で肉体が変質してしまった……というわけだ」
あっけらかんと語りながらも、アンジェラはどこか、寂しそうな影を漂わせていた。
「それは……なんと言うか、大変そうですね。誰にも言わないようにします」
「当たり前だ。きみだから話したんだよ」
「えっ、僕だから? それって、僕が好きってことですか?」
「うーん……その結論は短絡的だね。それなりに好意があるのは事実だけど、恋愛感情というよりは、信頼、かな」
「な、なるほど……! やったぁ! 信頼してもらえて嬉しいです!」
「きみ、さてはボンボンだろう。平和な環境で生きてきた匂いがする」
「えっ? いい匂いってことですか?」
「……ええー……」
当時の僕は、人と会話を噛み合わせることが致命的に下手だった。まあ、今でも「テオドーロ? 話すだけ無駄だ。頭のネジが数本足りない」「あれは真性の馬鹿だ」とか何とか言われるんだけど……。
人と接するための知識が無いわけじゃない。情報を得るのが下手なわけでもない。……ただ、歩調を合わせるのがちょっと、難しいだけなんだ。
「ひたすら逃げて、この貧民街に辿り着いたんだ。盲目だったから苦労はしたけれど……変質のおかげか、今では『視 』えるようになったよ。以前の視界とはまた、違う感覚だけどね」
「……それは、なんというか……苦労してますね……」
彼女が語ったのは、思った以上に過酷な生い立ちで……何を言えばいいのかわからなかったけど、ぬるま湯で生きてきた僕よりも、ずっと苦しい思いをしてきたのだとは理解できた。
「まあね。母様がぼくを逃がしたのも……愛情、というよりは……罪悪感を減らしたかった部分が大きいだろうし。普通なら野犬や強盗の餌食だったはずさ。運が良かったよ」
「それは良かった……! アンジェラに出会えて、僕、すごく嬉しいです」
「イタリア男だねぇ、きみも……」
……と、その時、みすぼらしい姿の女性が、どこからかふらふらと現れた。
痩せ細って骨と皮だけになった手を差し出し、女性はゆっくりと跪く。
「天使 様、どうか……どうか……お救い下さい……」
「……ちょっと待っていてくれ」
アンジェラはそう呟くと、女性の手を握り、すっと目を閉じた。
「……うん……これは、辛いね。大丈夫。すぐに『食べてあげる』から」
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
彼女は自分で語っていた通り、「人ならざる者」だった。人の精神エネルギーを食すことで生きながらえる……人としては命が尽きたはずの存在だと、あとで聞いた。
……これは僕の推測に過ぎないのだけど……彼女は影に宿った「精霊」の使役には失敗したものの、融合することで何かしらの力を得たのかもしれないね。
「また何かあったら来るといい。……だけど、あまり依存しすぎないでね。微量とはいえ、きみの魂を食らっているわけだから」
「はい……本当に、本当に、救われております……」
彼女は決して、その力で人を害そうとはしなかった。むしろ、人々の苦しみ、悲しみといった「感情」を食べ、彼らの助けになろうとしていたようにも見えた。
美しい。
そう、心から思った。
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