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外伝「ある商人の追憶」

 全身の痛みすら、次第に遠ざかっていく。  消えていく意識の片隅で、誰かの叫び声を聞いた。  ああ、俺は、死ぬのか。  弟たちの顔が次々と浮かび、未練と後悔が|過《よ》ぎる。憎しみや悲しみすら塗りつぶすように、深い絶望が思考を満たす。  遠い日々の記憶が、まざまざと蘇る──  ***  親父が死んだのは、突然のことだった。  昨年、妻と義父(俺達にとってはお袋と祖父(じい)さん)を立て続けに亡くしてからというもの、親父はなりふり構わず仕事に明け暮れていたように思う。  そして、ある朝、ぽっくりと逝った。  上の弟が様子を見に行った時には、既に冷たくなっていたらしい。  四つ年下の弟は十四歳。  七つ年下の妹は十一歳。  十年下の弟はたった八歳。  そんな、冬の日だった。 「ひぐっ……おとうさぁぁん」 「エルンスト、泣くんじゃないよ。……これからあたし達、四人で頑張らなきゃなんだから……」 「良いんだ、アリッサ。泣かせてやれ。おまえも泣いたって構わないから」 「……っ、うう……」  号泣する末の弟と、歯を食いしばって涙を堪える妹を、上の弟が懸命になだめていたのを覚えている。俺は葬儀の手配だとか事業の引き継ぎだとかでバタバタしていたが、弟や妹と過ごす時間だけは意地でも作った。  もう、この世界に、きょうだい以外の味方はいなかったからな。  俺は吸血鬼だった。  同じ吸血鬼の祖父さんと相談し、どうにか隠して生きていたけれど、露呈(ろてい)すればどうなるかってことは祖父さんの死で嫌というほど理解した。  ──愛している。健やかに暮らせ  祖父さんはギロチンで首と胴体を切り離され、石を投げつけられ、灰になるまで日光に炙られ、無惨に死んだ。……それでも、消え失せる寸前まで、俺たちのことばかり考えて……  ああ、本当に、愚かで哀れな人だった。  なぁ、祖父さん。俺は、どうしたらいいんだろうな。どうしたら健やかに暮らせる? どうしたら弟や妹を守れる?  ……なぁ、どうしたらいい……? 「兄上、話があります」  親父の遺した日誌を頼りに、危ういながらも事業を続けられていた頃。上の弟……コンラートが部屋のドアを叩いた。 「どうした?」  コンラートは昔から落ち着いた性格で、幼いエルンストが気の強いアリッサと喧嘩をするのをよく諌めていた。  まあ……俺は微笑ましいなと思って見ていることも多かったんだが、本人には何度も「笑ってないで止めろ」と叱られたことを覚えている。 「私は、神に仕えようと思うのです」  その報告には、別に驚かなかった。  ついに決心したか……と、思ったぐらいだ。 「……苦労するぞ? なんたって、血筋が血筋だ」 「だからこそです。今の時代、教会は変革を迫られています。産業革命以降の情勢と教会の価値観は相性が悪く、なおかつ政府からの弾圧もありました。……逆に言えば、今が好機でもあるのです」  俺と同じ灰色の瞳が、ランプの炎に照らされる。  覚悟を宿した瞳は、銀色に煌めいて見えた。 「なるほどな……変革の渦中(かちゅう)に飛び込む気か」 「ええ。私は、祖父(じい)さまや母上、父上の死を無駄なものにしたくない。……不殺を貫いた祖父さまの生き方が崇高なものであると……決して排除されるべき『異端』ではなかったと示せれば、彼の……ひいてはダールマン家の名誉を回復することも、不可能ではないはずです」  俺は祖父さんの死を哀れな惨死と考えていたが、コンラートは違ったらしい。  ……崇高、ねぇ。まあ、捉え方は人それぞれか。  コンラートは真面目な少年だった。……もっと正確に言うと、多少無理してでも「真面目であろうとする」奴だった。  俺は新聞でも大事なところや気になるところしか読まないんだが、コンラートは全文通して読んでるような奴だ。……神に仕えると決めたのも、じっくりと考えてのことだろう。  ああ、でもな。急いで大人になろうとしていたって、コンラートはまだ、たった十四やそこらのガキだ。  見えていない現実が、あまりに多すぎる。 「俺たちの家系で教会に飛び込むってことは、今までと比べ物にならないくらい偏見の目に晒されるってことだぞ。どれだけいびられるか……」  こいつが努力して知識をつけ、自己研鑽(けんさん)を重ねているのはわかる。だが……現実を理解するには、経験が足りない。悪意や敵意は、理屈じゃどうにもならないってのに。 「……理解しています」 「いいや、分かってない。この前、エルンストがクソガキどもにボコられたのを忘れたか? お前がやろうとしているのは、そういう連中に丸腰で挑むようなものだ」  親父もお袋も、はみ出し者だった。  片や没落貴族、片や被差別民族……だからこそ、俺達は家族で支え合って生きていた。  家族の元から離れることは、敵とたった一人で向き合うことを意味する。……つったって、俺だってまだ若造だ。守れる範囲には限界があるんだがな。 「……それは……。……確かに人々の心は、荒れています。ですが……ですが! 神は、我々を見捨ててなどいません。神の愛の前に、人はみな平等なのですから……!」 「……人はみな、ねぇ……」  俺と祖父さんは、「人」じゃないんだぞ?  その言葉は、どうにか飲み込んだ。 「イルゼはどうする。恋仲だろう」  コンラートより少し年上の、幼馴染の少女が思い浮かぶ。神に仕えるってことは、彼女を捨てるってことだ……と、言おうとしたんだが…… 「こ……っ!? ち、違います!」  コンラートは真っ赤になって反論した。  なんだ、まだ手を出してなかったのか。俺の弟にしては|初心《うぶ》だな。いや、神に仕えると決めてたならそれもそう……なのか? 「それに、イルゼが好きなのは……その、私ではなく……」 「ああ……お前が一方的に好きだったのか。それは、悪いことを聞いたな」 「い、いえ……」  コンラートはちらと視線を俺の方に向け、躊躇いがちに落とした。……ああ、そういうことか。  俺はそれなりにモテる。……ってよりは、血を吸うためにたらし込んでいる、と言った方が正しい。 「遊び」のどさくさに紛れてちっとばかし血をいただくのは、案外バレないもんだ。大した量が必要なわけでもないしな。  で、イルゼも俺と「遊んでくれた」女の一人だ。  真面目なコンラートのことだ。俺と関係がある時点で想いを告げるのに抵抗があったのかもしれない。もしくは、俺と違って遊び慣れていないぶん、イルゼが本気で俺を好きだと勘違いしてるのかもしれないが。  ……神学の道に進むなら、想いは告げずに胸に秘めたままになるか、諦めるかって感じか。こっそり遊ぶって選択肢はなさそうだしな。  つっても、兄貴としちゃ「たまにはいいだろ」ってそそのかしたい気持ちもそれなりにある。怒られるだろうが。 「もう腹が決まっているんなら、俺が反対しようが無駄か」  コンラートは普段大人しいが、一度決めたことは頑として譲らない。既に覚悟を決めているのなら、俺がいくら止めたって無駄だろう。 「ただ、時々は帰って来いよ?」 「もちろんです。兄上も、どうか無理だけはなさらず」  微笑むコンラートの頭を撫で、抱擁する。コンラートは「子ども扱いしないでください」と文句を垂れていたが、大人しく抱き締められていた。  俺がこいつのためにできるのは、俺自身も祖父さんと同じ「化け物」だとバレないよう振る舞うことだけだ。……当然、これまで以上に気を付けないとな。  ***  それから10年近く。コンラートは毎年帰省していたし、アリッサの婚礼にも立ち会った。  末弟のエルンストは遺伝学の道を志し、俺も彼にだけは吸血鬼であることを明かして研究に協力した。  俺は信頼のできる娼婦としか遊ばないようになり、血を貰う代わりに金も多めに払うようにしていた。  そんなある日、コンラートが所属する教会で襲撃事件が起こったと聞いた。  安否が分からない日々が続く中、一通の手紙が届く。  掠れや書き損じが酷く、それでも確かにコンラートのものとわかる丁寧な筆跡で、言葉が綴られていた。 『兄上。私も、祖父と同じだったようです。  血が欲しくて堪らず、太陽の光が(いと)わしく感じます。  私はおそらく、近日中に処刑されるでしょう。  兄上には、多大な負担をかけてしまうことと存じます。  私が至らぬばかりに、本当に申し訳ありません。』  コンラートはおそらく、俺と違って吸血鬼の特徴が出にくかったんだろう。俺も、祖父さんも気付かなかったぐらいだからな。  あいつは人間として生きることができたからこそ、吸血鬼としての処世術を一切身につけられなかったわけだ。  見捨てるしかなかった。  せめて、俺だけは吸血鬼だとバレないようにして、残されたエルンストとアリッサを守る道しか、俺には選択できなかった。  後日、教会からは「傷の治療を受けていたコンラートが死んだ」と、「表向き」の報が届く。  アリッサとエルンストが悲嘆にくれる中、俺は、嫌な予感を拭えずにいた。  誰かに見張られているような、後をつけられているような気配を感じ始めたのは、その頃からだった。 「ねぇ、聞いてよギルベルト兄さん……。ウチの旦那がね、変な人に『コンラート・ダールマンの所在を知らないか』って聞かれたらしくて……」  アリッサが零した愚痴から、調べられていることを察する。  内容からすると、コンラートは処刑される前に逃げ出したのだろうか。……いや、むしろ、そうであって欲しい。  もちろん、コンラートを想っての感情だ。  だが……それ以上に、見捨てた自分への罪悪感が膨れ上がり、心を圧し潰しつつあった。  あいつはなぜ、苦難を覚悟してまで神学の道へ進んだのか。  無論、俺達家族のためだ。  俺だってそうだ。家族を守るために必死で働いて、腹の探り合いや蹴落とし合いだらけの世界で生きている。  だが、俺は、そうまでして守ろうとした存在を切り捨てた。  ──情けないことだが、「私」はお前を見捨てる他ない。……すまない  綴った手紙の内容を、未だに覚えている。  他人行儀な文章を、あいつはどう思っただろう。  仕方がないと飲み込んだかもしれない。当然のことだと、恨むことはなかったかもしれない。  いいや、恨んでくれた方がいい。どうして助けてくれないのかと、泣いて罵ってくれた方がいい。  静かに受け入れて、断頭台へ赴く姿の方が、想像したくない。  返事の手紙は来なかった。書く暇がなかったのか、それとも、書く前に……  ……考えたくもない。どうか、逃げていてくれ。生きていてくれ。  そうでなければ、俺には到底背負いきれない。  その焦りが良くなかったのか。 「その日」は訪れてしまった。  他人を金で黙らせる場合、もっと大きな金が動けば事態はすぐにひっくり返る。  娼婦の告発によって、俺自身も吸血鬼であると発覚し……こうして、数多の銃弾に倒れることになった。  吸血鬼は人間にとって脅威……か。それも、おそらくは間違っていないのかもしれない。  けれど、エルンストは仮説を立てていた。俺達吸血鬼は、人間の進化の過程で飢餓や戦乱に耐えられるように生まれたのだろう、と。……コンラートあたりは猿からの進化論より神による創造論の方がしっくり来てはいるだろうが、創造論(そっち)でも似たような理屈は付けられる。  だが、その力が活用されることはなかった。人類は過ぎた力を排除する方向に舵を切り、俺達は誤った進化、誤った創造の結果として……安全を脅かす生命体として、滅ぼされるべき「異形」と判断された。  死の間際において、痛みも、憎しみも、悲しみも、全てがどうでも良くなっていく。  生きたい、死にたくないという願いさえ、絶望に染められていく。  走馬灯のように廻る記憶が、奥底の感情を呼び覚ます。  ダールマンの家業を継いでからというもの、コンラートは俺を家長として扱うようになった。兄弟というよりは、どこか、一線を引いた関係に変わった。  アリッサも困った時には俺を頼りにしていたし、エルンストは、俺を憧れの存在と口癖のように語っていた。  あいつらは俺にとって希望であり、重荷だった。  ああ、もう、疲れちまったよ。  ゆっくり眠らせてくれ……。

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