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11月 2

 翌日晃嗣は、持って行くべき書類があったので、午後一番に営業課のフロアに向かった。食堂で桂山暁斗を見かけたので、先日の礼を言っておきたかったのもある。彼はメールをくれていて、状況を逐一報告してもらわなくてもいいけれど、困ったと感じることがあれば遠慮なく話してほしいと書いていた。  桂山は部屋の奥まったデスクでパソコンに向かっていた。自分が営業に出向きたいタイプらしいが、部下に育ってもらわないといけないので、取引先の指名が無ければ会社にいることも多いと聞く。  営業課の部屋は閑散としている。昼一番に約束のある担当者が多いのだろう。感染症が蔓延した最初の年は、営業課の連中には自宅待機の期間もあり、それが明けても直接得意先に出向くことも憚られ、皆しゅんとしていた。それを思うと、この様子は喜ばしいことである。 「あ、柴田さん」  桂山が気づいてくれた。ふと、この人は若い部下が風俗店で副業をしていることを知っているのかと気になる。割と課の人間をよく見ていると桂山は評価されている。朔は副業を隠していると話したが、何か察してはいないのだろうか。  晃嗣は年末調整の書類が入った封筒の束をまず桂山に手渡した。 「今年もよろしくお願いします、課でまとめて人事にお持ちください」 「はい、もうこの季節が来たんですねぇ」  桂山はのんびりと言いながら、少なくない封筒の束を受け取った。  この会社の年末調整書類の配布は、早いほうだと晃嗣は思う。9月後半になると、生命保険などの控除に必要な書類が個人のもとに集まり始めるので、それを失くしてしまわないうちに提出してもらおうということらしかった。 「それで、多少楽しい出会いはありましたか? 神崎さんからお礼のメールが来ましたから、お問い合わせはされたのかなと」  桂山に言われて、晃嗣は表情を動かさないように、はい、まあ、と応じた。 「スタッフさんが恋人ごっこにつき合ってくれそうです」  桂山はにっこり笑う。 「料金分楽しんでください、贅沢な遊興です」  目の前の真面目そうな営業課長が、あのデリヘルとどうしても繋がらない。まあ晃嗣も課では真面目だと言われているので、周りにバレたら同じように思われるのかもしれないが。 「あの……桂山課長」  晃嗣は少し声を落とす。桂山ははい、と小さく応じた。 「指名されてたスタッフさんがパートナーになったのは何故なんです……か?」  桂山はちょっと目を見開き、そうですね、と至極真面目に考えてくれた。 「いろんなことが重なった結果だと思います、私は彼に出会って初めて自分がゲイだとわかってガチ恋でした、彼はその頃恩人かつ恋人だった人を亡くして……タイミングが大きかったのかな」  晃嗣はガチ恋という言葉に、マスクの中で口許が緩んだことを自覚した。自分がそんな恋愛をしたのは、いつが最後だっただろうか。相手に恋心がバレないように必死だった大学生時代か……妻帯者に騙されかけた初夏も、そこそこときめいていたか。 「指名したスタッフにそんなニュアンスがあるんですか?」  桂山は興味を覚えた様子だった。貴方の部下なんですけど、と口から飛び出しそうになる。ああ、話してしまいたい……。 「えっと、ガチ恋になるかどうかわかりませんけど、とても可愛い子が来まして、声も良いのでいい感じで」  晃嗣の返事に、桂山はそうですか、と自分のことのように楽しげに言った。  一応勤務中なので、晃嗣はその場を辞した。営業課の、誰もいなくても何故か明るい雰囲気が懐かしかった。人と接するのが好きな者が楽しく働く場所は、自然と空気が明るくなるのだ。  晃嗣がエレベーターホールに出ると、ちょうど下からエレベーターがやって来た。上に向かうボタンを押して待っていると、開いたドアの中に1人男性が立っていた。 「あっ」  思わず声が出た。ジャケットを左腕に掛けた高畑朔は、マスクの上の目を丸くしながらエレベーターから降りてくる。外回りから帰って来たのだろう。 「こんにちは柴田さん、俺に会いに来てくれたの?」  周りに誰もいないのをいいことに、高畑はボリュームも落とさずさらりと訊いてきた。はあっ? と晃嗣は声を裏返す。 「い、いえっ、桂山課長に年調の書類を配布するようお願いしに来ただけです、高畑さんも早目の提出をお願いします」 「ねんちょう? あ、年末調整ね、もうそんな時期なの?」  あたふた敬語で話す晃嗣に対して、高畑はやけに鷹揚に話した。これではどちらが年上なのかわからない。 「柴田さん、また後でメール送るけど、来週の水曜日の指名ありがとうございます」 「あっ、その話は」  晃嗣はどきっとして、思わず周りに目を配った。エレベーターホールでの会話は、意外と近くの部屋に聞こえるのだ。高畑はきれいな形の目に笑いを浮かべる。 「こないだから思ってるんだけど、柴田さんって可愛くね? そのキャラ前面に出したほうが良くない?」 「は? いいんだよ、俺は二度と接客も営業もしないんだから」  やや混乱した晃嗣は、訊かれてもいないことを口にしてしまう。思わず俯くと、くすくす笑う声が降ってきた。 「営業してたんだ、もったいないなぁ……まあ俺だけ知ってるってことでもいいけど」 「……別に隠してるつもりはない」  晃嗣が顔を上げると、高畑は少し首を傾げた。 「そんな顔しないでよ、綾乃さんに柴田さんを困らせるなって言われてるんだから」  どうしようもない。会社でこの男に遭遇すれば、困惑しか無いのだから。彼はあくまでも楽しげに、言った。 「水曜日どこ行くか決めておいてください、思いつかないようなら連絡くださいね、ではまた」  高畑は軽く会釈して、営業の部屋に入って行った。その背中を見送っていた晃嗣は、我に返ってエレベーターのボタンを押す。誰も使っていなかったらしく、ドアはすぐに開いた。  ああ、心臓に悪い。晃嗣はどきどきする胸に手をやった。営業課のフロアに、みだりに来てはいけないと考える。会社で高畑に会うと、どんな顔をすればいいのかわからない。  人事部のフロアに到着すると、表情筋が勝手に緩んでいたことに気づく。晃嗣はポーカーフェイスを決めこみ、エレベーターから降りた。

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