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11月 3 ①
デートコースの当日、晃嗣は朝からそわそわと時計ばかり見ていた。自分が処理できる仕事をどんどん片づけつつ、急な仕事を回されて突発残業が発生しないようにと、半分祈るような気持ちである。
晃嗣に与えられた時間は決して長くない。会社から近いと誰かに姿を見られる可能性を否定できなかったが、確実に20時に待ち合わせることができるよう、上野で会うことにした。ベタではあるが、まず食事をして、公園を歩き、再度コーヒーを飲んで解散。金曜ならナイトミュージアムを楽しめたのにと思うと残念だが、まあこれは仕方がない。
さくは上野駅集合に異論を唱えなかった。さく……高畑朔の自宅は確か、社員名簿上では阿佐ヶ谷かその周辺だったと晃嗣は記憶する。彼は会社帰りには来ないと思うが、営業課は水曜にあまり残業が無いのだろうか……営業の連中の出勤記録を見る限り、そんなことは無い筈だが、OKしてきたということは、時間を合わせる算段があるのだろう。
「柴田さん、今日早く帰りたい用事でもあるの?」
課長の瀬古 が、次々と書類を処理する晃嗣をやや驚いたように見ていた。晃嗣は平静を装って、はい、まあ、と曖昧に答えた。瀬古はちょっと笑う。
「急ぎの用件ももう無いから、たまには柴田さん定時で上がって」
晃嗣は自分の残業が多いことを承知している。瀬古課長を筆頭に、家庭を持つ社員の割合が高いからだ。恋人と過ごしたい社員もいる。独身で、結婚する予定も無い自分が多少仕事を被れば、皆平和に過ごせるというものだ……そう考えている。残業代も出るのだから、文句は無かった。
「あ、ありがとうございます」
今日は素直にそう応じた。有り難い職場である。
一度家に帰ることができたので、晃嗣は着替えてから上野に向かった。ごちゃごちゃと人の多い駅構内を早足で歩く。不忍口の改札を出て、レストランが沢山入るショッピングビルに向かう頃には、晃嗣の胸は緊張と期待でどきどきしていた。
さくの姿がビルの入り口に見えた。嬉しくて走り出しそうになってしまう。桂山が口にしたガチ恋という言葉が頭の中に浮かんだが、否定する。恋ではない。それは、小学生の頃にみんなでヒーローごっこをした時のときめきに似ていた。これから俺は、「可愛らしい恋人と楽しいデートごっこ」を始めるのだ。あの頃無敵のヒーローになれたように、今から俺は自分史上最高に幸せな男になる。
「こんばんは、今夜のご指名ありがとうございます」
マスクの上の目に笑いを浮かべたさくは開口一番にそう言い、深々と頭を下げた。彼は姿勢を戻して、晃嗣を覗きこむ。
「一度家に戻られたんですか、残業無かったんですね」
「……きみはどうなの? 残業」
「僕は水曜は自主的にノー残業デーにしてるんです」
さくは社内で顔を合わせた時とは違い、丁寧な敬語で話す。もちろんそのこと自体は「さく」のキャラとして好ましいのだが、彼が何を考えているのか、やはり晃嗣にはよくわからない。
早速、予約しているイタリアンのレストランに向かう。好き嫌いは特に無いと聞いていたので、おまかせコースを頼んでおいた。甘さを抑えた白ワインも、さくのお気に召したようで、乾杯したあと彼は美味しい、と吐息混じりに言った。
「デートコースのご指名久しぶりなんですよ、僕お客様とお喋りするのが好きだから嬉しいです」
そう、と晃嗣は応じた。さくが楽しげに見えるのは、演技ではないようだった。
「感染症が拡大したら申し込みにくいコースかもしれないね」
「そうなんです、あと男と連れ立ってるのを誰かに見られたくないっておっしゃるお客様も多いし」
晃嗣は高校生の頃には、自分がゲイである自覚があった。カミングアウトして生きる人は増えたが、その頃も今も、本質的に周りの目はあまり変わっていないと思う。
同性が好きな者は、相手をいつも密やかに探し、恋人同士になれたとしても、周りに拒まれないかどうか不安に駆られなくてはいけない。一時の戯れの相手なら尚更、他人に知られたくないだろう。
「綾乃さんから話を聞いた時、柴田さんはゲイだと知られてもいいってスタンスなのかなと思いました」
さくは口許に柔らかい笑いを浮かべた。晃嗣は苦笑する。
「……別に周りにバレても何も変わらないんだけどな」
「うちの会社はかなりそうですよね、5、6年前まではそうでもなかったらしいですけど」
「そうなんだ」
前菜がやってきて、さくはいただきます、と言いながら手を合わせた。嬉しそうな顔が晃嗣には眼福である。
「美味しい?」
「はい、イタリアンも久しぶりです」
これまでの人生で高級レストランをほとんど使ったことがない晃嗣なので、この店もそんなにお高くはない。しかし十分、食事も雰囲気も満足できるレベルである。さくはにこにこして話につき合ってくれるし、素直に楽しいと思った。
「柴田さんって僕と同期入社なんですよね?」
スープのスプーン片手にさくが訊いてきた。海老のビスクは野菜の風味もして、美味だ。
「うん、タイミングよく中途採用してもらえた」
「前の会社ではずっと営業だったんですか?」
「うん、営業成績はそんなに良くなかったけどね」
さくはスープにゆっくりと口をつける。転職した理由を尋ねられると晃嗣は思ったが、彼は意外な方向に話を運んだ。
「柴田さん僕のこと新卒と思ってらっしゃるでしょ?」
「……え?」
「僕転職歴あるんです、授業の合間に東京に出てきて必死で就活して、やっと内定貰った会社、1年で辞めました」
晃嗣は軽く驚き、5歳下の彼の年齢が、新卒で自分と同期入社として計算したら、微妙に合わないことに気づく。
「エリカワも現役の頃に面接まで行ってたんです、でも仙台支社に配属されそうだなって思って辞退しました……それで次の年に結局東京で入社してるという」
「東京で働きたかったってこと?」
店員がパスタの皿を持って来た。さくはスープを完食していなかったが、下げてくださいとさらりと言った。全て食べるとメインまでに腹が膨れると思ったのかもしれず、メニューも伝えておけばよかったと晃嗣は軽く悔やむ。
「はい、僕の実家は郡山で大学は仙台でしたけど、言っても働く場所はそんなに多くないですから」
大学生の頃から、晃嗣の周囲には東北の人が多い。春日部市に実家がある晃嗣にとっては、大学や就職先が東京になるであろうことはごく当然だったのだが、東北地方出身者にとってもそうだということらしい。
きのことベーコンの秋らしいパスタは、ワインに良く合った。食べる手を止めてしまわない程度に会話が進む。さくは転職した理由を、思っていたより職場の雰囲気が良くなく、仕事も楽しくなかったからだと、あくまでもあっさりと話した。
晃嗣は彼のグラスにワインを注いでやりながら、言った。
「俺も上が代わって課の空気が悪くなったのが引き金になったな、やっぱ雰囲気って大切だ」
晃嗣も微笑しながら話したが、実情は笑い事ではなかった。新しくチームリーダーになった男は、訴訟沙汰になりかねなかった自分の大きなミスを、サブリーダーだった晃嗣のやったことだと報告したのだ。晃嗣が主担当を務めていた取引先とのトラブルだったために、上層部はその報告を鵜呑みにした。
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