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11月 3 ②

 チームのメンバーの3分の2は、リーダーの嘘を見て見ぬ振りをした。そうしなかった3分の1のうち、リーダーに物申した数名は、あからさまに重要な案件から外されたり、産休の取得を決めているのに支社への転勤を命じられたりした。晃嗣の目の届かない場所でパワハラを受け、心身に不調をきたした若い社員もいた。  自分にほぼ責任の無いことで針の筵に座るのもさることながら、自分と自分の仕事を信じてくれている同僚が嫌がらせを受けるのを見ることに耐えられなくなり、晃嗣は退職願を書いた。  それに、晃嗣のミスだと信じて疑わず、罵声を浴びせてきた取引先の担当者たちの態度にも失望した。主担当としてお叱りを受けるのは当然だとしても、3年も緊密に接してきたのに、例えば「柴田さんのやったことじゃないんですよね?」といった言葉も無かったのが悲しかった……それは甘えでしかないと理解しているつもりだったが、晃嗣の営業への情熱は一気に冷めた。それで転職活動を始めた時、人と接する仕事を徹底的に避けたのだった。 「柴田さん、酔いましたか? 大丈夫ですか?」  さくの声に我に返る。晃嗣はつい、自虐の笑いを浮かべてしまう。 「申し訳ない、前の職場のことなんかつい思い出してた」  パスタをフォークに巻きつけていたさくは、晃嗣への視線に同情のようなものを混じらせてくる。 「いえ、いろいろあったんですよね……何か察してしまいました」 「別に命に関わるようなことじゃない、今は思い出のひとつだよ」  晃嗣の言葉に、さくはきれいな形の唇をほころばせた。 「柴田さんってきっと溜め込むタイプですよね、昼間は同僚の僕相手じゃ話しにくいですか?」  話せば気持ちが軽くなると、さくは言ってくれているのだった。このデートコースを使う客が精神的な癒しを求める時、スタッフたちは一時的なカウンセラーになってくれるのだ。  晃嗣はいや、とかぶりを振った。 「前の会社の話だから聞かれるのは全然構わないよ、でも食事が不味くなりそうな話題は避けたいんだ」 「溜め込む人ってだいたいそう言うんですよね……楽しくない話だからきみの気分を悪くしてしまう、とか」  さくはふふっと笑う。人の気持ちを手玉に取るような言い草がやや腹立たしいのに、話してしまいたいような気になってしまう。  トマトで煮込んだ鶏肉と、ミニトマトの赤やモッツァレラの白が映えるグリーンサラダが運ばれて来た。トマトとにんにくの香りが食欲をそそる。さくはおいしそ、と言いながら手を合わせた。 「無理に今聞き出しません、だってその気になれば柴田さんとは昼間に会えますから」  晃嗣はさくの言葉に困惑を覚えた。客とスタッフだから、こうして会っているのではないのか。 「さくさん、きみはどういう立場で俺に接してるんだ? 昼間は他人なんだろう?」  晃嗣はナイフとフォークを手にして、言った。さくはそうですねぇ、と首を傾ける。 「ま、けじめのない行動は避けたいです」 「互いのために当然だ」 「綾乃さんに叱られますしね……でも何というか、昼休みにたまに一緒にランチとかはアリじゃないですか? 僕が外にいる時は無理ですけど」  普段晃嗣が食堂で独りでいることが多いと、知っているような口ぶりである。彼は鶏肉を口に入れ飲み下してから、ああ、と何か閃いたような声を出した。 「今僕は確かに、ディレット・マルティールのさくとして柴田さんに接してますけど、基本的に……昼間の自分と夜の自分をそんなに切り替えてないんです」  それがさくの仕事に対する姿勢であるならば、否定する気は晃嗣には無かった。取引先で商品を売り込むのも、ホテルでピロートークをするのも、彼にとってさしたる違いはないということなのだろう。  ただ晃嗣がそれをすんなり受け入れられるかと言えば、そうではない。 「会社できみと俺が急に親しくしていたら不自然だろう? 俺は誰からも気にされてないけどきみは違う、女子社員がざわめく」 「え、そんなの放っとけばいいじゃないですか? 僕は女子と喋ったり遊びに行ったりするのは好きですけど、寝ませんよ」 「そういう意味でなく……」  晃嗣はひとつ息をつき、トマトの酸味と鶏肉のやわらかさを味わう。さくは言葉を切ってしまった客を急かすこともせず、サラダにフォークを入れている。  彼はきっと器用なのだろうと思う。自分の副業がきっかけで、晃嗣と自分が恋人ごっこをする契約(そんな言葉がこの関係には相応しかった)を結んだ。この事実を、他人の目から隠しおおせる自信があるのだ。 「ちょっと噂になるのも面白くないですか? 歳の離れた2人が、部署も違うのにどこで接点ができたのか、最近よく一緒にいる……」  さくの他人事のような言い方に、晃嗣は小さく溜め息をついた。 「この会社は副業を禁止していないから、そこがバレてもきみがクビになることはないね……困るのはゲイバレすることだけか」 「どうしてバレると決めつけるんですか」 「目敏い人は多いよ」  さくは顔から笑みを絶やさない。全く、何を考えているのだか……晃嗣のときめき混じりの戸惑いと困惑は、深まるばかりである。  2人してメインをきれいに平らげると、店員が飲み物のオーダーを取りに来た。さくがコーヒーを頼むので、晃嗣は同じものを、と告げた。 「ああお腹いっぱいです、幸せ」  ほんのりと頬を染めたさくが本当に幸せそうなので、晃嗣は自分を捕らえていた困惑を忘れてしまいそうになる。  すぐに小さなチョコレートのケーキとコーヒーが来て、さくは自分は割と甘いものが好きで、営業先でお菓子を出されると嬉しいと笑顔で話した。こんな顔で喜びを示されたら、取引先の担当者も嬉しくなることだろうと思う。 「さくさんは人が好きなんだね」  晃嗣の言葉に、さくはそうなのかもしれないです、と他人事のように応じた。 「でもそれは……」  彼が言いかけて言葉を切ったので、晃嗣は続きを待ったが、彼は黙ってコーヒーに口をつけただけだった。  デザートも全て胃袋に収めると、ちょうど腹ごなしに散歩に行きたくなる気分になった。晃嗣はさくがトイレに立った間に、カードで食事代を支払った。こちらが払うとお互い認識している場合でも、相手に気を遣わせないタイミングで速やかに会計を済ませる。晃嗣が前職で教えてもらったことのひとつである。  さくは店を出ると、晃嗣に頭を下げた。 「ごちそうさまでした」 「いえ、どういたしまして」  このショッピングビルは変わった建ち方をしていて、最上階に行くと上野公園に出ることができる。晃嗣はここを使うのが初めてだったので、外に出て広がった景色に、思わずおっ、と言った。空気はだいぶ冷えていて、ワインの余韻が醒めそうだった。 「寒くない?」  晃嗣は自分よりも薄手のコートを着ているさくに訊いた。大丈夫ですよ、という言葉とともに、さくの形の良い目が笑う。  ああ、楽しい。晃嗣はさくと並んで歩き始めた。特に目的も無く、ライトアップされた建物を流し見しながら、ゆっくりと一緒に歩く。それだけなのに、こんなに楽しいのは何故だろう。晃嗣は自分が理想とする時間の過ごし方をすることができて、幸せとしか表現しようのない感情に、頭の中をふわふわさせていた。

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