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11月 4 ①

 翌日、晃嗣は上機嫌で出勤して、瀬古課長や周りのデスクを使う連中から、早く帰って良かったねとからかい半分の言葉をかけられた。晃嗣は常日頃周囲から注目を浴びることは無く、絡みにくいキャラという立ち位置をキープしているため、昨夜何か楽しいことがあったのかとは誰も尋ねてこない。  しかし晃嗣は内心、昨夜の幸せな2時間について、誰かに聞いてほしくてたまらなかった。上野公園でゆったりと歩きながら、朔とお互いの子どもの頃の話をして、初恋の男性のことを披露し合った。晃嗣は中学3年生の時の若い担任に恋心を抱いた。朔は血の繋がらない年上の従兄が好きだったという。でもこれまで交際したのは、年齢が近いか年下の男ばかりで、何故かあまり長続きせず、株式会社エリカワに転職してからは特定の恋人はいないらしい。  そんな話をしながら、あまり人が歩いていない場所で、朔は晃嗣の右手をそっと左手でとり、優しく握ってくれた。サービスの範囲内とわかっていても、彼の少し冷えた手は、愛おしさと呼べそうなきらきらした泡を、晃嗣の胸の中にぽこぽこと生み出した。  朔が薄着で手を冷たくしているのはやや気になったので、最後の30分は上野駅構内のファストなカフェで温かいものを飲んだ。晃嗣は自分の思い描いていたデートコースを、ほぼその通りになぞることができたことにも、朔が終始楽しそうな表情と声で接してくれたことにも大満足だった。  楽しいことがあると、仕事への意欲も高まるものらしく、晃嗣は昨日に引き続いて、すべきことに集中できた。だから今日は昼休みの始まるチャイムが鳴ると、すぐに社員食堂に向かうことができた。  日替わり定食のコロッケに箸を入れながら、やはりいい子だなと朔のことを思い返す。ディレット・マルティールで副業を続ける理由を、何だかんだ言ってもお金は必要で、将来年金も貰えるかどうか怪しいから、稼いでおくに越したことはないでしょう、などと彼は話した。しかし半分は、自分を指名してくれる客のためだと彼が考えているのはわかっていたし、どうも福島の実家の父親が、持病を持っていて長時間働くことができないため、かなりの額の仕送りをしているようであることもわかった。  朔が晃嗣から金を引き出すために、巧みに話を盛っている可能性も無きにしも非ずだ。だが夏に既婚者に騙されかけた晃嗣は、皮肉にも他人の嘘に対するアンテナの感度が高まっていた。また、転職してから養った他人を客観視する習性から判断しても、朔がまるっきり作り話をしている訳ではないと思う。  晃嗣はコーンサラダを口に入れ、次回はエッチ込みの指名かなと思う。やっぱり上手だからな、今度は是非口でしてほしい。そんなことを考えていたせいか、背後に座る社員たちの会話がやけに鮮明に聴覚を揺らした。 「高畑どうしたの? 俺あいつ休むの初めて見るような気がするけど」  朔が休みだという情報を捕らえた晃嗣は、嫌な感じにどきりとした。 「さっくんいつも元気ですもんね、吐き下しが夜明け頃から止まらないって電話してきたそうですよ」 「うわぁ、悪いものでも食ったのかな……可哀想に」  彼らの話の内容に、思わず箸が止まる。 「あいつ午後から予定あったよな」 「ひとつは花谷さんが回って、もうひとつは桂山課長が行くみたいです」 「おお、課長が出るんだ」 「今日午後からみんな忙しいですもん」  晃嗣は後ろをちらっと見て、名前はすぐに思い出せなかったが、そこにいる男女が営業課の人間だと確認した。  高畑朔に異変が起きている。その事実は、晃嗣に軽いパニックをもたらした。まさか、昨夜のイタリアンのせいか? しかし生ものは野菜のサラダしか出ていなかったし、自分は何ともない。  昨夜は結構寒かった。朔は大丈夫だと言ったが、冷たい手をしていた。忙しく疲れている時に身体を冷やせば、胃腸にくることもあるかもしれない。無理をさせたとは思いたくなかったが、何にせよ晃嗣は、一人で浮かれていた責任を感じる。  コロッケ定食をさっさと平らげて、人事部のフロアに戻った晃嗣は、自動販売機でカップのホットコーヒーを買いながら、朔に連絡を取ろうかどうか迷う。ディレット・マルティールの個人アドレスは、原則としてスタッフから客への送信専用だ。神崎はそう説明したし、昨夜朔も同じことを言った。……そう言えば、まだ彼からアフターのメールが来ていないではないか。メールを送れないくらい身体が辛いのだろうか。 「柴田さんどうしたんですか? コーヒー出てますよ」  晃嗣は声をかけられ、我に返る。怪訝な顔をした後輩が、コーヒーを買う順番を待っていた。 「ごめん」 「いえ、こんなとこで考えごとなんて、らしくないですね」  心配されていることが伝わってきて、申し訳なくなった。自分の調子が悪い訳ではないことをアピールしておく。 「知人が体調を崩したみたいで……連絡も無いし、独りだからちょっと心配で」 「そうなんだ……休んでらっしゃるんじゃないですか? しばらくしてからもう一度連絡してあげたらどうですか?」  もっともである。晃嗣は彼に礼を言い、コーヒー片手に自分のデスクに戻った。  晃嗣はふと思いついた。ディレット・マルティールのアドレスが駄目なら、会社のアドレスはどうだろうか。営業担当は、会社からスマートフォンを1台持たされていて、休みの日でも持ち歩いていることが多い。そのスマホから、仕事のメールの送受信をすることも許されている。朔の会社のアドレスに、自分も会社のアドレスでメールを送れば、余程のことでなければ気づいてくれる筈だ。

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