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11月 4 ②

 晃嗣はキーボードを叩き、人事部の共用フォルダにアクセスする。そして全社員の社用アドレスが掲載されているデータを開いた。営業部営業課の高畑朔を探し、彼のアドレスをクリックする。  この会社では、社から送信されるメールを、たまに総務課がチェックしている。私用メールかどうか、ぱっと見では判断できない文面で手短に書いた。 「体調を崩して休んでいると聞きました。大事ないでしょうか。取り急ぎ。」  自分のフルネームを書いて、送信した。これだけのことなのに、やけに緊張した。こんなメールを、総務課から突っ込まれることもないだろうに……。  晃嗣の胸のうちに、私用メールをしたことへの罪悪感は、一切無かった。これをきっかけに、朔との関係を周囲に知られたらどうしようという恐怖感は少しある。しかしそこに、微かなときめきのようなものが混じっていた。……面白くないですか? 耳に心地良い朔の声が脳内に小さく響く。人事の柴田と営業の高畑って接触無さそうなのに、このメール何? 総務課の誰かがそんな風に言ったら、確かに少し面白いかもしれない。  パソコンの画面に新着メールが来た数字が表示された。高畑朔の名前に、晃嗣は椅子の上で飛び上がりそうになった。 「ご心配いただき恐縮です。だいぶ楽になりました。明日は出勤できると思うのですが。」  出勤できますと断言していないのが、昼間のやや人を食った態度の朔には似合わない気がした。歯切れが悪い辺り、本当はかなり辛いのでは? しつこくメールのやりとりをすると、本当に総務に目をつけられそうなのと、朔の負担になりそうなので、それ以上返信はしなかった。  昼休みが終わり、給与計算の準備を始めた晃嗣だったが、業務に集中できないことを自覚する。……朔が心配だった。  家に様子を見に行く。自分の思いつきに晃嗣は勝手にときめいた。しかしそうするには、社員の個人情報を覗き見するという、コンプライアンス違反をしなくてはならない。  人事課に所属する晃嗣のパソコンからは、パスワードひとつで全社員の名簿の閲覧が可能である。それをいいことに、気になる社員の自宅の住所を見てそこに押しかけるなんて、相手に拒まれ訴えられたら懲戒免職に直結する。  晃嗣は両隣に座る連中に、業務に集中していないことがバレないよう、積まれた書類を無意味に手にとってみる。自分と朔の関係を晒す危険を極力回避して、彼の住所を調べる正当な理由は無いだろうか。  その時部屋の扉が開き、営業課長の桂山が軽い足音を立てて入ってきた。彼は申し訳なさそうに、忙しいのにごめんなさい、と入り口に近い場所に座る晃嗣に話しかけてくる。晃嗣は対応すべく立ち上がった。 「うちの高畑がお腹を壊して寝込んでるんですよ、電話の様子がちょっと心配で……」  桂山の言葉に、晃嗣は動揺を必死で抑え込み、少し声を上擦らせて答えた。 「あ、お昼休みに営業の人たちが噂してましたね、心配そうでしたよ」 「そうなんです、いつも元気なだけに私も気になって……彼の自宅方面に今から回るので、急ぎで渡したい書類もあるし、詳しい住所を教えてもらうのは……まずいですか?」  晃嗣は何というチャンスが訪れたのかと、桂山に抱きつきたいくらいだったが、少し渋い顔をしてみせた。 「そうですねえ、好ましくはありませんね……でも桂山さんは直属の上司ですし、高畑さん本人が良いなら……」  桂山と朔の関係が良好なら、問題ないだろうと思う。桂山は微苦笑した。 「ああ、嫌われてたらまずいですね……ちょっとLINEしてみます」  スマートフォンを出した桂山に、複数の女子社員が色めき立つ。 「桂山課長優しい〜」 「えっ、普通じゃない?」  桂山は返したが、少なくとも普通ではない。優しいのはもちろんだが、フットワークが軽く、発想が柔軟だ。取引先に行った帰りに、その近所の部下の家に書類を持って見舞いに行こうなどと、考えない人のほうが多いだろう。  同部署だから、連絡用に桂山と朔がSNSで繋がっていても不思議ではないのに、晃嗣は朔にLINEをさくさくと送る桂山が羨ましくて仕方がなくなった。 「……寝てるのかな、いつもレス早いんですけど」 「さっくんトイレから出られないんじゃないですか?」  桂山の言葉に、女子社員たちがどさくさに紛れて話に参加してくる。  晃嗣は先ほどすぐに返事をくれた朔が無反応というのも気になって、桂山に彼の住所を教える決断をした。個人情報を流したことで後から何か言われるのは嫌なので、瀬古に報告しておこうと思う。……そして自分も、それこそどさくさに紛れて、朔の自宅を確認し訪ねるチャンスを得る。  晃嗣は社員名簿を開き、高畑朔の自宅の住所とプライベートの携帯番号を、コピーアンドペーストした。そして桂山の社用メールアドレスに送信する。 「ありがとうございます、もちろんこれは軽々しく扱わないようにしますし、本人に会えて説明できそうならしておきます」  桂山は生真面目さを見せて、言った。晃嗣ははい、と応じた。桂山は取引先に向かうべく、すぐに出て行く。  晃嗣は15時になるのを待ち、周りのデスクが喫茶休憩の買い物でほぼ無人になってから、桂山のためにコピーしたデータを、こっそり自分のスマートフォンの地図アプリに登録した。そしてあまり経験したことのない興奮に囚われる。データは朔の寝起きする場所を示した、何の変哲もない文字情報にもかかわらず、晃嗣にとっては、得難い宝が隠された秘密の部屋に自分を導く暗号のように思えた。  社会や、所属してきたコミュニティが決めているルールを破るのは、真面目に生きてきた晃嗣にとって絶対悪である。晃嗣は職権を乱用し、部下思いの一社員の善意を利用して、好きな男の個人情報を我が物にした。悪用する目的の有無の問題ではない。  やらかした、と晃嗣は思う。大げさだろうが、背徳的な喜びとは、こういうものを指すのかもしれなかった。

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