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11月 5 ①
桂山はわざわざ17時頃に出先からメールを送ってきて、朔に会い書類と飲み物を手渡すことができたと教えてくれた。
これだけなら晃嗣は、安心して帰途についただろう。しかし桂山は、朔が一日で窶れたように見えたなどと、余計な情報を寄越した。本人は明日は出勤すると言ったが、何も食べていないようだから心配だとも。
30分だけ残業して、晃嗣は会社のビルを出た。これだけ情報を得ておいて朔の様子を見に行かないなんて、薄情に過ぎる。晃嗣はそう考えて自分を正当化し、路線情報のアプリを立ち上げた。
晃嗣は混雑する中央線に揺られながら、朔が何も口にできないというのが気になるので、レトルトの粥でも持参しようと考えた。体調が悪くて食欲が無くても、プリンは無性に食べたい時があることも思い出す。プリンかゼリーも持って行ってやろう。
阿佐ヶ谷の駅前の高級スーパーで買い物をして、地図アプリの画面を見ながら、晃嗣は朔のねぐらを目指す。歩いて10分もかからない場所に、住所と同じ名のマンションが現れ、よし、と晃嗣はひとりごちた。
ぱらぱらと帰ってくる住人に紛れて建物に入っても良さそうだったが、セキュリティを突破されて部屋の前でインターフォンを鳴らされるのは自分も嫌なので、晃嗣は緊張しながら、呼び出し口で朔の部屋番号を押す。
出てほしいようなそうでないような複雑な気分を持て余していると、すこし間が空いてから、はい、と朔の声が響いた。晃嗣は思わず肩をびくりと震わせた。
「あっ、たっ体調良くないところ、ごめんなさい……人事課の柴田です」
「えっ? 柴田さん? マジ? ちょっと待って、開けます、どうぞ」
すぐに自動ドアが音を立てて開いた。許可してくれたことだけで、晃嗣は足が軽くなるのを感じた。意気揚々とエレベーターに乗りこむ。
もう訪問の許可を貰っているのに、いざとなると晃嗣はおそるおそる、部屋の前のインターフォンを押す。チンコン、と高い音が鳴り、3秒後に鍵が開いた。
「わぁ、会社帰りに来てくれたんだ……嬉しい」
ドアの向こうに姿を見せた朔は、スウェットの上下を身につけて、髪をややくしゃっとさせていた。昨夜とは随分と違う雰囲気だが、晃嗣はこういう彼も悪くないと思う。
「夕方桂山課長来ただろ? 住所無断で教えて申し訳ない」
晃嗣は自分が何をしに来たのかを思い出し、スーパーの袋を差し出した。朔は一瞬戸惑って、それを受けとる。
「いや、課長の持ってきてくれた書類、明日要るから助かったんだ……おおっ、あっためるだけのお粥」
「課長から朔さ……高畑さんの様子を聞いて……少しでも口にしないと明日出勤できないよ」
晃嗣は朔が立ち上がることができるとわかり、かなり安心した。確かに冴えない顔をしているが、言葉もしっかりしているし、大丈夫そうだ。
「昨日寒い中連れ回したのも良くなかった、本当にごめん……とにかくお大事に、また話はあらためて」
晃嗣がその場を辞そうとすると、朔は待って、と晃嗣のコートの袖口を掴んだ。その力の強さに、どきっとする。彼は低く言った。
「柴田さんのせいじゃないんだ」
「え……あ、だとしても……」
朔の明るい色の瞳に、何か真剣な光があるので、晃嗣はどうすればいいかわからなくなった。
「ちょっとだけ上がって行ってよ、コーヒー淹れるから」
朔に言われて、断れる訳がなかった。それでも躊躇っていると、彼は言い足す。
「今朝アフターのメールも送れなかった、その代わりだと思って」
晃嗣は小さく頷き、靴を脱いだ。そこは小さなダイニングスペースで、その奥に広い目の部屋がある。右手にベッド、左手に机。その傍には細長い本棚があり、話題を用意するのも大事な仕事である営業担当らしく、様々なジャンルの本が並んでいた。
小綺麗に暮らしているのだなと、晃嗣は感心した。物は多くないが、晃嗣の殺風景な部屋と違い、人の暮らす温かみがある。
晃嗣は勧められるままにダイニングの小さな机に座ってマスクを外し、電気ポットのスイッチを入れる朔の背中を見つめた。
「もうトイレに出入りするのは治まったんだ、熱ははなから全然無いし安心してよ」
朔は自分は感染症ではないと言いたいらしかった。一番最近の感染拡大時、社内でもかなりの数の者が欠勤した。総務部と人事部は感染者や濃厚接触者を把握するのに振り回されて、晃嗣は感染することへの特別感がやや麻痺してしまっている。
「ああ、それ思いつかなかったよ」
晃嗣は肩を竦めた。朔は小さく笑う。
「それ駄目じゃん」
「そう? 感染したんじゃないならいいとして、昨日食当たりするようなもの食べたかな……俺は何ともないんだけど」
朔はインスタントコーヒーをマグカップに入れた。彼が沸いた湯をそこに注ぐと、良い香りが鼻腔をくすぐった。
朔はグラスに、桂山が持って来てくれたというスポーツドリンクを注いで、椅子を引く。
「海老かもしれない」
「海老?」
「俺軽く甲殻類アレルギーあって」
晃嗣はマグカップを持ったまま朔を見つめた。そして昨夜のメニューに思い当たる。海老のビスクだ……だから半分残したのか。
「どうして先に言わないんだ」
スポーツドリンクを飲む朔に、晃嗣は言った。
「知っていたらレストランに話した、対応してくれた筈だ……アナフィラキシーで倒れたらどうするんだ」
朔はきょとんとする。
「柴田さん大げさだなぁ、たまにあることなんだ、丸一日休んだのは初めてだけど」
「全然大げさな話じゃない!」
ことの重大さに気づいていない朔が腹立たしくなり、晃嗣は強く言った。
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