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11月 6 ①

 晃嗣が自宅まで見舞いに行った翌日、朔が朝一番に出勤して、その日の午後の大切な会議にもきちんと出席したという話を、桂山営業課長がメールで教えてくれた。  桂山はコンプライアンス違反の誹りを受けるリスクを冒して、晃嗣が部下の自宅の住所を教えたことに、感謝の気持ちを述べてきた。桂山の部下への愛に便乗して朔のマンションに押しかけた晃嗣としては、むしろこちらが感謝を伝えたいくらいである。朔も資料を受け取れて助かったと言っていたので、全方位めでたしと思うことにする。  そうこうするうちに、晃嗣の朔に対する気持ちは、濃い色を帯びて膨らみ熱を持ち始めていた。数年前に実家の母が、乳房のエコー検査で複数の嚢胞を指摘されたと話したことを思い出す。嚢胞が大きくなったり、熱を持ったりするといった変化は危険な場合があるとかで、それ以来母は年に一度検査を受けているようだ。……俺の朔さんへの気持ちは、もう癌になりつつあるということかもしれない。晃嗣はそんなことを考える自分に、自嘲を禁じ得なかった。  残念ながら、あれ以降会社の食堂で、昼休みに彼と遭遇したことはない。確かにたまにはランチを一緒に摂りたいところだが、原則定時に昼休憩をとる人事課の者が、営業の社員とそれを叶えるのは難しかった。  ディレット・マルティールでさくを指名すれば、確実に1時間は彼と2人きりになれる。しかし給料日までは、余裕があまり無い。……大体あいつ、あんな思わせぶりな態度を取るなら、自分から少しくらいアクションしてくれてもいいんじゃないのか。それが恋人ごっこの線引きということか? 晃嗣は勝手に軽くイライラする。右手の中のシャープペンシルの芯が、音も無く折れた。  株式会社エリカワの健康診断は3日間、午前中におこなわれ、人事課では自分の都合の良い日時に、業務に支障が出ないように行けと指示が出ていた。  例年のことではあるが、採血や胃のレントゲン検査に合わせて、朝食抜きで出勤することが辛い。早く済ませて何か口に入れたいので、その日晃嗣は朝礼が終わるとすぐ、問診票を持ち会議室に向かった。幾つかの会議室が健診の会場として使われていた。  最終日だからか、受診している社員は少なく、検尿から始まった基礎検診はどんどん進む。心電図と内科の問診の部屋に移動すると、一人一人にかかる時間がやや長いので、採血後の止血バンドを腕に巻いた数人の男女が、椅子に座り待機していた。  あっ。晃嗣は待機の最後尾に座る男性の姿を見て、会いたくて仕方がなかった人物だと瞬時に悟る。ひとりでに顔が熱くなった。どうしよう、誰も来ないから、彼の次に並ばなくてはいけない。晃嗣は嬉しさと困惑に同時に襲われた。部屋から出て来た看護師に、うわの空で問診票を渡す。 「あ、柴田さん、おはようございます」  朔は横にそっと座った晃嗣ににこやかに言ってきた。晃嗣もやや緊張しながら返す。 「おはようございます、体調も戻ったみたいで何よりです」 「はい、その節はお気遣いありがとうございました」  朔はマスクをしていてもそうとわかる爽やかな笑顔を絶やさない。彼の向こうに座る広報課の女子社員が、誰だったかなという表情で、晃嗣の顔を確認していた。  朔の前に待機していた3人が一度に部屋の中に消えて、その場には彼と晃嗣だけが残された。はい息を吸って、とか、ブラジャーは上げるだけでいいですよぉ、とかいう医師や看護師の声が筒抜けである。 「柴田さん胃のレントゲン受ける?」  朔は口調をラフなものに切り替えた。晃嗣はやはり面食らったが、話が出来るのが純粋に嬉しくなってきたので、躊躇が霧散した。 「受けるよ、どうして?」  朔はマスクの上の目を笑いの形にする。 「あっ良かった、一緒に行こうよ」 「まあこの流れだと、たぶん最後まで一緒に行くことになると思うけど?」  さほど面白いデートではなさそうだが、一緒にと言われるとむずむずする。朔の声はマスク越しでも耳に心地よくて、検診車への誘いでもときめいてしまった。 「あのレントゲンの車、乗ったら息苦しい感じがして好きじゃないんだよね」  朔は口調に自虐のようなものを交えた。晃嗣はなるほど、と思う。 「一昨年は俺、レントゲン受けずによそで胃カメラしたよ……そんなしんどくなかったし精度も高いし、来年はカメラにしたら?」 「……でもそのために病院に行くのも嫌」  病院嫌いなのか。この間、吐き下しが止まらず辛かっただろうに、朔が病院に行かなかったことに納得した。 「高畑さん、柴田さん、どうぞー」  先に入った2人が出てくると、部屋に入るよう促される。晃嗣と朔は、カーテンで巧みに仕切られたスペースの右手と左手に分かれるよう誘導された。  心電図を先に済ませた晃嗣のほうが、部屋を出るのが早かった。待機の椅子に座っている社員たちの視線を避けるため、ゆっくりとエレベーターホールに向かい、朔が追ってくるのを待つ。 「お待たせしました」  朔は早足でこちらにやって来た。すぐにレントゲンを受けるからだろう、彼はネクタイを外していた。襟元から覗く鎖骨につい視線がいってしまう。彼はエレベーターを呼ぶべくボタンを押した。 「心電図の機械つけられただけで緊張した、あれで心臓に所見ありとか言われたら嫌だなぁ」  晃嗣は少し驚く。こう見えて怖がりなのだろうか、普段の言動からは考えられない。 「ほんとに病院とか検査が嫌いなんだな」 「ん、嫌い」  エレベーターで1階に降りて、社用車が並んでいる駐車場へ足を運ぶ。検診車がどかんと2台停まっていて、まず手前の車で手早く肺のレントゲンを撮った。  後ろの車に向かうと、ちょうど検査が終わったらしい社員が、お先ですと言いながら、カーテンを揺らして出てきた。そこから顔を覗かせた看護師が、2人とも入ってくださいと明るく声をかけてくる。いつも元気な筈の朔が口をきかなくなってしまったので、晃嗣は笑いを堪えた。  検診車独特のぶるぶるというエンジン音が耳につく。男2人が入るのが限界の狭いスペースで、下着以外の全てを脱ぎ、検査着に着替えるよう指示された。午後の業務に支障が出てはいけないので、晃嗣は朔の下着姿を目に入れないようにしながら、自分もそそくさと丈の長いぺらぺらの検査着を羽織った。朔はやはり無言で、励ましか何かの言葉をかけてやるべきか、迷う。 「先にやる? とっとと済ませたほうがいいだろ?」  ほぼ同時に着替えが済んだので、晃嗣は更衣スペースのカーテンを開けながら訊いた。朔は口を開きかけたが、同じことを看護師も尋ねてくる。 「どちらが先になさいます?」 「あ、私行きます……」  朔は小さく答えて、炭酸の顆粒を少量の水で飲み下し、すぐにバリウムの入ったプラスチックのコップを手渡された。白い液体を少し見つめてから、心を決めたように目を閉じて飲み始める。晃嗣だってできれば飲みたくない代物なので、気持ちはよくわかった。  晃嗣は嫌々バリウムを飲む朔を観察することを、密かに楽しんでいた。ぎゅっと目を閉じて不味さに耐えている顔や、仕方なしに上下する喉仏にさえも色気がある。左の拳は彼の忍耐を象徴するように、固く握られ白くなっていた。晃嗣はそこに触れて慰めてやりたい衝動に駆られる。  朔は人気のデリヘルスタッフだが、彼の客で彼のこんな姿を見た者はまずいないだろう。そう考えると、奇妙な優越感が身体の奥から這い出してくる。  バリウムを飲み干した朔に、看護師がティッシュの箱を差し出した。朔は2枚それを取り、上唇についた白い液体を拭いたが、その光景が晃嗣の性的な想像を掻き立てる。……今度は口でやってもらう。朔がちらっとこちらを見たので、晃嗣はいやらしい妄想を必死で脳内から振り払って、彼に頑張れ、と声をかけた。 「げっぷしばらく我慢してくださいねー」  看護師に言われながら朔はレントゲン室に入った。黙って頷く朔の顔色が心なしか白くなったように見えたので、晃嗣は彼に同情し、一瞬おかずにしたことを申し訳なく思った。

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