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11月 6 ②
中でがちゃがちゃと音がし始めると、看護師は晃嗣にも炭酸と水を手渡した。
「高畑さん辛そうでしたね、柴田さんもこれはお嫌いですか?」
中年の看護師は朔への同情を声に湛えて、言った。晃嗣は好きではないですと答えた。
「健診で胃カメラがスタンダードになってくれたらいいのになと思います」
晃嗣は炭酸と水を喉に流し込む。一気に胃が膨らむのがわかる。空気が食道に上がってくる不快感と闘いながら、看護師からバリウムを受け取った。
「これを飲まなくていいだけで、ファイバーのほうが楽でしょうね」
どろどろした液体がなかなか喉を通らないので返事ができなかったが、彼女の言う通りだと思う。追加料金が必要なオプション扱いだとしても、選択できるならカメラを選ぶだろう。
晃嗣がバリウムを飲み終わると同時に、レントゲン室の小さな扉が開いた。撮影の前に寝返りを数回打たされたせいか、髪を少し乱した朔が、ふらっと出てきた。足元が危なっかしくて、口許を拭いた晃嗣は思わず立ち上がる。
朔は晃嗣の顔に焦点を合わせ、真っ直ぐにこちらに歩いてきた。看護師が晃嗣より先に声をかける。
「高畑さん、大丈夫?」
その時朔の上半身が揺れたので、晃嗣は咄嗟に彼のほうに進んだ。3歩目で朔の身体を抱えることになり、看護師があっ、と言ったのが背後で聞こえた。
朔は晃嗣に抱きついて、げふっ、とひとつ乾いた大きな音を立てた。そしてぎゅっと抱きついてくる。互いの薄い検査着越しに、朔の温かくてがっちりした身体を意識し、晃嗣の心臓が跳ねた。
「朔さ……高畑さん、大丈夫か」
驚いて口を開いたので、晃嗣もげっぷをしてしまいそうになり、ぐっと息を詰めた。胸がどきどきするのもあって、かなり苦しい。
「……大丈夫、ぐるぐるしたから目が回ったみたい」
朔は何やらほっとしたような口調で言った。晃嗣は身体が火照りそうになるのを自覚しながら、朔の背中を軽く撫でてやった。ちょっと愛おしく思う。すぐに離れてほしいような、ずっとこうしていたいような、複雑な気分だった。
朔を心配したのか、中から技師まで出てきた。
「高畑さんはちょっと休んでから帰りましょうね、柴田さんは検査いけますか?」
晃嗣は冷静になれと自分を鼓舞し、看護師に朔を引き渡した。そしてばくばくする心臓を宥めながら、技師と一緒にレントゲン室に入った。
「柴田さんはこの検査で気分が悪くなったことはありますか?」
「いえ、無いです」
げっぷを堪えるのがかなり辛いので、晃嗣は自発的にレントゲン装置の足あとマークの上に立った。早く済ませて、朔を営業課のフロアに無事に送り届けたかった。
レントゲン装置の上で散々おかしな格好をさせられた後、お疲れさまでしたと言われて、晃嗣は胃から空気を思いきり放出した。部屋から出ると、着替えた朔が更衣スペースに座っていた。
「すみません柴田さん、みっともない姿を見せました」
朔は殊勝な口調で言った。看護師の目を意識しているらしい。
「仕事に戻れる?」
「大丈夫です、全部終わったから安心しました」
晃嗣はよかった、と言ってカーテンを閉め、検査着を脱いだ。何となく朔に背中を向けながら、スラックスに足を入れようとすると、何かが腰の辺りをさわっと撫でた。
「……ひゃっ」
その感触に心底驚いた晃嗣の喉から、変に高い声が出た。
「柴田さん? どうかしましたか?」
看護師がカーテンの向こうから訊いてくる。思わず振り返ると、朔がにやにやしながらこちらを見上げていた。晃嗣は囁き声で彼をたしなめる。
「……何だっ、前触れもなく触るな」
「じゃあ触るって予告するならいいの? 触るよ」
同じように囁いた朔は、言いながら晃嗣の太腿を撫で上げた。その指先の感触が背筋にまで伝わって、ぞくぞくする。晃嗣は声を抑えるために、思わず右手で口を塞いだ。
「感じやすいんだなぁ」
朔の笑い混じりの小声に、晃嗣は赤面してしまう。慌ててスラックスを腰まで上げた。
「こんなところでやめろ! 何考えてるんだっ」
晃嗣は壁ぎりぎりまで下がって朔と距離を取ろうとしたが、いかんせんこのスペースは狭かった。晃嗣がベルトを直していると、朔が立ち上がり覆いかぶさろうとしてきた。
「……っ! やめろ馬鹿! 何をっ」
晃嗣は声を必死で絞る。朔は晃嗣の左の耳に唇を近づけて、低く言った。
「ぎゅっとさせて」
「はぁっ⁉︎ えっ……」
晃嗣はシャツ姿のまま朔の腕に包まれてしまう。
「……こないだと今日のお礼」
柔らかい声で囁かれて、晃嗣は抵抗できなくなった。朔の身体は温かくて、筋肉質なのに柔らかい。それに何となくいい匂いまでして、晃嗣の頭の中にふわりと薄靄が広がった。……気持ちいい。
「高畑さん、柴田さん、お帰りの時に下剤渡しますねー」
看護師の声に我に返った晃嗣は、朔の身体をぐいっと腕で押した。
「はいっ、すみません、もう出ますっ」
晃嗣はワイシャツを取り上げ、慌てて袖に腕を通す。朔は笑いを堪えながら、晃嗣の着替えを見つめていた。
まったくこいつは! 晃嗣は軽く朔を睨みつけた。それさえ可笑しいらしく、朔は黙って肩を揺する。晃嗣はネクタイを掴んで、カーテンを開けた。看護師がにこやかに、お疲れさまでしたと言って、2人に下剤を2錠ずつ手渡した。
「お水は最低200ccは飲んでくださいね、下剤は量を調整してください……問診票はここで回収します」
混乱して言葉がすぐに出ない晃嗣に代わって、朔がにこやかに応じた。
「お世話かけました、どうもありがとうございました」
「いえいえ、高畑さんはお昼までに少し何か口に入れたほうがいいかもしれませんね」
低血糖を疑われているのか。晃嗣は頭の中をわちゃくちゃさせながらも、看護師の言葉を分析していた。この間の海老アレルギーといい、朔には心配な要素が多い。
マスクをつけて検診車から出ると、女性たちが待っていた。だから自分たちが着替えている時に誰も入ってこなかったのだと晃嗣は理解し、戯れていて素早く着替えなかったことを申し訳なく思った。
外は良い天気である。あまり寒くもなく、気持ち良かった。朔はビルに戻る道すがら話しかけてくる。
「柴田さん、俺のことなら心配しなくていいよ……俺子どもの頃から病院そのものにいい印象が無くて、それっぽい空間に行くのも検査されるのも嫌いなだけだから」
晃嗣は足を止めて、朔の顔を見つめる。もう顔色は戻っていた。
「極度の貧血や低血糖じゃないんだな?」
「うん、少なくとも去年まではそんなことは言われてない」
そうか、と晃嗣は呟いた。ビルの裏の出入り口に辿り着き、自動ドアが開く。
「悪戯したから怒ってるの?」
朔は晃嗣の横に並び、覗き込むようにしながら訊いてきた。怒っている訳でもなかったが、すぐに調子に乗るのでお灸を据えておこうと思い、ちょっと、と晃嗣は小さく答えた。朔はそっか、とぽつりとこぼす。
「柴田さんは真面目だからこういうのは駄目か……」
「節度を持った恋人プレイを希望します」
自分で言って、何となく胸の深いところにつっかえるものがあった。最後の3口くらいが喉になかなか通らない、バリウムのように。
エレベーターがやって来た。朝の挨拶をしながら、これからレントゲンを受ける社員数名が降りていく。晃嗣は朔と一緒に、空になった箱に乗り込んだ。
3階に着くと、朔はまたね、と軽く言って降りた。エレベーターホールに誰もいなかったので、晃嗣は顔の横で小さく手を振り、彼を見送る。扉が閉まってから、お昼をどこで食べるつもりなのか尋ねなかったことを、悔やんだ。
5階でエレベーターを降りた晃嗣は、自動販売機で水を買って、その場で下剤を飲んだ。……ほんとに恋人ごっこでいいのか。ネクタイをワイシャツの襟の下に通しながら自分に問うてみたが、答えはすぐ出て来そうになかった。
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